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「推す」とは

はじめに

ここ最近、私は友人の勧めで「推察」という本と出会った。違う方法で「推し」と向き合う二人の女性が、「推す」ことについて語った本。今日は、この本を読んで感じたこと、考えたことを書き留めたいと思ってここに来た。

「推す」ということには、いろんな方法が存在して、そこには人のいろんな感情といろんな考え方が交差している。だからこそ、「推す」ということは人によって全く違う意味を持つし、全く違うものとなる。

私自身、「推す」ということにいろんな意味で助けられ、苦しめられてきた人間だ。だから、この本を読んで何を感じるのか、何を変えられるのか、それを試してみたかった。そして、あわよくば少しだけ苦しみを軽くできたら、なんて欲望も添えて読んでみようと思った。

つたない文章ですが、もしよければ最後までお付き合いください。

私の「推す」方法

まず、話の大前提として、私がどんなオタクなのか説明しておこうと思う。簡単に言えば、私はリアコ同担拒否の拗らせまくりなオタクである。

そんな私の大本命の「推し」の名は「登坂広臣」。死ぬほどずるくて罪深い男。彼は、三代目J SOUL BROTHERSというグループのボーカルとして活動しているアーティストである。

そんな私の大本命様と私はどんな時間を過ごしてきたのか。この本の筆者がまるで年表のように書いていたのを見て、面白いと思ったので、私も真似して少しだけ年表のように紹介しておこう。

2014年(中一)

初めて登坂広臣をテレビで見る。日本アカデミー賞の授賞式だった(彼が出演していた映画で新人賞を受賞した時)。レッドカーペットを歩く姿に「かっこいい」と感じた。

三代目のファンだった友人に勧められ、三代目が出演した回のМステを見る。そこで初めて登坂広臣が三代目のボーカルだということを知り、「あの時のかっこいい人だ」と運命を感じる。

その次の日から、空いた時間全てを登坂広臣についての情報収集に費やすようになる。そして、完全なる登坂広臣のオタクとなる。

2015年(中二)

彼の所属する事務所であるLDHの箱推し状態になる(LDHには様々なグループがあり、どのグループも事務所ぐるみで仲がいいので箱推しになりやすい)。登坂広臣以外にも推しができ、LDHオタクとなる。

2016年(中三)

高校受験に忙しくなる中で、オタクも加速。完全に登坂広臣の沼に落ちる。

2017年(高一)

初めてライブで登坂広臣を生で見る。生歌を聞く。私はこの日のために生きてきたのかと思う。登坂広臣と目が合う(妄想含む)。オタク加速。

2018年(高二)

このころから同担を見るのがしんどくなり、自分が同担拒否に陥っていることに気づく。ライブ会場で同担を見るのがしんどくて、ライブを心の底から楽しめなくなる。しんどい、離れたい、離れられないの永遠ループをさまよいながらも登坂に恋をし始める。

2019年(高三)

大学受験に追われる中で、精神的に追い込まれ、余計にリアコと同担拒否が激しくなる。同担がうじゃうじゃいるSNSを見るのがもっと嫌になる(でも、受験生ということもあり、ライブに行くのを止めていたことと勉強が忙しかったせいでそこまで大変なことにはならなかった)。

2020年(大一)

大学生になって、心が成長したことにより、リアコを卒業。しかし、同担拒否は治せず。余計に思い込みが激しくなったように感じる。大学生になってから同担拒否ということを大っぴらにするようになる(高校生の頃は隠していた)。コロナの影響でライブがなくなり、会えないことで夏頃に病む。

2021年(大二)

ライブが復活し、約二年半ぶりに登坂に会う。死ぬほどライブに足を運び、ひたすら会いに行った。年末ごろに急な活動休止宣言的なのを軽く話したことによって、登坂のいない世界が怖くなり、本気で生きるのをやめたくなる。

2022(現在)

現在進行形で同担拒否を継続中。すでに今年は四回も登坂広臣に会い、彼の視界に入っている(一部思い込みあり)。そして、二次元にドはまりし、二次元でリアコ同担拒否オタクを始める。

「推す」ことの難しさ

この本は、二人の作者によって全く違う文章が書かれている。一人は「リアコオタク」として文章を書き、一人は「布教したいオタク」として文章を書いている。もちろん私がこの本を読むきっかけとなったのは前者の文章だ。この本の紹介が組まれているページで「ガチ恋同担拒否オタクのパート」というのが存在することを知り、即座に注文した。

