Frog Portrait
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敷地の中に小川が流れている。小川と言ってもほんとうにささやかな川だ。そんな小川がほつれたように、さらにささやかな小川へと分かれている。どこから流れてきている小川なのか知らないが、敷地のすぐ裏手には蔵王山系が連なって聳えているので、奥深い山の上から流れてきている水なのかもしれない。
その中でもいちばんささやかな小川のほとりで、かえるがカンバスに向かっているのを見かけてしまい、いささかぎょっとした。かえるは小さな丸椅子に腰掛けて、細くて筋張った脚の膝の上に左手を置いていた。右手にはかえるサイズのちいさな鉛筆を持ち、さら、さら、さらと器用に鉛筆を動かしていた。
「むう」
と、鉛筆を動かす手を止めたかえるがあまりに大仰なため息を吐くので、僕も思わず気になって、細く伸びたスズメノカタビラの間から様子を伺った。静かに息を潜めていると、小川のせせらぐ音が大きくなって聞こえた。
カンバスには、人間の人物画と思しき絵が描かれている。
身体のほうをよく見ると、まだ尻尾が残っているかえるだった。生々しさがまだむき出しのままの、ぬらぬらと光る尻尾だ。その生々しさに息を飲んだ拍子に、少々身じろぎをすると、かえるが身を翻してこちらを見た。
「あ」と声を漏らしたのはどちらだったか。
「あんまりじろじろ見ないでください」と、彼は手のひらを広げ、長い指でカンバスを覆った。
「そんなところからこそこそ見るだなんて」
「ごめんなさい」
まぶたのたるんだかえるが、黒目を細く尖らせて怒るので、僕はすぐに謝った。
「こそこそしているつもりはなかったんですが」
かえるはきっとした目でまだこちらをにらんでいる。かえるににらまれるということわざがあったようななかったような、とその目を見て思った。とはいってもやはりかえるはかえるなので、恐ろしさはなかったが、あまりの剣幕だったので、気まずくて立ち去ることもできない。ぷくくくく、とのどを鳴らす音も聞こえた。
「でも、敢えてことわるのも変かなと思って。見ていてもいいですかって」
そうささやくように言うと、かえるは僕の目をまっすぐに見据えた。
「確かに」
かえるは一度大きくのどを膨らませると、吐き出す息とともにカンバスを覆う指の幕を上げた。鋭く尖っていた目が、炊いた黒豆のようなつややかな楕円形になった。
「私も集中力が切れ始めたところで、少々いらいらしていたのかもしれません」
彼はわずかに身を斜にして、カンバスをこちらに向けた。どうやら警戒は解いてくれたらしい。僕は絵を見つめた。
カンバスの上に描かれた絵は、頭を丸く刈り上げた青年のポートレートだった。まだ尻尾の残るかえるらしからぬ、大胆な筆致である。物憂げな表情を浮かべている青年の目に、奥行きのある世界が透けて見える気がした。
「習作なんです」と彼は言った。「なかなか上手くいかなくて」
「とても素敵に見えますが」
それは人間としての僕の、率直な感想だった。
かえるは腕組みをして「ううーん」と唸った。「なんだかね、納得いかないんです。何かが足りない」
ふうむ、と僕も悩んでみる。何がどう足りないのか。僕ももしかすると、小川のほとりに突然現れたその風景を含めて、その絵を評価してしまっているのかもしれない。作品だけの評価は、この僕には難しい。
「自画像っていうのは、嫌でも自分と向き合う作業になって、思ったよりも戸惑うことが多いんです」とかえるが言ったので、また面食らってしまった。自画像だったのか。彼には彼自身が、こういう風に見えているのだろうか。それとももしかすると、僕の目がかえるの絵を正しく見ていないのかもしれない。確かに、絵の中の青年の横一文字に結ばれた口元は、僕の目の前で腕を組んで絵を見つめるかえるのそれと似ていなくもないような気がした。
