テキストヘッダ

※縦書きリンクはこちら https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURdlZ5VUVmUlhuTFk

 ぱたーん、という高い音が聞こえて振り返ると、ニシダくんがイーゼルと一緒に床に伏していた。隣に立っていた男の子が呆然としている。
「保健室へ行け」
 先生はそうとだけ命令した。
 教室から声が溢れる。ええー指切っただけなのに倒れたの?貧血?ニシダくん線が細いもんね。いやでも結構血出てたよ。私は無理矢理集中して、ガラクタが積み重ねられて作られた塔をデッサンすることだけを考える。関係性のない物体の組み合わせをデッサンすることで、物と物との空間的な相関関係だけををより正確に捉えられる。そういうことらしかった。
 みんなで塔を囲んでいると、ボロボロになった世界で狂った神様に祈りを捧げているみたいに感じる。もう何もかも手の施しようがなくなってしまっているからこそ、神に祈るしかないという世界。
 どうしてもトイレが我慢できなくなって一度席を外した。「僕は一度夢中になったら食事も排泄も忘れてしまうんだ」という有名な画家の言葉を思い出しながら便器に腰掛けると、座った瞬間に身体から何かが抜け出ていくみたいな感覚がした。

 席に戻るときにちらりと見えたニシダくんのデッサンは実に見事で、非の打ちどころがなかった。絵の中からこっちを見ているメディチ像に触ることができそうなくらいだった。
 きっと彼は鉛筆を削るときも早くデッサンに戻りたくて手を切ったのだろう。この瞬間の塔の形が逃げてしまう前に、早く全てを捉えてしまいたかったのだろう。
 自分のカンバスの前に座ると、またデッサンを初めからやり直したくなった。そもそも最初から、形がきちんと取れていないのが気に入らない。いくら影をつけても、画面の中はだんだん嘘っぽくなっていくだけだった。

「ヒガシオさん、いいね」
 脂ぎった先生が後ろから私と私の作品を見ていた。
「もうちょっと、奥行き出るといいよね」
 そう言いながら先生は、カンバスの下、つまり手前に当たるところの線を濃く塗っていった。
 だんだん画面が現実と遠ざかっていく。
 先生は私の手を取って、鉛筆の握り方を指導した。線が硬いよ。もっと、こう、やわらかく!私の手を包むその掌がじんわりと湿っていたせいか、口の中で噛んでいたガムと先生の手が同化したみたいに感じて吐き気がした。

 夕方になると、デッサン室には私以外誰もいなくなっていた。
 デッサン室は古く、夕日が傾くとカーテンの隙間から光が差して、どうしても影が散ってしまう。さっきまで見えていたモチーフが違って見えるようになってしまうのだ。塔の影は幾重にも重なって、私のところにも薄く伸びてきた。
 いつまで経っても私は、塔の輪郭を捉えることができない。
 手前に練り消しを当てていると、はっきりとタッチの違う線が浮かび上がった。
 先生の引いた線だ。

 私は爆発する。
 衝動的にイーゼルを蹴り飛ばした。イーゼルが、またぱたーんという大げさな音を立てて倒れる。
 肩で息をしていると、扉に手をかけているニシダくんがそこにいた。

 ニシダくんは私と目を合わせないように自分のカンバスの前に座った。
 ニシダくんは何も言わない。
「何か言えよ」
 私はイライラしていた。もうかれこれ二ヶ月近く。レベルの高い奴にも低い奴にも腹が立った。悔しい。何しにこの大学入ったんだ。馬鹿。アホ。ドジマヌケ。何でこんなレベル低い大学入ったんだ。浪人すればもっと良いところ行けるだろ。そういうやつらがみんなぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃつるんで一塊になって何だかよくわからないものになる。私はそこに入ることができない。
 家で気ままに筆を動かしていても、最近は死刑囚が描いたみたいな絵ばかりが出来てしまうので落ち込んだ。多分見たかったアウトサイダー展の図録を、大学の図書館で眺めたからだ。入学して真っ先に見るような図録ではなかったなと我ながら思う。そもそもこんなに簡単に他人の作風に影響されていいのかとも思う。
 ニシダくんは俯いていた。西日がニシダくんの右頬を照らし、左側に影を落とす。
「デッサンしに戻ってきたの?」
 ニシダくんは怯えながら首を縦に振った。
「えらいね、」
 えらい。えらいよニシダくんは。えらすぎるよ。やっぱり上手い人は努力してるんだよね。描いて描いて描きまくって上手くなるんだよね。もう上手いのにまだまだ上手くなるんだよね。上手いから面白くて仕方なくてモチベーションも下がらない。下手くそはどんどん下手くそになって、こうやって卑屈になって、自分が見下している人たちと同じ穴のむじなになるんだよね。もう最悪だよ。この二ヶ月ずっと上の方のグループに入りたいと思って頑張るんだけど、だんだんだんだんみんなその同じ穴に入って、もう穴の外にいるのは数人じゃん。その中の一人がニシダくんだよ。わたしたちは暗い穴の中から、明るい日に照らされながら作品作ってるニシダくんの姿を見ているしかないんだよ。ずるいよ。
 ニシダくんは包帯を巻いた左手を触りながら、カンバスの左下の空白を見つめていた。私は喋れば喋るほど卑屈になっていく。
 左手でよかったね。利き手右でしょ?右手の親指だったら、鉛筆握りにくいもんね。一日でも描かない日があるとさ、すぐに鉛筆握る感覚忘れちゃうんじゃないかって思って不安になるよね。一日どころか半日に一回くらい不安になって、スーパーでりんご選んでてもそれがモチーフに見えちゃうんだよ。さて食べようって段になって包丁持っても、待てよやっぱり先にデッサンしようかななんて思ったりするの。家にいたって落ち着くヒマがないよ。先生たちはみんな、息するように描けとか言うけどさ、そんなの無理だよね。息のこと舐めすぎだよね、みんな。私は息の仕方だってわからなくなって窒息しそうな日があるよ。呼吸器つけて息してる人の前で同じこと言
「声が聞こえたんだ」
 ニシダくんが遮るように言った。
「血が止まらなくて困ってるときに、声が聞こえたんだ」