この時の私は相当興奮していたのだと思う。自分と同じような感情を持つ人と出会えたということ、その人の話が聞けるということ、その人の心の中身を垣間見れるということ。すべてがなかなか起こりえないことで、でも私がずっと求めていたことだった。ただ単純に嬉しかったのである。

私自身、高校時代は同担拒否であることを隠していた。特に大きな理由はない。ただ言う必要のある機会がなかったのだと思う。同担拒否であるがゆえに、周りに登坂のオタクはいなかったし、ライブは家族と行っていたので問題なかったし、友達には十分なほど私が重度の登坂オタクであることは知られていたから説明は必要なかった。それと家庭のルールとしてTwitterとInstagramが使用禁止だったこともあり、SNS上で誰かと繋がるということもなかったので、あまり同担拒否であることを重要視しなくてもいい環境にいたというのも一つの要因かもしれない。

しかし、大学に入ってからは隠さなくなった。今の同期はほとんどの人間が私が登坂の同担拒否であることを知っているし、理解してくれている。これを機に、なぜだろうと考えた。私が考える理由は一つ。SNSでのつながりができたことだと思う。禁止だったTwitterなども解禁されたことで、私は即座にオタク垢というものを作った。でもそれがいけなかったのだ。オタク垢ではもちろん同じ趣味を持った人と繋がることができる。それは、同じ趣味を持つ人同士で情報を共有する楽しさやグッズの交換などいろんな楽しみがある。しかし、そのつながりは私にとって結果的に恐怖となった。

今思えば、このころの私はまだ自分の重症度にちゃんと気づいていなかったのかもしれない。高校生の頃は私しか登坂のファンが周りにいなかった。登坂のことを話す人も好きだという人も私しかいなかった。その甘やかされた最高の環境によって私は自分の重症度を軽視した。

そしていざSNSを始めてみれば、もちろん当たり前のように登坂のファンはたくさんいた。オタク垢なんてもので人と繋がれば繋がるほど、自分がフォローしていなくても登坂ファンのつぶやきがいろんなところから流れてくる。それを見るたびに、「つらい」「苦しい」「いやだ」「やめて」と心の中で叫んだ。そして、とうとう耐え切れなくなって、SNSなんていらないと見るのをやめた。怖くなった。見たくなかった。あれだけ普通に見れてたインスタも登坂の投稿を見るたびその下に出てくる数々のコメントを見るのが嫌で見るのにすごく神経を使うようになった。インスタライブもコメントに「臣くん」と流れてくるたび心が悲鳴を上げて、最後まで見れなかった。おすすめに出てくる投稿を見るのが嫌で出てきませんようにと願って願って、見えてしまう恐怖と戦いながら過ごした。

それからというものの、私は同担拒否であることを明かすのが一番楽だということを知った。同担拒否だと公表することで、同担からのフォローは来ないし、誰かがつながりを進めてくることもない。一度振り切ってしまえば、同担のことを自衛のためにブロックすることも躊躇なくできるようになった。そのようにして開拓した居場所はいつもより少しだけ楽に息ができる場所となった。

それでも、いまだにインスタは嫌いだ。登坂が写真を投稿してくれるから見るけれど、どれだけ注意を払ってもコメントが目に入る。インスタの運営さん、どうかコメント見えないくする機能つけてくれませんか?

それと、Twitterの運営さんにもお願いがある。他の人がいいねしたツイートとかの表示をしないボタンとか作って欲しいです。広告とかいらないです。トピックのおすすめとかいらないです。だって、他の人がいいねした登坂ファンのツイートが流れてくるのがすごく辛いんです。おすすめで出てくる登坂ファンのつぶやきなんて見たくないんです。どうにかなりませんか?

もちろんこんなこと私のただのワガママに過ぎないことくらい分かっている。というか、そんなことを言うならSNSなんてするなよ、という話だ。

そういえば、同担拒否であることを隠していたのにはもう一つ理由があった。それは、「分かってもらえない」という辛さから逃げていたからである。筆者は、この本の中でこのように語っている。

残酷なのは、この明白な喪失が、側から見たら「何を言っているんだ?」の一言で済まされてしまう事態だということ。

リアコも同担拒否もマイノリティーなオタクに分類されるだろう。つまり、ほとんどの人がこの気持ちを理解できないだろうし、中にはそのような感情を持つオタクを嫌う人もいる。「バカだろ」と貶す人もいる。

私は単純に嫌われることが怖かった、のだと思う。オタク仲間ならまだしも、オタクではない周りの友人からすれば、到底理解できない領域の話で、そのせいで嫌われたらとか、そのせいで変な奴だと思われたらとか。なんだかんだビビっていたし、自分に自信がなかった。

