テキストヘッダ

バックシート・フェアウェル

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「おいでよ」
 トクサはいつもそう言って私を誘った。そうとだけ言われることが、私にとって一番効果的だと知っていたからだ。

 最初のときのことをよく覚えている。トクサと二人、夜中まで携帯電話のメールで話をしていた。
 多分映画とか音楽の話をしていたのだと思うのだけど、その途中で突然「ねえねえ、アサコちゃんさ、アイス食べたくない?」とメールが来たのだ。
 私も何か予感みたいなものを感じて「食べたい」とだけ返すと、トクサからは「じゃあさ、今からおいでよ。途中のセブンイレブンで買って来てよ」という返事が返ってきた。
 そのとき不思議と、普通こういうのは男の子の方が来るもんなんじゃないの?とは思わなかった。こんな夜中に小間使いされるのだ、とも。すぐに「わかった」とだけ返事をした私は、寝巻きのジャージの上に薄いパーカーだけを羽織って、蒸し暑い夜へと踏み出して行った。
 トクサはセブンイレブンの前に立っていて、「こんなにすぐ来てくれるなんて思わなかった」と言って笑った。コンビニの強い光に照らされた、トクサの優しい横顔をよく覚えている。
「女の子がこんなにすぐ男の呼びかけに応じちゃダメなんじゃない?」と笑いながら、トクサはアイスを奢ってくれた。カップのバニラアイスを手に取ろうとすると、「歩きながら食べるんだから棒付きのにしなよ」と言って、銀紙に包まれている駄菓子みたいな棒付きアイスを私に渡した。トクサは自分用にビールを買った。二人でそれを食べたり飲んだりしながら、くるくると私たちの住む街、まだ住み始めたばかりのその街を散歩した。この定食屋さん、安くて旨いんだよ、アサコちゃん行った?あそこの角、すっごい変な本ばっかり置いてる古本屋なんだけど、休みが不定期すぎて入れるかどうかいつも運次第なんだよね。ここのカフェ、確かにお洒落っぽいけど、もうちょっと行った先の喫茶店のほうが渋くて居心地いいよ、こんど一緒に行こうよ。
 その時の取り留めなさとか、昼間の灼熱が夜の冷たさにゆっくり溶けていく感じとか、人気のない夜の街を行く高揚感みたいなものが、私の心の中にとても美しい思い出として残っていて、そろそろ大人が十年選手になる今でも、時々思い出される。


「おいでよ」
 久しぶりに届いたそのメールをどのように返そうかうじうじと悩みながら一日が過ぎた。不覚にも仕事中もずっと、アトリエで鉄を打つトクサや、手早く美味しいおつまみを作るトクサの姿が思い浮かんでしまって、全くはかどらなかった。
 流されるように、もうこのまま返事をしないでおこう、と思って布団に入っぽいたころにもう一通、「会いに来てよ、アサコちゃん」というメールが届いた。
 会いに来てよ、か。
 時計を見ると、一時になるほんの少し前だった。
 ちょうど終電が行ってしまったところだ。


