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ホセ=エミリオ=パチェーコの短編『砂漠の戦い』について語るときに僕の語ること。

メキシコの現代文学のなかで好きな短編を選べと言われたら、僕はおそらくパチェーコの『砂漠の戦い』を選ぶだろう。そのくらいこの作品には愛着がある。いつか読書会でもやってみたいと思うのだが、残念ながら翻訳があることはあるのだけど手に入りにくい。

僕はこの作品を、翻訳でも読んだし、スペイン語でも読んだ。そして文章のカッコよさにしびれた。パチェーコは本当に文章が上手い。そしてかっこいい。キュウっと胸が締め付けられるようなはかなさを漂わせながらもドロドロせず、さわやかな風が吹いているような、そんな感じだ。

50年代のメキシコシティの空気が鼻孔にせまる。そしてあの少年の日のかなわぬ恋。相手は親友の母親だった。親友の父は政府の権力者で、彼女は正妻ではなかった。典型的なメキシコ家庭に生きるぼくの目には、アメリカ風の親友の家庭はとても魅力的に映る。英語を話す親友、フライング・ソーサ―、コーラ。

そして作品のなかで繰り返し流れてくるボレロの歌詞。「この世の空がどんなに高かろうとも、海がどんなに深かろうとも」。悲劇。

少年は大人になり、親族の葬儀のためにメキシコシティに帰ってくる。偶然乗り込んだタクシーの運転手がかつての同級生だった。思い出話にあの頃がよみがえる。毎日のように校庭で遊んだ「砂漠の戦い」ごっこ。今は日系企業の大ボスとなった日本人の同級生。原子爆弾ペン。
そして当然あの苦い恋の味も。

悲しい事件があって、ぼくは転校することになって、みんなとは疎遠になったけど、大きな地震があって、あのころの街とはだいぶ様変わりがしたけれど、それでも、僕たちの生活はあのメキシコシティの一角に、家と学校を往復する日々のなかにあったのだ。頼もしかった親友も、僕の頬にキスをくれたあの人も、ここに生きていたのだ。

マリア―ナ、マリア―ナ。

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