テキストヘッダ

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 橋のたもとから眺めた時は、ただの黒いうねりにしか見えなかった。

「ご覧の有様でして」
「はあ」

 土手まで下りて目を凝らしてよく見てみると、泥水のように見えたその河の流れは、黒っぽい文字で出来た水流だった。ごうごうという、それも普通の河の流れ変わらないように思っていた音も、きちんと耳をすませてみると、貝の殻がぶつかり合いながら流れるような、じゃらじゃらという音が混じっている。
 川べりの落ちていたそのうちのひとつを指で取り上げてみる。Pだった。表面が泡立った手触りのそれは、石というよりココア味のシリアルのように見えた。

「どうしてアルファベットなんでしょう」
「日本語だと、『は』とか『た』とか、バラバラになっちまうからでしょうなア」
「なるほど」
 一体何がなるほどなんだろう。
「先生、一体これはどういう了見なんでしょう」
「まだよくわかりません」
「こういうの見たことありんすか?」
「いや、色んな河を見てきましたが、こういうのはちょっと」
 町長はどこか得意げな顔をして「うふふ」と笑った。

 海に続く道を歩いていく。
「この辺は、私が小まい時分は何もなくてネ」
 嵐が過ぎた後の空はがらんとしていた。スライドが変わったみたいに。対岸には勾配のある屋根がついた灰色の建物が並んでいる。
「公害みたいなものに悩まされた時期もあったようですが。でもああいう工場が幾つもできて、ようやっと街と呼べるようになったんですナ、ここらは」
 町長の実父も、かつては工場で働いていたという。満州から帰ってきてからは、一生この地を離れることなく働きあげた。そういう人々がこの街にはたくさんいて、地盤を作り上げたらしい。
 目を細めて流れを見つめる。かろうじてQかOが流れているのを見とめた。

 河口の近くの砂利には、流れに押し出されたアルファベットたちが幾つか山を作っていた。
 白濁した海へと、黒い文字たちが流れて消えていくのは見えた。
「海まで着くと沈んじまうみたいで」
 岸辺で子どもたち数人が、アルファベットを並べて遊んでいた。
「こんにちは」と町長が挨拶すると、子どもたちもそれに答えた。
「アイちゃん、英語読めるんだよ」
 けー、と言ってKを掲げる。これは?と聞いた子がいて、アイちゃんはえふ、と答えていた。
 地面には、S、E、Aが並んでいた。
「おお、単語も知っとるんじゃ、すごいの」
 うみ、と言ってアイちゃんは海を指差した。小さな漁船が、トトトト、というモーター音を立てながら沖へと走っていく。
「海に働きに出とる者からは、別になんも言われとりません」と町長は言った。「魚が死んだりもしとらんみたいだし。余計にけったいですワ」
 ひとつ見せてとアイちゃんに頼んだら、アイちゃんはいいよと言って私の手の上にアルファベットを落とした。HとRとUだった。
 どこからどう見ても、HとRとUだった。
 子どものうち一人は、アルファベットではなくごつごつとした乾いた石を地面に並べて遊んでいた。
「あ、見て」
 アイちゃんが指差した河口付近に、ぷかぷかと浮いているものが見えた。

 男は随分アルファベットを飲み込んでいたみたいだけど、まだ息をしていた。
「こりゃマチヤマさんとこのせがれじゃねえか」
 てえへんだてえへんだ!と言いながら町長は最新型のスマートフォンで救急車を呼ぶ。
 人工呼吸をするべきか?躊躇しながらその小太りの男の顔を見下ろしていると、突然男が激しく咳き込み、アルファベットを吐き出した。
「JGEHFRHAJTRXLMZ」
 男の口の端から、アルファベットが流れ出る。
「大丈夫ですか」
「ORJXQPUPGCFV」
 頬を叩くと、男のねばねばした胃液にまみれたアルファベットが手にまとわりついた。Rだった。

「どうやら自分で飛び降りやがったらしい」
 調査を打ち切った後の夕方、町長はそう教えてくれた。
「ようわからんが、ずっとげろげろアルファベット吐いとるワ」
 マチヤマという男は、筆談しようとしてもアルファベットを口からこぼすだけで、会話が成り立たないという。
「アホなことしくさった。いい年して仕事もしとらんで、本ばっかり読んどったです」
「そうでしたか」
「河がおかしくなったのとなんか関係あるんでしょうな、先生」
「そうかもしれませんね」

 町長が取ってくれたホテルからも、河が見えた。薄暗がりの中のそれは、いつもの飛沫をあげて流れる河のようにしか見えなかった。
 ふうむ。FUM。

 ホテルから河岸に出るのに少し迷った。工場地帯の周りは鉄柵やフェンスが張り巡らされていて、近くに見える河になかなか近づけなかった。
 工場の間に吹く風は少し肌寒く、どこか懐かしかった。
 工場と工場の間に小さな煙草屋があって、シャッターの閉まったカウンターの脇に、古ぼけたサッポロビールの自販機があった。
「S★PPORO BEER」
 やけに飲みたくなって小銭を入れた。缶はよく冷えていた。一口飲んだ缶には、
「SAPPORO BEER」と書かれていた。
 小さな橋を渡ってしばらく街路を行った後、コの字に進んで河を目指したところ、ようやく腐りかけた丸太階段を見つけることが出来た。
 川べりには小さなアルファベットたちが散らかっている。細かい虫たちが死んでいるようにも見えるそれは、酔った眼差しにはやけに寂し気に映った。
 S、A、P、P、O、と順番に拾い上げていく。
「SAPPORO BEE、」
 R、と屈んだ瞬間にぐらりと来て、河に飲み込まれた。
 目を覚ますと病院のベッドだった。ほのかな光がカーテンの隙間から差している。
 起き上がってみると、激しい頭痛と吐き気がした。枕元に銀色のボウルが置いてある。
「KVEFPQIDRMB」
 HA。
「HJSXPRNB、JRATV」
 止めどなく口からアルファベットが流れた。銀のボウルがざらざらと音を立てる。
 横を見ると、マチヤマがにこにこ笑っていた。
「RTOGQPK!」
「FADC」
「KJREF?」
 何を言っているかわからなかったので、「What do you mean?」という文字を探そうと思ってボウルを探したが、また気持ち悪くなって指の間に吐いた。今度は黄色いビールが出た。
「TGHYD!FFRTG!」
 マチヤマがぱちぱちと手を叩いた。ビールの海に、たまたま「SEA」という文字が並んだ。

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