私の親離れ記(大学受験編)

 1年間の恋活を通して、自分がいかに生家から精神的に離れられないか、身に染みて感じた。特に私は一人っ子である。以前、生まれる順番と生家の関わりに関して書かれた書籍には、一人っ子はいつまで経っても、どんなに大人になっても親からの呪縛から解かれることはなく、家に縛られて続ける、とそれこそ呪いのような文章が書かれていた。しかし、恋活の一年間は、異性との向き合い方と同じくらい、むしろそれ以上に両親との向き合い方を考えさせられた期間であった。

 はじめに、私と親との関わりを端的に表していると思う小さい時の思い出を書く。私は小学生のころ、日能研が発行していた、知の翼という通信教育を親に買い与えられ、勉強するように言われていた。だが、郵便で提出するべき課題も出さず、テキストを放置して積み重ねるだけの私を父は見かねて、「今日はこれらの問題をやってね」というように問題集にシャーペンで印をつけていた。そして夕方に私の回答をチェックしてくれるのだが、実は私は印がシャーペンでつけられたのをいいことに、親がいない間を見計らって、難しそうな問題の印をこっそり消しゴムで消していた。親がそれに気が付かないわけがないと今は思うのだが、当時印を消したことに関して怒られた記憶はない。

 とまあ、私はいい加減な子供であったが、親に叱られたくない思いは一丁前にあった。親に「うちの子はいい子」と思って欲しい気持ちも強かった。両親は教育熱心な方だと思うが、子供の小さなプライドを折ってまで、きちんとその日の課題をやらなかった私を叱ろうとはしない人たちだった。後になって、父に「私を育てる上で意識していた事はある?」と聞いた時は、「あまり深追いはしないようにした」と返された。確かに父は私のことを管理したいと思っている割には、詰めが甘いな、と思わせられることがいくつかあるな、と思い返される。今となっては、確認のしようがないことである。

 中高6年間バスケに打ち込んだことを理由に、受験勉強に打ち込めなかった言い訳をした私の受験結果は、まあまあ悲惨なものとなった。全滅こそ回避したものの、第一志望を含めた首都圏の私大3校に落ち、第二志望の国公立前期も、数学が200点中32点しか取れずに落ちた。前期に関しては、落ちたことが納得できずに情報開示を申請し、あまりのアホさにこれは今後の武勇伝になるぞ、と密かに思ってしまった。少し脱線してしまったが、つまり私は大学受験を5戦1勝という、浪人を直前で回避したことが唯一の成果となるような結果で終了させた。

 広い心で私を受け入れてくれた私の出身大学は、もちろん最初から私が志望していたものではなく、両親、特に父は私に1年間浪人することを強く勧めた。浪人を希望する受験生が親にお願いする話はよく聞くが、親に浪人してくれ、とお願いされる事はまれなのではないか。迷わなかったわけではないが、一年が途方もないほど長く感じていた私は、もう一度受験生として頑張れる自信がなかった。「無理、浪人は絶対にしない」と答え、子供部屋で勉強することを放棄し、晴れて私の出身大学がある甲信越地方で一人暮らしを始めることになる。もう一年頑張ることを諦めた娘を見て、思うことも多々あったと思うが、あなたがそう決断したのならば、と最後は気持ちよく私を見送ってくれた。1年間ぐらいは、長期休みで帰省した時に、「浪人してくれればなー」と言われる事はあったが、本気の口調でもなかった。

 地元を離れて、大学の周辺で一人暮らしを始めたわけであるが、最初は本当に寂しかった。最初に両親が私1人をアパートに残して帰った時は、狭い部屋でべそべそと泣いたこともあった。大学に入りたての頃、親はほぼ毎月、片道役3時間を高速に乗って会いに来てくれていたが、私が新しい生活に次第に慣れていったのを見て、来る回数を減らしていった。私が親離れを初めて実感したのは、車で両親が東京に帰っていった後もそれほど寂しいと感じなくなっている自分がいると気づいた時だった。

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