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可能性の枠をはずすことは、わたしたちの偉大さを見つける一歩。

頭では分かっていると思っていたことが、ふとしたとき、ああそうかと理解にいたることがあります。ここでは便宜上「可能性」という言葉をつかっていますが、ほんとうは、もっとちがう言葉のほうが適しているかもしれません。

信じることを受け入れているということ

たとえば偉人の伝記を読むと、こうした人々はとくべつになるべくして生まれたかのように思えてなりません。ひとにぎりの天才たちは、まるで、生まれたときから雲の上にいるかのよう。

一方で、わたしが自己評価をたずねられたなら「きわめて平凡な人物」と、こたえるだろうと思います。自分を冷静に見つめ、適格に判断するからこそのこたえ。同じようにこたえる人も少なくないかもしれません。でも実は、このこたえこそが、ほんとうはとても傲慢なのかもしれないなと思ったのです。

偉人といわれる数多くの人たちに共通するのは、すぐれた偉業へのひたむきさです。人格的に優れた人々は、誰もがもっている力を引き出そうとしています。偉人のひとことは、ほんの数行であっても、世紀をこえて人々を勇気づけています。

わたしたちもまた偉人たちと同じように動き、話している

わたしたちの行動やひとことは、偉人のそれとはまったく違うものだろうか? つまり人間としての機能のはたらきそのものが違うだろうか? そんなふうに考えるとき、もちろん、こたえはノーです。

偉人たちの発する声にはバラの香りがただよっているとか、偉人たちが歩いた足跡は金の粉となって光り輝くという話もありません。それはつまり、わたしたちの言動も、その機能としては決して劣っているものではないということです。

ここで「可能性」という言葉をつかうわけですが、つまり、わたしたちの行動や発言もまた、偉人たちとまったくおなじ可能性の表現、行動や言葉という道具であるということです。なにかちがいがあるとすれば、この可能性をどうとらえるか、といえるのではないかと思うのです。

わたしが自分のことを「きわめて平凡」とレッテル貼りするかぎり、わたしは自身の可能性を「きわめて平凡」の枠のなかではたらかせます。「きわめて平凡」である視点だけを信じ、そのなかでだけ世界を見つめ、そのなかだけで世界を判断しようとするでしょう。

「わたしはきわめて平凡だけど、偉人たちはきっととくべつだったにちがいない」

この想いは変わることができ、また、きっと変わらなければならないものです。理想の人物であるかのごとくふるまってみる、というメンタルのテクニックがありますが、枠をはめた可能性で制限することは、こうしたテクニックとは反対に、ほんとうのわたしたちの力をないがしろにしているものかもしれません。わたしたちは多くの場合、自分が信じることを受け入れているといわれます。

すべての可能性を受け入れること

RPGゲームの勇者やスーパースター、また映画の主人公のような存在になれるのは、実際には、ほんのひとにぎりの人たちかもしれません。でも、枠のない可能性を受け入れることは全ての人ができることです。

太陽、星々、木々や草花、広大な海、あらゆる生物、自然のすべて……どれもが宇宙です。宇宙をはなれて勝手気ままに生まれることができるものはなく、分子と原子の組み合わさったエネルギーによってつくられています。だから、わたしたちひとりひとりも太陽と同じともいえるし、海やすべての自然と同じともいえます。人間であることは、偉人もわたしたちも変わりありません。すべてが不思議なほど調和し、完璧である宇宙の等しい表現です。

可能性によって何をすることができ、どんな結果を生むかということは、たぶんそれほど重要ではありません。わたしたちが枠のない可能性を受け入れることそのものが、わたしたちの言動に何らかの影響をあたえるかもしれないといえるだけです。今までと同じことをするだけかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、きっと、わたしたちの視点はがらりと変わっています。

枠のない可能性を受け入れることは、同時に、謙虚さであることの必要を教えてくれます。わたしたちを生かしている自然、太陽、世界のすべてがそうであるように、その可能性の源もまたあたえられるものです。わたしたちは自らの命さえつくることはできず、あたえられている命によってすべての可能性を可能とします。だから何をするときも、わたしたちに手柄はないのだろうと思うのです。命をあたえてくれているものがすべての手柄を受けるべき、といえるかもしれません。

わたしたちが可能性のすべてを受け入れるとき、わたしたちは自らのひとことを平凡な言葉ではなく、100万人の心に愛を届けうる力をもった言葉とみなすことができます。わたしたちの笑顔は100万人のこころを温かくする力をもった笑顔となります。もちろん、ほんとうにこうした出来事が起こるかどうかは別の話です。大切なのは、わたしたちの行動や言葉も偉人たちのそれとおなじであり、また宇宙の完璧さとも等しくかわらないという事実がここにあるということです。

音楽家のあなたの1音は、誰にも聞かれることはないかもしれないけれど、ベートーベンの1音と同じ価値をもっています。詩人のあなたの1文字は、ゲーテの1文字と、物書きのあなたの1文字は、シェイクスピアの1文字と同じ価値をもっています。わたしたちは、自分自身にこう語りかけることができます。そして、わたしたちはこれらを受け入れることができます。

もちろん、このすべての選択にわたしたちの自由があります。

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