「どうしてこんなところに住んでるんですか?」と、タクシーの窓の外を眺めながらイシダくんは言った。
「もっと会社の近くに住めばいいのに。不便じゃないですか?」
「学生のときからここに住んでるんだよ」
 トクサと通った定食屋の看板が、窓の外を流れていく。あの定食屋は、私たちの在学中にご主人が病気になって店じまいしてしまった。閉店時には、現役生はもちろん、OBやOGもたくさん集まって「ありがとうの会」を開いた。ご主人が今も生きているかどうかは知らない。
「ええ、大学がこの辺ってことは、キシモトさん美大出なんですか?」
「そうだよ」
 イシダくんは「ええー!」と大げさな声を出してしきりに感心した。知らなかった!すごいな、キシモトさん。言われてみれば、美大生って感じのオーラありますね。
「それって私がちょっと変わってるみたいなことが言いたいの?」と冗談のつもりで返すと、イシダくんはいたって真面目な調子で、「僕はモノが作れる人って、無条件に偉いと思っているんですよ」と言った。
 今ってインターネットで、誰でもみんな映画や音楽についてごちゃごちゃ言うじゃないですか。ほら、いっぱしの批評家みたいに。ああいうの、別に良いと思うんですけど、僕は作る側がいつも絶対的に偉いと思ってて。たぶん、僕がそういうことに憧れてるっていうのが大きいだけなんですけど。でもやっぱり、ゼロをイチにすることが一番偉いですよ。
 イシダくんはまだ酔っ払っているのか、大きな声でそんな話をした。そして、そうかあ、そうだったかあと何か得心したみたいにつぶやく。
「そんな風に言ってくれるのはイシダくんだけだよ」
 みんながみんな、本当に真剣に何かを作りたくてここに来るわけではないのだ。なんとなく絵が好きだからとか、図画工作くらいしか得意科目がなかったからとか、そういう理由でこの大学に来て、なんとなく卒業していく人のほうが遥かに多い。そう、私のように。就職課の職員に「この大学で養われたクリエイティビティは、どんな会社に入っても必ず役に立ちます」と言われてなんとなくそう思っていたけれど、私はまだちゃんとそれを実感できていない。木を削ったり鉄を打ったりする仕事がこれからあれば別だろうけど。
「だいいち、私はもう何も作っていないし」
 イシダくんはもう私の言うことなんて聞いていなくて、「あそこ、いい感じのカフェがありますね」とか「あ、ボルダリングジムがある」とか、指を差しながら私の街をつぶさに観察していた。そうか、これがキシモトアサコをかたちづくった街か。なるほどな、なるほど。確かにそう思うと、素朴ですてきな街に思えてくるな。
「そこの雑居ビルを右に曲がってください」
 少し行くと、林に囲まれた小さな鳥居が見えてくる。私の家が近づいてきた証拠だ。私は鞄を膝に置いて、車を降りる準備をする。この神社で拾った猫を、軽音楽部の部室で飼っていた。今もあの猫はあの部室で暮らしているのだろうか。
「住みやすそうではありますけど、やっぱり通勤大変じゃないですか?」
「ごめんね、こんなところまで」
 ああ、そういう意味じゃないですよ、と言ってイシダくんは笑った。タクシー券もらってますし、何より課長命令ですから。
 扉を閉めてしまうと、私とイシダくんの間を隔たる境界線ができた。私は曇りガラスに向かって、見えないイシダくんに手を振る。
 なかなか出発しないな、と思ったときに窓ガラスが開いて、改まった表情を隠しきれていないイシダくんが現れた。
「キシモトさん、もし良かったらいつかお茶しましょう、二人で」


 自分でお金を稼ぐようになって初めて、自分にはお金の使い道がないのだということに気づいた。気づいてしまった。
 毎月、それなりにあくせく働いてみると、別に貯金口座を分けているわけでも、爪に火を灯すような節約生活をしているわけでもないのに、いつの間にか残高が積み上がっていた。
 働く前は、欲しいものがもっともっとたくさんあるような気がしていた。そして自分はそのために働くのだと。学生時代は、いくらバイトをたくさんしていても制作費でお金がすっ飛び、それこそ米櫃を傾けながら暮らしていたはずなのに。
 社会人になって、制作をやらなくなってしまったのだから、当然と言えば当然だ。
 
 それに気づいたのも、タクシーに乗ったときのことだ。持ち金が3000円ちょっとしかなくて、コンビニのATMでお金を下ろさなければいけなかった飲み会の帰り。216円の手数料に尻込みしながら10000円を下ろしたあと、タクシーの中でふと明細を見て驚いた。いつの間にこんなに溜まっていたんだろう。
 ほくほくした気持ちになるなんてことはなかった。タクシーの中で、会社と家を往復するだけの生活を振り返ってみて、そのさもしさに何だか情けない気持ちになっただけだった。そういえばこないだの日曜日も、夏服を買う気で街に出たはずなのに、帰って来たら好きな漫画家の最新刊しか持っていなかったのだ。それもトクサからおもしろいよ、と教えてもらった漫画家だった。
 窓の外を景色が流れていく。いつも引っかかる、なかなか青にならない大きな横断歩道を、タクシーは黄色信号で渡っていく。自転車の二人乗りをしているとき、トクサは漕ぐのをやめると私と自転車の重みを支えることができなくて、よくこの横断歩道の手前でひっくり返った。そんなことを思い出している間にも、みるみるメーターは上がっていく。
 新宿から私の家までの運賃、5450円を払った。酔ってフラつく足でアパートの階段を上がりながら、何をしているんだろう私は、という気持ちがせり上がって力が抜けた。立ちっぱなしの弁当屋のバイトを半日やってやっと稼げるくらいのお金を、たった数キロの移動で使ってしまった。これであの定食屋に何度通えただろう。いつかお金持ちになったら、ここで定食にビール付けて頼もうね、と言っていたことまで思い出されて、涙まで出てきた。