だけど、大学生になって未熟だった心が少し余裕を持ち始めると、そんなことを考えていた自分が馬鹿らしくなってきたのだ。正直な話、私の周りの人間は、私=登坂広臣の公式をすでに周知の事実として理解しているし、四六時中登坂のことを考えていると思っている(間違いではない)。そう思ってしまえば、なんかもう隠すことなんて何もないと吹っ切れてしまった。

実際、私が周りの環境に恵まれているのは事実だと思う。こんな重症オタクを受け入れてくれる広い心を持つ友人に囲まれて、私は相当運のいい人間だと思う。でも、現実はそんな環境ばかりではない。SNSを覗けば、リアコを批判する人も同担拒否を嫌う人も大勢いるのだ。でも私はそんな人たちに言いたい。

恋をして何が悪いんだ!

人は恋をする生き物じゃないか。誰かを好きになって、この人と一生を過ごしたいと思うから結婚するんでしょ?その人に触れていたいと思うほどに好きなんでしょ?キスしたい、ハグしたい、手をつなぎたい、そんな欲望にまみれるくらい愛してるんでしょ?

そんな恋をする人たちと私たちは何が違うというの?私たちだって、ただ単純に恋をしているだけじゃないか。その相手が芸能人だってだけじゃないか。芸能人だって人間なのよ?私もあなたも同じ人間に恋をしてるだけじゃないか。

絶対かなうはずのない恋だろ、非現実的だって?じゃあ、現実の恋は全部現実的なの?必ず成功する恋しか存在しないの?そんな100%の恋ばかりだったら今頃失恋ソングなんてこの世に存在してない。

ただ、好きなんだと、愛してるんだと、その相手が「推し」なだけで普通の恋と何ら変わりはない。私はそのくらい真剣に恋してるんだ。

もちろん、こんなことを叫んだって理解してくれる人が増えるわけではないと思う。理解できない人には、永遠に理解できない世界の話なのだ。だから、もう気にしなくていい。理解してくれる人は多くないけど、私一人ってわけじゃない。「同担拒否なんて意味わかんない」とつぶやく人と同じように、「同担見るのつらい」とつぶやく人は確かに私以外にも存在しているのだから。実際、私はこの本の筆者と出会って、一人じゃないと実感できたのだから。だから、私は私の道を行く。

「推察」を読んで

「推察」を読んで一番最初に感じたことは「嫉妬」だった。これは悪い意味ではなくて、ただの私のわがままであり、私が感情を拗らせすぎているのが原因で起こった現象だ。

だから、どうか勘違いしないで欲しい。
間違いなく「推察」という本は素晴らしい。

さて、それを理解していただいた上で、この「嫉妬」の意味を説明していこうと思う。
この本を読み進めながら、同担拒否をされている筆者の方の体験に私は驚いた。初めて推しに会った瞬間がライブの最前列だということに。まあ、簡単に言えば私はこれに「嫉妬」したのだ。以下に私の感情むき出しの言葉を並べておこう。頭を空っぽにして読んでいただきたい。

初めて会うのが最前列って何!?
どんな強運の持ち主なの!?
てか、最前列って座れるものなの…???
私も座りたい。私も臣に最前列で会いたい。
誰よりも近くで臣を味わいたい。
初めての舞台でそんな場所で推しに会えるのなんて…
なんて、、、、、なんなんだそれは…。

もう一度言っておくが、この筆者の方は全く悪くないし、間違いなく強運の持ち主であった。これは私のただのわがままを吐き出しただけなので、気にしないでほしい。(ならなぜ書いた。)

世界一愛する推しに誰よりも近くで会えること。
どれだけのオタクたちが望むことだろう。
どれだけのオタクたちが経験できるのだろう。

私も幾度となく登坂広臣のライブに足を運んだ。今年だけで既に4回。登坂広臣に会うためだけにその時間とお金を使って、1年のうちの4日を登坂広臣のためだけに使い果たした。そのうち最前列に座れた日はなかった。もちろん、最前列が全てじゃない。彼は間違いなく会場の全ての人を見てくれているし、全ての想いを受け取ってくれている。最前列に座れなくたって、ライブは最高に楽しいし、幸せ。