 兵士の死体が幾つも転がっていた。銃声が聞こえる。何度も。
「もう手遅れだ」と、彼は言った。「自分でわかるんだ。腰から下の感覚がない」
 血が、血が、血が止まらない。親友の血。手で圧し止めようとしても、いくら包帯にしみこませても、血が湧いてきた。
 だめだだめだだめだ、と僕は言い続けていた。目を瞑るな。
 ひゅう、と空気が抜けていく長い音が一度口から放たれた後、彼は目を閉じて何も言わなくなった。その間も血は流れ続けた。血は生暖かくて、どれくらい時間が経ったのかもいつ彼が死んだのかもわからなかった。彼の小さな体のどこにこんなにたくさんの血液が流れていたのかと思うくらい血は流れ続けた。あまりにも血が湧き続けるので、もしかしたら彼はまだ生きているのではないかと、あるはずのないことを思った。
 生ぬるい涙が流れ続けていた。戦場で泣いている暇はないのだけど、いくらでも涙が溢れてきて、止まる気配はなかった。

 意味がわからない。どうしてそんな話を?自分の繊細さをアピールするため?指をカッターで切って血が止まらなかったくらいで、頭の中の物語に深く感情移入してしまうくらい感情豊かな自分を?
 ニシダくんが遮ってきても、私の卑屈さは増していくばかりだった。
「ひよわだなと自分でも思うよ」
 ニシダくんはぽろぽろ涙を流して嗚咽した。重力に引かれて、輝く滴が床に向かって落ちていくのが美しく、私はまた余計に卑屈な気持ちになる。
「でも、本当にそういう声が聞こえてきて怖かったんだ。指切ってちょっと血が止まらなかっただけで、倒れるなんて」
 ニシダくんははあはあと息を切らせていた。
「頭がおかしいのかもしれない、僕は」

 嘘だああああー!と反射的に私は叫んでしまっていた。うそだうそだ。そんなの。声なんて聞こえるはずないよ、ニシダくん。頭なんておかしくないよ。本当はそんな声聞こえていないのに、聞こえたような気がするだけだよ。全然普通だよ。おかしいとしたら、自分がおかしいんじゃないかって思うことがおかしいんだよ。頭がおかしい自分が好きなんだ。アーティスト肌で、繊細な自分が好きだから、そんな声聞こえていないくせに聞こえたとか言うんだよ!
 ニシダくんは呆然としていた。私自身だって何に対して怒っているのかわからないのだから当然だろう。
 血が出てるからなんだよ!と私は叫び、とっさにイーゼルの横に置いていたカッターを手に取った。自分のものなのかよくわからない確かな意志で、私はカッターの刃を出した。キリキリキリと刃の音がした。
 ニシダくんは目を見開いて私を見ていた。私はニシダくんの指先を見ていた。今も血がじくじくと滲んでいるのが、包帯の上からでもわかった。
 女の子は毎月血を見るから慣れてるんだよ!一ヶ月ずっと血が出続けるんだよ!ニシダくんがおかしいなら私たちはみんなおかしいんだよ!見てなよニシダくん。血が流れるのが怖いなら、私が見せてあげるよ。繊細なニシダくんは、目の前の私にちゃんと感情移入してもう一度倒れてみなよ!そしたら頭おかしいって認めてあげるよ!
 左手の指先に鋭い痛みがほとばしった。

「目を瞑らないでくれよ」
 ピンホールサイズの光の先から声が聞こえた。
「こんなところで眠っちゃ駄目だ。お前は俺と違って奥さんが待ってるだろ!」
 目を開けると、碧眼の男が私を膝に抱えてぼろぼろ涙を流していた。焼け焦げた細長い建物から、静かに煙が上がっているのが見える。空はアホみたいに晴れていた。
「大丈夫だ。これくらいだったら、飲んだビールが穴から出て行くのよりお前の飲むスピードの方が速い。早く基地に帰ってみんなを笑わせるんだ」
 男は嗚咽していた。だめだ、だめだ、と私に向かって語りかける。
「もう手遅れだ」と、私は言った。「自分でわかるんだ。腰から下の感覚がない」
 良い奴だな、と思った。私のために泣いているんだなと思った。これから死ぬ私よりも激しく泣くのだ。私の死体を引きずって基地に帰る自分の姿を思っているのではない。私の痛みや私の家族の痛みを思って泣いてくれているのだろう。
「ありがとう」
 また視界が狭くなっていった。友達の向こうに見える、太陽の光に晒されているボロボロの鉄塔が妙に美しかった。

 気がつくと保健室のベッドの上だった。
 指先に包帯が巻かれていて、ほとんど真っ赤に染まっていた。
「課題が大変なのはよくわかるけど、焦っても良い作品はできないわよ」と、保健室の先生は言った。ニシダくんが保健室まで私を運んでくれたのだという。あのニシダくんが?肩を貸しながら?それとも背中に背負って?まさかお姫様抱っこで?

 指が脈打っているのがわかった。指先から血が溢れている時にしか、自分の脈動を感じることができないのはどうしてだろうと思った。

 次の日朝早く学校に来てデッサン室を覗くと、塔が崩れていた。
 一限目と二限目をサボって、私はその崩れた塔をデッサンした。
 目を細めて塔を見つめると、ぼんやりとその輪郭が浮かび上がった。友達が私を呼んでいる声が聞こえるような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?