 そして私はいつの間にか、タクシーにお金を使うことを躊躇しなくなっている。
 ちょっと間に合わなさそう。なんだかこのヒール靴擦れしそう。坂道が続いている。寒い。蒸し暑い。
 「どうせ使い道がないのだから」と、私は大した距離でなくてもタクシーに乗り込むようになった。そうやって時々思い出したようにタクシーに乗り、適度に手持ちのお金を減らしていった。高い化粧品を買うとか、良い靴を買うのではなく、物として残らないのがよかった。不思議なもので、そうやって微妙に財布の中身を減らし続けていると、かつてお金がなかった頃の飢餓感みたいなものを思い出して、ふつふつと物欲が湧いた。タクシーを使って浮いた外回りの時間で、ちょっといいランチを食べたり、一度に本を二冊買ったりした。
 熱心にお金を貯めている人を見たり、テレビで節約術を披露する主婦などを見ると、気分が悪くなった。大抵、その人たちがそうやって貯めたお金を何に使おうとしているかは教えてくれなかった。目標が不明瞭なまま、ただただ漫然と努力をしている人を見ると、少し前の自分のことを思い出して怖くなるのだ。
 そんなに深く考えなくても良いじゃないと人は言うのだろうけど、自分が何のために生きているのかということがふとわからなくなってしまった人間としては、こうして小さな歯車で動きつづけていないと、全てが簡単に狂ってしまいそうな気がした。
 昔よりも今の方が、ある意味切実な作品が作れそうだなと思った。

 車を買って交通手段が増えるというのはこういう感じだろうか。タクシーに乗るようになって、東京という街がそれまでと違って見えるようになった。
 とにかく、どこにでもあるタクシーを見て、歩くのとは比べ物にならない速さで私を遠くまで連れて行ってくれるのだと思うといつも、なんだかマリオがスターを取って、無敵になった時みたいな気持ちになるのだった。
 東京暮らしもそれなりに長くなってきたと思っていたけど、タクシーの窓の外には知らない街や道や路地や家や店が、そこかしこにあった。
 トクサが見たら、唾を吐いて通り過ぎそうなカフェ。嬉しがってまたがりそうな、塗装の剥げた不気味な動物たちの遊具しかない公園。アサコちゃん、おもしろそうだから入ってみようよ、と言いそうな古いラブホテル。
 タクシーが通り過ぎた瞬間にその路地や建物は過去になっていて、私は後から思いを馳せることでしかその場所にいられない。行ってみたい、と思っても時間もエネルギーも足りず、一瞬の間に記憶の片隅に追いやられてしまう。そういう場所が、東京にはたくさんあるのだった。
 そして私の心に引っかかってこない、何の変哲もないビルやマンションにも、当然人々の暮らしがあるのだと思うと、何だか途方もないような気持ちになった。理由もなく、なんとなく涙が出そうになる日すらあった。当たり前なのだけど、私は絶対にこの街の全ての営みを知ることは出来ないのだ。それどころか原理的には、私は私自身の暮らししか知ることができない。
 そのほんの一滴に過ぎない私は、東京という街の神様にとって、どのように見えているのだろう。そう思いながら、私はタクシーに乗るのだった。


 トクサがいなくなったのは、私たちが大学に入って四回目の秋口のことだった。

「そうやって、自分の都合が良いときにいつでも来てもらえると思ったら大間違いだよ」
 電話の向こうで、川が流れる音が聞こえた。
「トクサ、私はトクサのぬいぐるみじゃないんだよ」
 ふっとトクサは短く笑って、なに、そのメロドラマみたいな台詞、と言った。
「アサコちゃんも、そういうこと言うんだ」
 それが、そのメロドラマみたいな台詞のことを言っているのか、私がきっぱり断ったことについて言っているのかよくわからなかった。
「もういいよ」とだけトクサは言って、電話を切った。

 次の日にはもう電話が繋がらなくなっていて、トクサは古いあのアパートから消えてしまっていた。そういう風に突然消えたりすることをかっこいいと思いそうな人だったから、私は余計に腹が立ってしまって、探そうともしなかった。探せばトクサの思惑通りだ、という気がした。
 トクサがアトリエの隅に残していった、未来からやってきたみたいなモニュメントは、卒制展示が終わると同時にぺしゃんこに潰されて廃棄された。誰の作品かわからなかったり、習作として作られたものは全て捨てて、次に入学してくる学生たちのためにスペースを明け渡さなければいけないのだ。
 トクサが作ったその、立方体が宙に浮かんでいるみたいなどことなく気味の悪い作品の仮タイトルを、私だけは知っていた。「セーブポイント」だ。
 今のゲームってさ、いつでもどこでもセーブできちゃうんだよ。それってなんか間違ってると思うんだよね、おれは。
 セーブポイントがなくなったら、トクサは復活できなくなってしまうのだろうか?