「ざっと一枚描いてみた後、軽く水浴びなんかして帰ってくると、なかなかうまく描けていたと思っていても、何でこいつはこんな不満そうな顔してやがるんだなんて、絵とは関係のないことを思ってうんざりしてしまうんです」
そう言われて、僕はぐぐっと顔を近づけた。そう言われてみると、絵の中のその瞳に映している世界が、どことなく歪んで見えないこともない気がした。
顔に、川のせせらぎから立ち上る冷たい冷気を感じた。この川はまだ、蔵王の雪解け水を運んでいるようだ。
「かえるという生き物は、不思議です」
かえるは、カンバスの中の自分を見つめながら言った。
「あっという間に形を変えてしまうんです。気づいたら脚が生えている。手が生えている。自分という存在がこういうものだ、と思ったその次の日には、また自分というものの形はするりと逃げてしまっている」
そう言いながら、彼は自分の手のひらを見つめた。
「私がこうして筆を握れるようになったのは、つい最近のことなんです。ようやく手の先が分化しきった」
カンバスの中の青年は、20歳前後だろうか。それが正しいとすれば、その年齢には少々似つかわしくない円熟味のある話し方で、かえるはつぶやく。
「ついこないだまで這いつくばって歩いていたのに、いつの間にか背骨が伸びて、胸が膨らんできたんです。それで目線が高くなってしまった。まだまだ、地面を眺めたり、大地に胸を当てたりして感じなければいけないことがあったような気がするのに。明日には、尻尾がなくなっているかもしれない。だから、こうしてゆっくり習作ばかり描いている場合ではないんです」
随分大人びたものいいのかえるである。最近のかえるとは、みんなこんなものなのだろうか。これは立派な絵描きのかえるだと、僕は関心してしまった。目線が高くなった、と靴のつま先ほどのかえるに言われてしまっては、こちらとしては返す言葉もない。
「いつもここで絵を描いているんですか?」と、僕は訊ねた。
「ええ。ここの小川は流れが緩やかだから、水面に自分の顔がきちんと映るんです」
「なるほど」
「雨上がりの後の水たまりが、自分の顔をきちんと映せて一番都合が良いんですがね。かえるの絵描きにとって、自画像を描くというのはなかなか難儀なことなんです。僕の知る限り、僕以外に自画像の作品を残そうとしているかえるを見たことはありません。成長もあなたがたに比べて早いですし、そんな悠長に雨上がりの日を待つわけにはいかないですからね」
かえるは得意げに言った。
「だからこそ、そこに目をつけたんですがね。かえるにとって、究極の平面表現なのかもしれません。自画像というのは」
僕はなるほどと思った。
「そういう風に、この瞬間を残そうと思うのはつまり、自分の中にある何かが、段々擦り減っているという実感があるからですか?」
「ううーん」
彼は腕組みを解くと、石の上に四つん這いになり、げこげこと鳴いた。突然またかえるらしさを取り戻す。
「逆に、人間のあなたはそう思うことがありますか?私なんかよりも、ずっと長い寿命があるわけですが」
今度は反対に、僕が腕組みをして考える。
「うん。そうですね。そこは寿命の長さとは関係ないと思いますが、何かが失われていくみたいな焦燥感はあるかもしれない」
「失礼ですが」彼はのどを膨らませて言った。「あなたも絵か何か?」
ええ、まあ、そんなような。と、僕は曖昧に返事をした。多分怖かったのだ。誰にも言ったことがなかったから。僕が書いたものは、妻にしか見せたことがない。
「そうでしたか、なんとなくそんなような気がしたのです」
彼はまたすっくと後ろ足で立ち上がると、小川のすぐそばまで歩いて行った。水の中を覗き込むと、たゆたうそこにやはりかえるの顔が映り込む。
「この瞬間を、絵にしたいと思ったんです。紙の上に念じて、一気に浮かび上がらせるように描くことができたら、と思うことがあります」
「ああ、それはよくわかります」
体の深いところを流れているものをきちんと捉えて書こうとしても、それは点ではなく、線になってしまうのだ。
