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「人の死」について(死生観)







皆さん、こんにちは。






先日、あるブログの中で「人の死」について書かれていました。

「死」に対するその人なりの考えが表現されていて、とても強い衝撃を受けました。
それに触発される形で、「自分も死について改めて考えるべきなのではないか」と思ったので、今回のブログは「人の死」について書いていこうと思います。




私自身、人の死に触れたことがあまり多くありません。
私の中で身近な人が亡くなったのは、父方の祖父母のみです。
祖母は私が幼稚園生の時に亡くなっていて、祖父は私が小学校6年生の時に亡くなりました。


祖母の時は幼かったので、何を考えていたのか覚えていないのですが、祖父の時もあまり覚えていません。
祖父が亡くなった時は小学校6年生だったので、物心がついているはずなのに、何を感じどう思ったのかをはっきり思い出せません。
ただ、その当時祖父のことがあまり好きではなかったということは覚えていて、恐らく亡くなった時も悲しいけれど悲しいとも言い切れない、どっちつかずの感情が残っていたのかなと思います。


今振り返ってみると、結果として、自分の中で身近な人が亡くなり「人の死」に直面しても、自分の中で揺さぶられる考えというものが何もありませんでした。
「人が死ぬ」ということに対して、深く考えてもいなければ捉えてもいませんでした。




そういった私の経験上、「人の死」ひいては「死」について考えるのは難しいものがあるとは思います。人「自分にとって身近な人が亡くなった時に何も考えなかった人間が何を言ってるんだ」と思う人もいるかもしれません。
ただ、そんな今の私が思い、考えたことをここで表現させて頂きます。




「死」というのは、人間だけでなく、地球上に存在する生命にとって当たり前のことであり、全ての生命はいつかやがて「死」が訪れ、終わりを迎えます。
言葉を選ばずに言うのであれば、遅いか早いか、ただそれだけだと、私は思っています。


人間以外の生命は、基本生き続ける限りは生き続けようとします。
ですが、人間の場合そう簡単ではないと思います。
それは、人間には思考と感情があり、人間同士が支え合わなければ生きていけないほど弱い動物だからです。
また、自分自身が死のうと思って死ぬことができるのは人間だけだと思います。


人間が、1人で生きていけるくらいに生物学的に強靭でかつ思考と感情がなければ、生存本能のみに従いできる限り生き続けようとすると思います。


そう考えた時に、「生き続ける」という選択肢の他に、「自ら死ぬ」という選択肢があること自体が、幸せであり恵まれていることなのかもしれません。





人間の場合、
人は支え合って生きている、ということを自覚していると、そう簡単に死ぬことはできないと思います。


「自分には価値がない」や「自分が死んでも迷惑にはならない」など、自己評価がどれだけ低かったとしても、自分が死ぬことで周りに対して多少の影響は与えます。
それは、自分の身の周りにいる人はもちろんのこと、全く面識のない人にも影響を与えるかもしれません。


自分自身が生きているということは、支えてもらっていると同時に、誰かを支えているということにもなると思います。
自分が死ぬことで、誰かの支えが一つ失うことになります。


その中で、「自ら死ぬ」という選択肢を取るのであれば、自分が生きている以上の価値を死ぬことで与えられなければ、「自ら死ぬ」という行為は無責任であると思います。
(死ぬという選択肢を取ることで、自分が生きている時以上の価値だったり意味を与えるのは、恐らく不可能なのではないかと思いますが)


ただ、人というのは自ら死のうとする時、そこまで込み入ったことは考えることはできないだろうということは、何となく想像できます。


このようなことを書いている自分は、現時点では「死」という選択肢がなく、生きることに対してそこまでネガティブな見方をしていないので、このような考え方が生まれるのかもしれません。



ですが、「死」というものが時に意味を施されるのは、「死」からは何も生み出されないからだと思います。
「死」というものは何も生み出さないということに受け入れられないからこそ、人間というのは都合よく「死」に対して理由なり理屈をつけるのだと、私は思います。










今回のブログは以上となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
引き続きよろしくお願いします。

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