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「星々の集い」フォトエッセイコンテスト優秀作(選/チヒロ・ほしおさなえ、2023年開催)を無料公開します【7/14(日)星々文芸博でもワークショップ開催!】

小説家・ほしおさなえと星々事務局スタッフが運営するわたしたち文芸創作コミュニティ「星々」は、2023年1月に「年に一度の文化祭」としてリアルイベント「星々の集い」を開催しました。
創作物即売会「星々マルシェ」、トークイベント、各種ワークショップとともに、エッセイストのチヒロさん(かもめと街)によるフォトエッセイコンテストも開かれました。

来週末2024年7月14日(日)11:30〜16:30には、その「星々の集い」をリニューアルした「星々文芸博」を開催。
「文芸と物語を楽しむ一日」として「創作物即売会(74団体94ブース出店)+ワークショップ+トークイベント」を行います。
(入場無料/浅草橋 東京文具共和会館)

その「星々文芸博」では「星々の集い」に引き続き、チヒロさんを講師にお招きしてワークショップ「はじめてのエッセイを書こう」も実施。
そちらを記念して、星々が発行する雑誌「星々」のvol.3にも掲載された「星々の集い」フォトエッセイコンテスト優秀作「冬の元校庭で転⽣について考える」(月草みつめ)をnoteで無料公開します(選/チヒロ・ほしおさなえ)。

なお、「星々文芸博」で開催されるチヒロさんのワークショップは要予約制。
同日にはSFレーベルのKaguya Books・堀川夢さんを講師にお招きした「小説の帯とあらすじを書いてみよう!」も行われます。
いずれも席数限定ですので、ぜひお早めにお申し込みください。

冬の元校庭で転⽣について考える

月草みつめ

 廃校になった⽩い校舎の前には、⼤きな⽊が在った。その全貌を視界に収めたくて、いったん遠くに歩いていってから振り返る。離れたところから眺めて、はじめてその偉⼤さに気づく。相⼿は「⽊」だから、⽣えていた、と⾔うのが正しいのかもしれない。けれど、地⾯に⽣える、みたいに何かの付属物のような感じではぜんぜんない、⼤地と⼀体になった、この場の主にふさわしい存在感だった。

 この真冬の一⽉にあっても、幹には濃い緑の葉が茂り、左右対称の丸い樹形を保っている。緑の庇の下は、さまざまな⽣き物をあたたかく迎え⼊れてくれそうな、たっぷりとした空間があった。

 ここは東京のど真ん中で、周囲は⾼いビルに囲まれているから、さまざまな⽣き物といっても、やってくるのは⼩さな⿃や昆⾍、あとは⼈間ぐらいだろう。私がこうして写真を撮っている間にも、⼈々がやって来ては樹の下のベンチに腰を掛け、本を読んだり飲み物を飲んだりしている。カミキリムシやムクドリなんかも、⽬撃はしていないけれどおそらく、好き勝⼿にくつろいでいることだろう。

 もし、この⽊がサバンナにあったとしたら、と想像してみる。ライオンが真夏の⽇差しをよけて昼寝をしたり、若い⿅が突然のスコールを避けて⾬宿りをしたりするだろう。それぐらい頼りがいのある⽴派な樹だった。これなら、私の理想とする樹に、なかなか近いような気がした。

 私は、⽣まれ変わったら何になりたいかと友⼈から訊かれ、⼤きな樹⽊になりたい、と答えたことがある。⾬ニモ負ケズ、⾵ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ、いつでも平穏無事な⼼でそこにすっくと屹⽴し、訪ねくる⽣き物あれば⾃らの持てるものを惜しみなく分け与える、サウイフモノニ私ハナリタイ、と格好をつけて⾔ったのだ。

「え? 樹なんて動けないものでいいの? ⼤嫌いな蛇が幹をよじ登ってきたら、どうするの」

 名前を聞くのも嫌な⽣き物を挙げられて、私は眉をしかめた。嫌なものほどリアルにイメージできるのはなぜなのか。⾜のないそれがヌルヌルと⾝をくねらせて硬い樹⽪のうえを這う様⼦が瞬時に脳裏に浮かんだ。ぶるぶる震えながら、そういうリスクは考えてなかった、と答えると友⼈は、

「巨⽊になるには、ペンペン草ぐらいから修⾏しないとだね」

と⾔った。選定ミスを防いでくれてありがとう、とその時はお礼を述べたけれど、今思うとなんとなく腑に落ちない。「ぺんぺん草から修⾏する」というからには、草本の⽣涯を何度も繰り返して、それでようやく巨⽊になるという思想が前提にありそうだ。けれど、⾜のない爬⾍類やミミズだって、ぺんぺん草の上を遠慮なく⾏き過ぎるわけで、それに耐えなければならないのは同じこと。どちらに⽣まれようが⼤差ないのではなかろうか?