「線ではなく、点で書きたい、点として表現したいと思うことが、僕にもあります。点をひとつ書くだけで、色んなことを理解してもらえたらいいのに、と身勝手なことを思うことがある」
線ではなく点、とかえるは呟いて、また腕組みをした。「そうか、なるほど。いいヒントになるような気がします」
僕は俄然、彼の絵が完成するのが楽しみになった。カンバスの中の青年が、もう少し年嵩を増してしまったとしても、それはそれでその瞬間を捉えたものに違いはないはずだ。きっと素晴らしい作品になる。そんなようなことをかえるに伝えた。
「ありがとう」
かえるは目尻を下げて言った。
その日はそれで、小川を後にした。川面を離れるとまた、永遠に来ないのではないかと思えた初夏が、冬の長い街にもちゃんとやってくるのだと思える暖かい風が吹いていた。
二週間くらい経ったろうか。僕はまたふと気になって、あの小川に行ってみた。
きちんと同じところにイーゼルが立っていて、カンバスには淡い青色を基調とした美しい抽象画が置かれていた。かつて彼が習作として描いていたものよりも、幾分号数が大きくなっていた。
「あ」と言う声が聞こえて、水に濡れた石の間からかえるがひょこりと顔を出した。「あなたでしたか」
石を掴むかえるの手指は、黄色とも緑とも言えないなんとも美しい色になっていた。そこに赤はないはずなのに、ふっくらと赤みがかってすら見える。そして尻尾はすっかりなくなっていた。
「どうです」
彼は得意そうに、カンバスを指差した。
「完成しました」
それはこの小川の水面をそのまま切り取ったような作品だった。カンバスの上に、小川が流れている。川が流れている風景ではなく、本当にそこにとめどなく川が流れているのだ。カンバスはゆるやかに波打つ。それは海とも湖とも違う、どこかに向かっていくための流れだ。どんな技法を使ったのだろう。その横でかえるが、嬉しそうに小川を眺めていた。
かつて人間の絵を自画像だと言っていたかえるが、こんなに自信ありげな態度なのだから、やはりこれは自画像なのだろう。僕は素直にそれを自画像なのだと受け取った。きっと、人間の僕にはわからないことなのだ。
「素敵ですね」
「そうでしょう。あなたと話をしてから、何故だか筆がぐいぐい進みましてね。いやはや、やはり作品というのは他者に見てもらうものです。どうにか尻尾がなくなる前に描き終えることができたんですよ」
彼は腕を組んで、小さな声で、私の人生で一番の作品かもしれない、と呟いた。どこか覚悟を含んだ響きだった。僕はそれを聞き逃さなかった。
僕もその絵をじっと見た。もしかすると、かつてカンバスに描かれていた青年の目には、あの時からこういう色が広がっていたのかもしれない。あるいはかえるが尻尾をなくしたのと同じように、僕の方もこの数週間の間に何かしら変わってしまって、かつて見えていたものが見えなくなってしまったのかもしれない。
いいですね、何だかずっと見ていられそうです、と僕が言うと、かえるは胸を膨らませた。
短い春が終わって、梅雨になった。湿った重たい空気が、敷地の中に立ち込めた。土や草の色が、水を含んで少し濃くなる。
その小川を通りかかると、堂々とした佇まいのかえるが、げこげことかえるらしい鳴き声で鳴いていた。小川の遥か上にある、雲に向かって吠えていた。身体全体が心臓であるかのように、膨らませた胸は脈打ち、赤みがかって見えた。あの黒々とした黒豆みたいな目と目が合った気がするが、どちらとも話しかけることはしなかった。
曇り空を映し込んだ水が、わずかに青をたたえている。この赤や青も、例えばこの惑星や宇宙目線で見たら、ただの点なのだろうか。
僕はビニール傘に張り付いた幾つもの水滴に、うっすらと自分が写り込んでいるのを空に透かして見ながら帰った。
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