それでも私は思ってしまう。誰よりも近くであなたの姿を見たいと。誰よりも近くであなたの世界を感じていたいと。これは私のただのわがままだ。それでもいい、みっともなくてもいい。一生に一度でいい。私の世界一愛する男の作る世界を誰よりも近くで自分の目で確かめたい。その日が来るかは分からない。それでも私はライブが当たるたび願う。

次こそは誰よりも近くで見れますように…。

さて、話が大きくズレてしまったが、私がこの本を読んでとても印象に残っている言葉がある。この筆者の方の推し様のお言葉である。以下、抜粋して引用させていただく。

自分がその人に「活動の範囲をこうしてほしいなあ、こうしてほしかったなあ」って思った時点で、もう、"第一次"はおしまいなの。
"第一次ファン活動"としては、そこはもうフィニッシュを迎える頃だと思う。

ここからは自分の応援の仕方がここで変わるんだ、変わらなきゃいけないんだ、っていう自覚みたいなものが必要だと思う。

それでも変わらずに、自分の中でぐわーって来てたのと同じように応援しようと思い続けると、それはやっぱり自分を壊していくと思うんだよね。

だからそこで、どこかで"適当になる"というのが、永く「推し活」をしていく上でのポイントなんじゃないかなって思う。

私はこの言葉を見た時、私はどこで"第一次ファン活動"を終えたのだろうと思った。私が思うに、中学生あたりだろうか。同担拒否になる前の自分のような気がする。その頃は全てが楽しかった。登坂広臣をどんな形でも見ること全てが幸せだった。嬉しかった。毎日が登坂広臣がいるだけで輝いていた。

それがいつの日か変わった。もっともっと見ていたいと思った。もっと感じたいと思った。どんどん欲が出て、どんどん好きが増して、どんどん加速していって、止められなくなった。誰よりも多く、誰よりも近くで、誰よりも時間を費やして、誰よりもあなたを見ていると、誰よりもあなたが好きだと、証明したくなった。表現したかった。私の世界はあなただけなんだと、あなたしかいないんだと言いたかった。

そのうち、自分"だけ"がよくなった。自分"だけ"が知っている。自分"だけ"が見ている。自分"だけ"がこれほどにあなたを愛している。気づいた時には、彼と"だけ"の世界でしか生きられなくなっていた。

そう思うと、私は自覚できなかったんだと思う。気づかないうちにこれまでの私とは全く違う考え方や推し方をしているということに。それに気づかないまま進んだ私は、結果的に壊れたのだ。

「適当になる」これもまたとても難しいことだと思う。加速する気持ちに、これまでの全力に、適当になるということは実に難易度が高くて、苦しい。でも、そこを乗り越えた時もっと素敵な世界が待っていたのかもしれない。そう思うと、少し見て見たかったと感じる私もいる。

でも、私は今の世界を後悔してはいない。結果的に苦しくて、しんどくて、辛い世界になった。でもその反面、誰よりも幸せな時間を過ごさせてもらったと自信を持って言える。リアコしていた高校時代。毎日辛くて、苦しくて、ライブに行くことも楽しくなかった。それでも、その反面わたしのオタク人生の中で最も幸せに溢れた時間だった。最も彼だけを追って、彼との幸せを感じた時間だった。その時間にひとつも悔いはない。

ここまで、同担拒否をされている筆者のお話をしてきた。ここからは、もう1人の筆者のお話を読んだ感想を書こうと思う。

この方は、いわゆる箱推しをされている方で、とても幸せそうなお話が書かれていた。私はそのお話を読んで、ただ単純に羨ましいと思った。

私は箱推しができないタイプだ。誰か1人にしか愛をそそげない。ある一点に集中して、その一点に誰よりも熱量と時間をかけてしまうタイプ。だから、この方が各メンバーに対して同じだけの熱量で同じだけの気持ちを書いていることが本当にすごいと思ったのだ。私には絶対にできない。だからこそ羨ましかった。

最近、とある場所でこの「推察」の筆者の方々の対談を聞ける機会があった。そこで私は、チャット機能を使い、対談に参加させていただいたのだが、その中でも私との考え方の違いをすごく痛感した。

私以外の参加者はほとんどが箱推しのようで、私だけがそのグループの1人だけに重点を置いているように感じた。話が盛り上がっていく中、私の推し以外の話をしている皆さんに私は全くついていけなかった。私の知らないエピソードに、私の知らない部分。推しについてはいくらだって語れるそのエピソードもほかのメンバーになった瞬間語れない。それを難なく語れる皆さんに私は感激すると共に、羨ましいと思った。

