テキストヘッダ

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 その一週間、街の上にはずっと雲が立ち込めていた。
 外に出れば当然雲は目に入ったし、建物の中にいてもどんより空気が重かった。
 はあ、とため息をつくと、紫色のそれが煙みたいに上って行って、換気扇に巻き込まれるのが見えた。

「ため息つきすぎるからだよ」と、サカタさんが言った。
 カレー鍋から上がる白い湯気は、換気扇に巻き込まれる前に空中で軽やかに消えていく。
「あ、みんながね」とサカタさんは付け足す。
 確かにそうなのかもしれない。

 サカタさんがそう言ったのが聞こえていないのか、店長は携帯電話を見ながら長いため息を吐いた。それもまた、換気扇に飲み込まれて消えた。店長のはえんじ色の疲れた色で、煙草の煙が混じってどんより濁っていた。
 僕らのカレー屋に客はいない。時々強い風が吹いて扉が揺れ、かすかに鈴の音が鳴る。その度に僕らは顔を上げるけど、そこには誰もいない。
 窓の外の、灰色の風景が見えるだけだ。

 店長が二階の事務所に消えたのを見て、僕とサカタさんも携帯を開く。
 SNSを開くと、店長が店のアカウントで、政治団体の発言をシェアしているのが目に入った。
 多分サカタさんもそれを見ている。サカタさんは息を止めていた。

 サカタさんの言うように、みんなが吐いたため息が、空に立ち込めて雲になっている。
 誰もがそれに加担している。加担していない人はいない。自分はため息なんて吐いていないと主張する人がいたとしても、そいつは誰かにため息をつかせているに違いないんです。

 僕がそう言うと、ははは、とサカタさんが力なく笑った。確かに確かに。
 ははは、と笑ったその口から漏れた煙を、サカタさんは慌てて吸い込んだ。手で口を押さえて、ごくりと飲み込んでいた。
 それが淡い水色をしていたのを、僕は見逃さなかった。

 店長が二階から降りてきて、今日はもう店閉めるわ、と言う。
「なんか、ビールとか飲んじゃおうか」
 そう言って、仕込んでいたピクルスや蒸したポテトをつまみに、僕らは飲み始めたのだ。

 窓際の席から空を見上げると、鳥が低いところを飛んでいるのが見えた。
 俺の地元に、と店長が話し始めた。
「雨乞いの儀式があるんだよ」
 店長の生まれ育った地域は、何度も深刻な水害に見舞われた地域らしい。土砂崩れや川の氾濫が起きる前に、神様にお供え物をする。
「一方わたしの地元には、雨を降らせるためのお祭りがありますよ」
 サカタさんの故郷は米どころで、梅雨にたっぷりと雨が降らないと、良い米ができないのだという。
「どちらにせよ、降るなら降る、降らないなら降らないではっきりしてほしいよな」と、店長が言った。
 店長はしゃべっている時もしゃべっていない時も、とめどなく口から鼻から、濁った煙を吐き続けていた。アメリカンスピリットで、肺が汚く淀んでいるのだろう。カレー屋は舌が命なのに。

「もう歌っちゃおう」
 店長はアコースティックギターを弾きながら、時々店の中でもかけている中国語の歌を歌った。ギターのチューニングが微妙にずれていた。店長は気持ちよさそうで、歌うたびにもくもくと煙が立ちこめた。
 曇っていてもビールは美味いな、と僕は思った。げっぷをしたら、紫色の煙が鼻から漏れた。見られただろうか、と思ってサカタさんの方を見ると、サカタさんは空を見上げていた。
 口の端から、静かにやさしい水色の煙が漏れている。
 あれを思い切り吸ったら、どんな気分になるのだろう?

「石川県って、いつもこういう曇り空だったんだよね」
「サカタさん、石川に住んでたんですか?」
「大学が石川だったの」
 魚が美味しい。カレーは黒くて不味い。らしい。
「いつも蓋されてるみたいな気分だった」
 地元も雨多かったんですよね、と僕が聞くと、「え、ああ、そうだね、そうなのになんでだろうね」とサカタさんは言った。

 あれだ、だめになりそうな野菜も全部食っちゃおうぜ、と言って店長は野菜を炒め始めた。うちの店は、カレー自体にはトマトと玉ねぎくらいしか入っていなくて、ジャガイモやゴーヤ、オクラなどなど、旬の野菜を全部野菜炒めにして後載せするのだ。
 店長はもう完全に出来上がっていて、今度はインドっぽいメロディを全力で歌っていた。古くなった平家の壁みたいな、黄土色の煙。

 学生の時、毎日辛かったな。
 サカタさんがつぶやくようにそう言うと、ピンク色の軽い煙がすっと立ち上がって、すぐに空中に溶けて行った。
「ホリエくんは、学校楽しい?」
 学校楽しい?
「楽しいかどうか、あんまり考えたことなかったです」
 ああそうか、失礼、とサカタさんは言った。
「楽しいですよ、毎日。学校がっていうか毎日が」
 僕がそう言うと、サカタさんはゆっくり頬をあげて微笑んだ。
 その時に漏れた水色の煙が、僕が不自然な感じで笑った時に漏れた紫色の煙と混ざって、僕の眼前で群青色に変わるのを見た。
 舌が痺れた。
 あいあいあい、と言って店長が大量の野菜炒めとカレーをテーブルに置いたその湯気が、僕とサカタさんがお互いに何か言いかけようとしていたのを拭い去ってしまった。

「冬が来るねえ」と、サカタさんが帰り道で空を見上げながら言った。
 暗くなったその曇り空に、あの人も群青色を見たに違いないと思ったら、やけにドキドキしてしまって、一人電車の中で笑った。

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