ガソリンの海で
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うねる音が止んだことに気づいて目覚めると、白い光の中にいた。鉄の塊と錆びた鉄塔のようなものがガラスの向こうに見える。ガソリンスタンドだ。シライの顔の左半分に影が落ちている。
「寝すぎじゃない?」
「ごめん」
「いや、良いんだけどさ」
体調悪いのかなって思って心配になっただけ。そういうシライの口調は明らかに少し尖っている。ううん大丈夫、と返事しながら、高速道路に乗った頃くらいに気分が悪くなったことを思い出す。わたしは彼にそのことを言わなかっただろうか?気持ち悪いから少し寝て良い?と聞いたような、聞かなかったような。
わたしは妊娠している。まだ彼には言っていない。
自分でもまだ受け止めきれていなかったし、この微妙なタイミングだと、シライやシライの家族がどんな風に反応するのかも想像できなかった。初めて実家に挨拶するというだけでも結構なことだ。とにかく挨拶をして、わたしがどんな人間か、顔だけでも見せておかなければならない。そこに妊娠なんて大きな事柄が加わってしまうと、お互いのとりあえずの面通し、という大切な行程がすっ飛ばされてしまう気がした。
シライはずっと結婚に対して前向きに考えてくれていた。一度親に会ってみて欲しいんだよね。ほら、俺の実家海沿いだから。海見たことないって言ってたし、遊びに行きがてら来てみない?軽い気持ちでさ。
前々から何度もそう言ってくれていた。わたしが毎回はぐらかしていても、定期的に同じ言い方でそう言った。まるで惚けているみたいに思えた。
でもその押しに負けたわけではなく、お腹の中のことがあって止むを得ずわたしは首を縦に振ったのだ。
眠ってしまったことに対するお詫びするような気持ちで、「わたしがやるよ」と給油カードを受け取った。車の外に出ると、ぬるい風が頬を撫でる。ガソリンスタンドの強い光に照らされた林が、切り絵のようなシルエットを浮かべてわたしたちを囲んでいた。
ここはどこだろう。わたしたちはどの辺りまで来ているのだろう。朝には海沿いを走っていると思うよ、朝日が見えると良いねと出発前の彼が言っていたから、まだまだ彼の実家は遠いのかもしれない。ここはまだ、明らかに山あいのように思える。
わたしは車の免許を持っていない。どこであろうと車を使って移動するときには、いつもハンドルを握るシライの横に座って目的地に着くのを待つだけだ。
それでも長距離移動はそれなりに辛い。いや、かなり辛い。ハンドルを握らない者には握らない者なりの苦労がある。
シライは付き合いたての頃と違って、わたしが車の中でいつの間にか眠り込んでしまったりすると、明らかに不機嫌になった。だからわたしは出来るだけ頭を働かせて、彼に向かって話しかけたり、歌を歌ったり、窓の外を流れる風景を見ながら色々なことに思いを馳せたりする。眠らないように、彼が機嫌を損ねてしまわないように。ねえねえ動的均衡ってことば知ってる?この歌さ、テレビで流れまくってるから覚えちゃった。あ、あそこのコンビニつぶれたのに、また別のコンビニになりかけてるよ。
そのうち段々、ただ彼に媚を売っているような気がしてきて、惨めな気持ちになってくる。どれだけ気を遣っても、結局わたしは運転できないのだ。いずれ彼の機嫌を損ねてしまうのなら、わたしは車の中にいないほうが良い。わたしだけ電車やバスを乗り継いで、現地集合にした方が良かったのではないか、と本気で思えてくる。
そんなことを悶々と考えているうちに、わたしは毎回いつの間にか泥のような眠気に引きずり込まれてしまう。目覚めたときには、車の中の世界はより悪くなっている。シライは優しいけど、わたしを見えないように扱ったりすることがある。
「カード読み込んだら、後はノズル突っ込んでトリガー引くだけだから」と彼は言った。
セルフスタンドでガソリンを入れるのは初めてだった。寒い日も、彼が手をこすり合わせながら車の外に出て給油してくれていたのだ。
旧時代の電話ボックスみたいな機械にカードを差し込むと、「給油口を開けて、ノズルを差し込み、レバーを引いてください」とバカみたいに丁寧な説明書きが表示される。ピエロのようなキャラクターが、手順通りにガソリンを入れるアニメーションが流れた。ピエロは、ピエロには似つかわしくないように思える白いファミリーカーに乗っていた。
