一級建築士に初受験で一発合格した体験談

忘れもしない2022年12月26日の午前9時半、一級建築士製図試験合格者の受験番号が公表。岩手県のPDFを焦る心で開き、たった一行しかないページの一番下に私の受験番号を見つけた。

まだ大学院二年生だった2021年10月から学科の勉強を始めた。2022年7月の学科試験をパスし、同年10月に製図試験を受験した。おおよそ一年間の全ての日曜日を費やした資格勉強は最高の形で実を結び、私は来年一級建築士になる。小学生からの夢だった。

2021年夏

まだノースリーブでも汗が噴き出す暑さの中、私は日建学院新橋校を訪れていた。内定先からいつの間にか資格学校に情報が提供されていたようだ。初めて電話を受け取ったのは、玉掛けの資格講習中だったことを覚えている。「御社の担当をしております、日建学院新橋校の〇〇です。」と言われた時は、日建学院と内定先が一体何の関係があるのか、と思っていた。が、なんてこともない勧誘だ。

新橋校で説明された内容はほとんど覚えていない。父から、一級建築士を受けるなら資格学校に行ったほうがいいんじゃないか?費用なら出してあげるから、と電話を受け取ったことを話した時から言われていたた。そのため、特にいろいろ考えずに日建学院のスーパー本科コースに申し込んだ。実は、後になって総合資格の方が合格率が高い、とか、日建にもオンラインのコースがある、とか、知ることになる。

2021年秋

私の記憶では10月頃から週に一回、法規の映像授業を受けに日建学院町田校に通い始めた。その後、私は町田校→池袋校→仙台校→盛岡校と4校舎を転々とすることになるのだが、個人的にはその中で町田校が一番合格率が高いのではないか、と感じている。他校と比べて受講生が少なく、それでいて講師に積極的に質問をしている生徒が多いように感じたからだ。また、この4校の中で一番苦手だったのはダントツで池袋校。生徒が多すぎて2クラスに分かれており、面談を始め、全ての対応が事務的だった記憶がある。

最初の頃、法規の授業と言っても、誰も監視していない個別ブースで2021年度の映像授業を流し見して、問題と解答を貰っていただけだった。正直講義内容の1割もわかっていなかったし、こっそり寝ていることもあった。こんなに意味のわからない、つまらない90分の講義でも、一回も私がサボらなかったのは、2つ理由がある。一つは、私の頭がかちかちで、一回こうと決めたらには絶対に曲げない性格だから。もう一つは町田駅にはルミネ町田があり、講義が終わった後にそこでウィンドーショッピングをすることが楽しみだったからだ。

少しばかり寒くなってから、3回だけ構造の集中講義が行われた。東工大の構造系研究室にいた私には余裕すぎでお茶の子さいさいだったが、上と全く同じ理由でちゃんと3回欠かすことなく参加した。

2021年冬

本格的な授業が始まったのは、12月だったと思う。その時はなんとも思っていなかったが、今ならわかる。製図の角番受験で落ちた生徒が学科を初めから受けられるようにしているのだと思う。

学科最初の授業がなんの科目だったのか、構造だった気がする。日曜日に授業を受けて、火曜日にその内容の復習となる講義、さらに次の週の日曜の午後に仕上げの講義、と言った形で1週間かけて一つの範囲をものにする。初めの頃、学部の頃から得意だった構造、環境はこの方式についていけた。しかし初めてとっつく法規は本当にぼろぼろだった。後に池袋校時代中間試験を受けるのだが、法規だけ半分しか得点出来なかったことを覚えている。

他の科目は、日曜日の講義に向け、水曜からから予習を開始すればある程度講義内容を理解できるのだが、法規は2週間前くらいからの準備をしてもなかなか内容が頭に入ってこなかった。最初に躓きを感じたのは、2週連続で法規の講義があった時だった。その頃は修士論文も佳境を迎えており、なかなかまとまった時間を勉強に費やせない時期だったのも災いした。

私が初めてにして唯一授業に参加しなかった回がある。法規の火曜授業だ。その翌日が修士論文の提出日だったからだ。授業準備もまともにしていなかったし、講義に参加しても、論文のことを考えてしまい、気が気ではないだろうと思ったため、戦略的撤退をすることにした。その1回分が影響したのかわからないが、結局ゴールデンウィークあたりまで法規には相当な苦手意識を抱くことになった。