ここで、勘違いしないでいただきたいのは決して私は推しだけを好いている訳では無いということである。「推し以外のメンバーなんか嫌い」と思っていることは断じてない。メンバーみんなが好きだし、メンバー全員がいるからこそのグループだと思う。それでも、推し以外のメンバーを深堀りできるかと言われたら私には多分、できていない。だからこそ、それが出来る皆さんがすごく羨ましくて、わたしもああなりたいと思ってしまうのだ。

私の友人に、それのエキスパートのような人間がいる。彼女もnoteを書く1人だが、彼女はそのグループのメンバー、一人一人に対してすごい文字数のnoteが書ける人だ。そして、どのnoteも細部までこだわり抜かれた内容をかける人だ。私はそれを本当に凄すぎると毎回思うし、ああなってみたいと思う。

この筆者の方の言葉にこんな言葉があった。

推しは作るものではない。ある日突然、必要になった時にあなたの前に現れてくるものだ。

ただ、推しという存在がこの18970字を書かせてしまうほどパワーを持ったものだということだけ知っていただけたらありがたい。

たまに、オタクをバカにする人間がいるけれど、誰かにとってオタクはその人をどんな瞬間よりも突き動かす原動力になるということを知っていて欲しいと私は思った。そして、誰かにとってはそのかけがえのない存在が生きる力になることも…。

私はよくオタクでいること、推しがいることを「生きる意味」だと語ることがある。私が書いてきたnoteの中にも沢山出てくるだろう。これをどれくらいの人間が大袈裟だとバカにするだろうか。けれど、そんな人間には知っていて欲しい。これは大袈裟でもなんでもなく本気なんだということを。

推しがいなくなったら死ぬのか?
きっと死なない。でも、死んだのと同じように生きる気力も毎日を頑張る気力も失う。それぐらい私の人生において、生きるということにおいて、この存在はなくてはならないものなのだ。

だからどうか、オタクたちをバカにしないで欲しい。その人たちの気持ちに嘘なんてひとつもないのだから。誰もが真剣なのだから。リアコや同担拒否だって、真剣になりすぎた結果起こるものなのだから。何もおかしくない。それだけその人が推しに人生をかけてきた証なのだから。

最後に

今この本は既に「推察の推察」という第2弾が発売されている。まだ私も手にしていないが、また機会があればぜひ読みたいと思っている。

私はこの文章の始まりでこのように書いた。

この時の私は相当興奮していたのだと思う。自分と同じような感情を持つ人と出会えたということ、その人の話が聞けるということ、その人の心の中身を垣間見れるということ。すべてがなかなか起こりえないことで、でも私がずっと求めていたことだった。ただ単純に嬉しかったのである。

同じ感情を持った人の話が聞けた時、私はどんなことを感じるのだろうか。

結論から言えば、「変わらなかった」。
自分を楽にすることも、自分の考えを変えることも出来なかった。それほどに私の中で蓄積された長年の感情は、ドロドロしていたのかもしれない。

それでも、得たものもあった。同じ感情を持つ人の話を聞けたことは、私の頭にはない考えを知るきっかけになったし、それはこれからの私のオタク人生に活かせるものだと思う。

それに、何よりずっとどこかで味わっていた「孤独」を少しだけ軽くすることができた。ずっと人と違う感情にどこかで感じていた「孤独」。それが、同じ感情を持つ人の話が聞けたことで、「私の気持ちはおかしくない、私はひとりじゃない」と思えた。そのことは私にとってとても大きなことだった。

世の中、リアコや同担拒否に悩む人は沢山いると私は思う。このnoteにも色んな人が自分の感情と戦っていることを記録に残している。

私はそんな人に少しでもこの本が届いて欲しいと願う。あなたの考えは決して間違っていない。この本はきっと誰かにそう伝えてくれる気がするから。

私は現在、新しい世界に足を踏み入れた。2次元リアコ同担拒否オタクである。まだ、この世界の全貌を私は知らない。でも、また躓くことも苦しくなることも新しい発見もあるんだと思う。それでもまた今まで通り突っ走りたい。

だからどうかこの世界に生きる全オタクの皆様。
自分の推し方を信じて突き進みましょう。

「推し方は人それぞれ」

これは私のオタクをする上でのモットーだ。
推し方に正解なんてない。
あなたの進み方で進みたいだけ進めばいい。
これからも私は私の推し方で私の進みたい道を進んで行こうと思う。

世菜/河鹿 様
ナルミニウム 様

この本に出逢えたこと、心の底から感謝しております。素敵な本を作ってくださり、私の元に届けてくださり、ありがとうございました。

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