車の左後ろにまわると、身体にガソリンを注ぐ穴が開いていた。大げさな形をしたごついノズルは、わたしにはSF映画に出てくる未来の武器にしか見えない。見た目よりは軽いそれを、わたしは穴に突っ込んだ。
「おおお」
トリガーを引くと、車の暗い闇の中に液体を放つ感覚だけがした。液体が水面を勢いよく叩く音がする。
このホースはどこに繋がっているのだろう。ガソリンはどこから送られてきているのだろうか。
腕の先で唸るノズルを見つめながら、鉄でできた機械の下に、石棺のようなタンクがあるところを想像する。それは巨大な石棺で、このガソリンスタンドの床下全体に、静かにガソリンが波打っている。まるでプールのように。
ガソリンは、何百年もじっとしていた生き物の死骸である石油から作られているという。何百年もじっとしていて貯まったエネルギーを使って、わたしたちは何台もの車をものすごいスピードで走らせているのだ。
ノズルは勢いよく脈打ちながら、ガソリンを放出し続けていた。不安になるくらいだった。もしかするとガソリンは、ガソリンスタンドの敷地どころか地球の真ん中の空洞全部に満ち満ちていて、プールどころか海のようになっているのかもしれない。
「これ、いつまで待ってれば良いの?」
車の中のシライに、わたしの声は聞こえていない。彼はハンドルにもたれかかって、フロントガラスの向こうの闇を見つめていた。ガソリン、と思われる液体は、その間も止め処なくわたしの指先からこぼれ続ける。ごうごうと音を立てて、わたしたちの車はエネルギーを飲み込む。
「ねえ」
ガソリンの匂いが鼻をついた。いのちから出来ているとされている割には、いのちっぽい匂いがしなかった。
わたしは車の真ん中に向かって、かつて何かのいのちだったものたちが混ざり合ったものを注ぎ込む。それはまた車の中でぐるぐると混ざって、車の機構の中に巻き込まれると、車を走らせるエネルギーとしての意味を持った。
ガソリンスタンドの張りぼてみたいな柱の間を風が通り抜けていく。屋根の光は、わたしに向かって注いでいるように思える。
もしこのままガソリンが止め処なく流れ続けて、車からガソリンが溢れだしたらどうしよう。それでもノズルは放出を止めず、地面の下にある赤茶けた海が裏返ってしまっても、わたしは知らない。車ごと沈んでいく彼を置いて、わたしは泳いでどこかに逃げるしかないだろう。車ごと沈んだ彼も、何百万年後に化石になったら、こんなふうに無機質な匂いがするのだろうか?
静かなガソリンスタンドの海の真ん中で、自分がどこにもつかまれずにもがいているところを想像した。
がつん、という音がして指先が軽くなった。給油が終わったのだ。ノズルを出したひょうしに、その口からぽたぽたと滴が垂れて、ガソリンがわたしの白いエスパドの爪先を濡らした。わずかに赤みがかった滴のせいで、靴が錆びてしまったみたいに見えた。
「出来た?」
「出来たよ。でも溢れるかと思ってドキドキした」
「怖かったらトリガー離せば良いじゃん」
「トリガーハッピーなんだよ」
意味がわかんないよ、と言いながらシライはエンジンをかけた。
わたしたちがガソリンスタンドを出る丁度その時に、わたしたちが行く方の道から、彼の車と全く同じ車種の車が入ってきた。未来から来たみたいに思えた。運転席は暗がりになっていて見えなかったけど、助手席が空白になっているのはわかった。
「おかあさん、喜んでくれるかな」
「大丈夫だよ」
シライはそう言った。わたしは何を喜んで欲しくて、シライは何が大丈夫なんだろう。
「トンネル抜けると、海が見えるよ」
もうすぐシライの生まれ育った街が見えてくる。彼の街や家族のことを、わたしは好きになれるだろうか。彼の家族は、本当に彼の言うように、わたしのことを受け入れてくれるだろうか。
いつかわたしが免許を取ることを考えた。彼を横に乗せてアクセルを踏み、ガソリンを燃やすところ。ガソリンが尽きそうになったら、また穴の中にガソリンを注ぐ。
まっすぐで長いトンネルの中を、車がガソリンを燃やしながら走っていた。車が走る音が反響する、地響きみたいな音にかきけされて、彼が何て言ったのかわからなかった。靴についた、ガソリンの匂いが鼻をかすめた。目に染みないように、目を瞑る。
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