2022年春

大学院を教授のお情けで卒業させてもらった私は、無事内定先のスーパーゼネコンに入社した。そこで私は心底驚いた。学科試験まで現場に出なくていいことになったのだ。もちろん私1人ではなく、同期入社の施工系60人余りが、全員現場に出ず支店で勉強するように取り計らわれたのだ。資格を取らせたいスーゼネの本気を見せつけられた私たちは、恵まれた勉強環境に喜ぶと同時に、とてつもないプレッシャーにさらされた。資格に合格することが、仕事なんだからね、言外にそう言われたのだ。堂々とそう言ってくる指導員もいた。

合格した今だから、このように思うのかもしれないが、人生は案外回り道をした時の方が得るものが多いと思う。どうせ同じ場所に辿り着くなら、みんなが歩いたことのある道よりも、自分がナタで切り開いた道の方が他の人にはできない拾い物ができると思う。しかし、現実私たち同期全員は1番まっすぐな一本道に進まざるを得なかった。その道に問答無用で押し込まれたのだ。後にそれが同期の自殺という最悪の結果を招いたのだと私は思う。

2022年ゴールデンウィーク

私は東京に帰ることもなく、仙台校に通って勉強していた。実はこの辺りの記憶が結構曖昧なのだ。日建ではルーティンのように勉強していたからかもしれない。

東北支店には、私を含めて4人の同期が配属された。5月から仙台の支店勤務、という名の勉強期間に入った。最初の頃は支店の会議室を4人で借りて、賑やかに勉強していた。受験勉強のなかで、この時期が一番楽しかった。わからないがところがあると、お互いに聞き合ったり、面白い暗記方を思いついた人は他の3人と共有した。眠くて内容が頭に入ってこない時は、こっそり居眠りをするなど、到底勤務とは思えない自由な環境だった。ちなみに、一回同期の1人が居眠りしていたところに、たまたま上司が入って来たことがある。全く起きる様子もない同期の姿に、起きている私たちの方がはらはらした。しかしそれでも上司は全く怒る様子もなく、「まあ頑張ってるね」くらいのことしか言われなかった。

ゴールデンウィーク前後は私の法規の点数が爆上がりした時期でもある。皮肉なことに日建学院のお陰とは言えない。会社が提携している総合資格の神授業を受けたからである。正直こんな質の高い授業が受けられると最初からわかっていたのなら、私も総合資格に課金していたかもしれない。しかし、その後他の総合資格に通っていた同期に聞いたところ、会社の講義を担当してくれていた先生はかなり有名で人気な講師で、普通の校舎の授業では、こんなにレベルが高いものではない、とのことだった。

2022年学科試験

7月の学科試験、私はなんと東京で受けた。他の同期は受験地を仙台に変更したのだが、私だけ頑なに東京で受けた。一回実家に帰って、製図板を仙台に持って行きたかった、という理由もある。だが、1番大きかったのはやはり土地勘のあるところで受けたかったからだ。万が一事故等で電車が止まったとしても、両親もいるし、仙台よりあたふたしないと判断した。

東京にには3つほどの受験会場があり、なんと知り合いの同期はだれも一緒ではなかった。1人寂しくはじめての会場に向かう途中、東北支店の同期3人が一緒に仙台の会場に行っていることを知った。こんなだったら私も同じ受験地にすればよかった、とその時思った。

試験を解いている時、普段通りを意識したつもりだったが、そうもいかなかった。私は一度決めた解答枝を普段は変えないようにしているのだが、本番はとてつもない量を変えた記憶がある。変えないように意識したのだが、「これを変えなかったら後悔する!」と何故かとても思い切っていた。変える前の枝も問題用紙に記録していた。後から採点すると、どちらにせよ総合点では合格していた。

しかし、計画はだけは本当にひやひやものだった。後1点でも低かったら足を切られる11点だったのだ。計画という科目には特に苦手意識はなかったが、既存建物を覚えることは好きではなかった。どうせ初見が出るだろう、と心のどこかでその分野の勉強を重要視していなかった。模試では過去問を中心に出題されたこともあって、点数は悪くなく、問題視もしていなかった。正直、今思い返しても試験中にやばい、と思うこともなかった。

私の計画を採点してくれたのは母だった。母が駅に戻る途中で手渡された計画の予想解答につけてくれた円バツをみて私は相当焦った。「こら、落ちたなあ!」と咄嗟に思った。その時は普段得点源になっている法規について、自信がなかったため、また来年か、と割と本気で最悪の展開を考えていた。

予想合格点が90が91と発表され、自分の自己採点が99だったにも関わらず、だいぶ不安だったのは計画に一問でもマークミス、消し残しがあったら落ちてる…と思っていたからである。今でもこのぎりぎりぶりには吐き気を催す。


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