「キシモトさん、気にしないでくださいね」とイシダくんは言った。十分、楽しかったです。また明日からは普通に先輩と後輩でお願いします。
 イシダくんはその日もちゃんと私を送ってくれた。もうどうせフラれるんだったら、いっそちゃんとそのトクサって人の話聞きたいですよ、僕は。
 イシダくんとスタバのアイスコーヒーを飲みながら歩いているときも、やっぱり私はトクサと二人でガリガリくんを食べながら歩いた日々のことを思い出してしまうのだった。
「僕は歩いて帰ります」
 いやいや、初台って歩いたら2時間くらいかかるでしょ、と言うと、イシダくんは放っておいてくださいよと言って笑った。吹っ切るのにはそれくらいの時間がちょうど良いんですよ。携帯見たり電話したり一切しないで、歩きながら忘れていくことにします。
「初台まで、多分4000円くらいかかりますかね」
 いやー僕はやっぱりタクシー代で4000円は、ぽん、とは払えないな。やっぱりキシモトさん変わってますよ。そう言って、キシモトくんは笑顔で去っていった。


 会いに来てよ、か。私はパーカーを羽織る。

「トクサはどうせ、もう私が会いに来ないと思ってるんでしょ」
 指が勝手にそう返信を打っていた。
「いつもこうやって、私を試してるんだ。来るかな、どうかなって。来たら来たで、なんだか物足りないような気持ちになるんでしょ。来なかったら来なかったで、自分で勝手に寂しくなってるんだ。いつも真ん中にいるのは自分なんだよ、トクサは」
 トクサは何も返事してこなかったけど、ちゃんとメールを見ているのが私にはわかった。
 タクシーの窓の外で、いくつもの星が流れていく。星たちはちゃんと自分たちの意思で瞬いているのだ。勝手に適当に点いているものなんて一つもなかった。
 料金メーターはテンポよくくるくると回った。エレベーターの階数表示が壊れてしまったみたいに、どの位の数字も、ルーレットのようにランダムに入れ替わっていた。
 トクサ、悪いけど、私は行くよ。トクサは私が、自由にタクシーを使えるようになっていることを知らない。いつでも、すぐに、どこにでも行けてしまうことを知らないのだ。
「私がこうやって身体だけをトクサのところに向かわせていても、結局もう私の心はそっちには行けないんだよ。もう遅すぎるよ。どうしてもっと早く帰ってきてくれなかったの」
 意味不明なことを言っているのはわかっていた。私はやはりトクサの言う通り、割とメロドラマっぽい台詞が好きなのかもしれない。
「トクサだって同じだよ。あんな風に、突然消えたつもりになっていても、上手く消えられなかったからこうやって私にすがるみたいなことするんだ。私は、トクサのセーブポイントじゃないんだよ。会いに来てって、どこに?心と身体、どっちのトクサがそこにいるの?」
 車が走るほど、空に浮かんでいる月も位置がずれていった。月というのは、少し移動しただけでこんなに見える場所が変わるものだったろうか。私の錯覚のようにも思える。
「行こうと思えば、どこにだって行けるんだよ、私は」
 この街に住み続けていたところで、私はちゃんと大人になってしまっていた。

「ごめんね」という返事が来たので、タクシーを停めてもらった。
 4250円払って、私は目的地の途中で降りる。

 高架の上から国道を見下ろすと、深夜なのに何台もの車が通り過ぎていった。
 私が見ている間に流れていく車の中には、やはりちゃんとタクシーがあった。こんな夜中に、家以外のどこかに向かうタクシーがあるのだろうか、と想像した。
 一台くらいは、どこか行きたい場所とか、行かなければならない場所へ行くタクシーがあってもいいだろう。
 私は空車のタクシーを手を挙げて停める。

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