 しかし、よく⾒てみればそれぞれの⽣涯には違いもある。まず巨⽊は、何⼗年もの⻑い時間をかけて、どんな⽣き物にもくつろぎを与えられるだけの⼤きさに成⻑する。でも、ぺんぺん草の寿命は二年にも満たない(ナズナは二年⽣の植物らしい)。せいぜいダンゴムシの二、三匹を養うくらいで(たぶん)すぐ息果てる。巨⽊は時間も空間も超越したような⼤きな存在(に⾒える)からこそ、私の憧れなのだ。しかし、その状態に⾄るまでには、⽝がおしっこをひっかけようが、酔っぱらいが吐瀉物を浴びせようが、⼀切を受け⼊れて⻑いあいだ⼤地に屹⽴し続けなければならない。もうこんな⼈⽣いやだ―! と思っても途中で⽌めることはできない。⼀⽅、ぺんぺん草なら翌年の夏が来れば、あっさり命を終えることができる。ということは、私のように意志薄弱な⼩⼼者には、むしろうってつけのお試しコースということ
か。


 すっかり友⼈の術中にはまってしまったような気がするけれど、さらに考えてみると、当たり前なことに、樹⽊が⽴派な巨⽊にまで成⻑するのは容易なことではないのだった。ドングリみたいな美味しい実は⾍や⿃にすぐに⾷べられてしまうし、運よく根付いて芽が出てもその場所は⽇当たりや⽔が⼗分じゃないかもしれない。脆弱な若⽊時代、⿅に踏んづけられたり、⾝が引きちぎられそうな強⾵や極寒にさらされたりもする。そして実際に引きちぎられる。それでも健気に⽴ち続けていたら今度は、⼭崩れや森林伐採、⼭⽕事などさまざまな災難が次々に襲ってくるかもしれない。⼀体どこに根付いた想定なのか分からなくなってきたけど、とにかく、なんと波乱万丈な植物⼈⽣であろうか。つまり、巨⽊というのは、あらゆる危険をくぐり抜けられる強運と頑健さに恵まれた精鋭中の精鋭であり、選ばれた者だけが、この⻘い空の下でその巨体をのびのびと展開しているのだ。巨⽊になるとは、とても難易度が⾼いのである。

 え? ⽬の前の樹は、学校という温室育ちでそんな波乱万丈はない? いや、そうでもないだろう。まず、この場に⽴てるまでに物凄い確率をくぐりぬけなければならない。そして根付いた後も、学校で鬱屈を貯め込んだ⽣徒から殴られたり蹴られたり、ふざけて⽊登りをされて枝を折られたり、箒でバシバシ叩かれたり、先⽣やPTAからは運動会の邪魔になるから伐りましょうと⾔われるなど存亡の危機に遭遇したりと、⻑い⽣涯にはいろいろあったはずなのだ。どんな樹⽊の⽣涯にも、決して楽ではない歴史がある、と思う。

 さて、では私は次の⽣まれ変わりで、やはり⼤きな樹になりたいのか?

 最初に問われたときは、爬⾍類の襲来を恐れたけれど、そもそも魂が樹⽊に⼊った瞬間、そんな怖さは無くなるはずだ。だから、問題は、動物的な五感はなく、ただ無私の状態となって、本当に、この荒々しい地球で⻑いときを⽣き延びていきたいか、ということだ。

 ううむ、ううむ、と腕組みして考える私に、冷たい⾵が強く吹き付けた。気づくと⽇は傾き、ぐんと気温が下がっている。樹の下のベンチで休んでいた⼈も、イベントスペースとなっている校舎の中へと戻ってしまった。薄いオレンジと昏い影に染め分けられた校庭で、樹たちは、⾜元の雑草とともに⽴ち尽くしている。いずれも、同じくらい、いとおしい存在だと改めて思う。植物たちの⼼は分からないけれど、それぞれに精いっぱい葉を広げて冷えた⼤地にたたずむその姿がいとおしい。何より、そう感じることが、どうやら私は好きらしい。

 イベントが終わり、私たちはその場を後にした。校庭を出て、校舎の横を歩きながら、同
⾏者がぽつりと⾔った。

「ここは、今年の三月で閉館らしいですよ。校舎の改修工事があるそうです」

 そうか。校舎みたいな人工物は、人の手が入らないと、そう長くはもたないのだ。でもあの木は、建物やそこに集う人たちの儚い変遷を、ずっと見守り続けることができる存在だ。

 大地の守護神みたいな緑の巨体は、変わらず多くの生き物たちを迎え入れる。みんながそれを覚えていたなら、人の心のなかにも大きな根を張るだろう。そうやってたくさんの人々の思い出を繋ぎながら、ずっと生き続けていきますように、と私は別の種族の立場から樹木族にしたらちょっと的外れかもしれないエールを送った。

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