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現実を物語にしないことについて

 2020年4月2日の朝日新聞朝刊に掲載された、東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉さんの「「輝かしい時代」五輪はもう招かない」を読んだ。吉見さんの著書を僕はそんなに読んだことがないけれど、たしか修士一年の秋頃に『カルチュラル・スタディーズ』を読みながら、建築文化の裏にある社会について語る研究の方法論を模索しつつ、しかし建築学専攻の学生としていかに建築物、つまりモノ自体を語れるのか悩んだ記憶がある。それはさておき、今回の記事では、開幕延期が決定した東京五輪2020をめぐるトラブルを、東京五輪1964に対する私たちの固定観念を問い直すことで見つめ直そうと試みている。歴史を通して浮かび上がるのは政治的・経済的戦略が絡んだ東京五輪1964の裏にあった多くの苦難であり、それがいつしか日本人の復興と成功の物語へと昇華されていったということである。 「「TOKYO2020」が来なかった事実は変わらない。歴史は願望の先にはない。念ずれば救われるわけではないのである。」という結びが印象的だ。誰かの死は決して私たちのためにはない。歴史もまた私たちの未来のためにあるわけではない。時間はとめどなく流れ、そこに避けられない死があり歴史になるのだと、僕は考えている。先日亡くなられた志村けんさんの死が、いつしか私たちのためにあったかのような、私たちの成功の物語の一部とならないことを願う。

 吉本ばななの『キッチン』に登場するみかげと雄一は多くの身内の死を経験する。日常的なモノたちがリアリティをもってキラキラと描写される一方、私たちが現実では経験したことのないほど多くの身内の死が二人を取り巻く。それでも二人は死を物語化しない。リアリティに満ちた生活をどこか現実味のない死の方向に近づけたり、逆に死をリアリティ溢れる生活に引き寄せたりしない。死を死のまま受け入れ、二人は現実の中を生きていくのだ。

 自宅待機といえど心が休日にならないように、今日の僕はイッセイミヤケの黒いカットソーにタケオキクチのスエード生地のオーバーシャツを羽織っている。ニューヨークで購入したグッゲンハイム美術館のマグカップに、サイフォンで淹れたコーヒーを注ぎ、今日の朝日新聞と吉本ばななの『キッチン』を隣に置いて、ちょっと古いMacBook Airを前に文章を考えている。身の回りのものはリアリティをもってキラキラと輝いているけれど、よくわからないコロナウィルスに知らない所で知っている人が感染し、知っている所で知らない人が感染する。世の中がどうなってしまうのか不安で仕方ないけれど、これからも現実の中を生きたい。

 吉見さんのテキストの隣には連載中の伊東豊雄さんの記事が掲載されている。今日が三回目で、小学校から高校まで取り組んでいたという野球の話。伊東さんは千葉ロッテのファンだそうで「今も有料チャンネルでロッテの試合はすべて見られるようにしています。」とのこと。これは知らなかった。昨年、病から回復された伊東さんとお話しする機会があり、その時は諏訪の話ができたので、次は野球の話がしたい。ちなみに伊東さんも吉本ばななの『キッチン』が好きらしい。​

参考
1. 吉見俊哉「「輝かしい時代」五輪はもう招かない」朝日新聞、2020年4月2日
2. 吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズ』岩波書店、2000年
3. 吉本ばなな『キッチン』角川文庫、1998年
4. 伊東豊雄「消費の海に浸らずして新しい建築はない」『透層する建築』青土社、2000年

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