エイリアンズ_demo_

エイリアンズ/3

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1NHydZlBFeHnxrugwfTeFZfIxdY9AlfgU



 目を瞑ると、どこにでもあるような風景が浮かびます。あなたも、想像してみてください。
 暗くて、静かな公園です。青白い明かりが一つだけ点いていて、パステルカラーのひび割れた遊具が不気味です。見渡すと、その公園は左右を建物に囲まれています。遊具と同じく朽ち果てかけた、でも立派なコンクリートの建物です。窓に取り付けられた鉄製の、手すり兼落下防止の柵の冷たさが、触らなくても手のひらをぎゅっと縮こまらせるような感じがします。同じ規格の窓はどれも暗いですが、よく目を凝らすとカーテンがかかっておらず、月明かりに照らされた部屋の中が見えるのがわかります。
 どの部屋も空っぽですが。全部の窓を見なくてもわかります。

 そういう風景が、今、日本中に無数にあるわけです。約二百八十万戸。

 …二百八十万戸ですよ?
 かつていたはずの二百八十万世帯は、今どこに住んでいるのでしょうか。

 戦後に大規模な宅地開発で作られた団地たちの、今現在の風景です。お父さんとお母さんと子どもが、テーブルに座ってご飯を食べる生活を想定して作られた住宅。憧れの、海外風の暮らしに合わせて作られた住宅。
 でもそんなライフスタイルももう古くなって廃れてしまっています。もっとハイブリッドで心地よい、この国の人々に合った住宅が、たくさん供給されています。暮らしが古くなるのもあっという間の話です。たった半世紀ほどしか経っていない。ここで言うライフスタイルなんていうものは、結局コマーシャライズされて作られた消耗品だから、使い古されていくのも当然の話なんです。若い家族たちは、戦後の経済発展を経るあいだにもうそんな狭い家には住んでいられなくなって、ニュータウンと呼ばれる郊外の住宅街に作られた戸建住宅、夢のマイホームや、空高く積み上げられたタワーマンションに引っ越して行きました。一方、団地に長く住み続けた世帯は?
 そうです。ほとんどがもう死んでしまったわけです。子どもは家を出る。ただ粛々と生活を続けているだけなのに、何故かいつの間にかその場所を離れられなくなっていた二人きりの夫婦のうちどちらかがまず死に、やがてもう片方も死ぬ。死後何日も経っていても気づかれずに死んでいる高齢者が増えて社会問題になったのはここ十数年の話ですが、周りに誰も住んでいないのだから詮無いことです。生きているか、あるいは死んでいないかどうかを確認するために独居の家を訪問して周るなんて、馬鹿げていると私は思います。一人で死んでいった人々だって様々で、みんながみんな寂しかったわけではないはずなのに。
 話が逸れました。
 そして、空っぽの部屋だけが残されます。人の住まない部屋は空気が澱みます。空気も水も循環せず、澱だけが溜まっていきます。澱が空っぽの部屋を生むのか、空っぽの部屋が澱を生むのか、とにかくからっぽの家が隣や上下の家に広がっていきます。どんどんどんどんどんどんどんどんからっぽの家が溜まっていって、やがて団地の一棟丸々誰も住まなくなって、更に澱みを加速していきます。共有スペースも、廊下の蛍光灯も、澱をその身に宿らせ定着させて、朽ち果てていくのです。

 誰もこうなることを想像しなかったのかな、と考えるわけです。
 狭い、古くなって朽ちていくだけの家を、誰がどうやって維持していくのか、考えておかなかったのかな、って。
 わかってたんじゃないの、って。わかっていたけど無視したんでしょうどうせ、次の世代がどうにかするだろうって思ってたんでしょう、って。
 石油や森林などの自然資源を食いつぶしていくのと同じように愚かなことだと思います。自分たちで作ったものに押しつぶされながら、自分たちも朽ち果てて行きつつあるのだ、と思います。資源と同じように、限りのある「空間」を食いつぶしてしまっているわけです。
 私は、何だか、その罪を一人で勝手に償い続けているような気がするんです。

 一部屋だけカーテンがかかっていて中の見えない自分の部屋を見上げながら、私は思います。


 黒ずんだコンクリートの建物を見上げている後頭部が見える。
 空を鳥が飛んでいた。


 私の住んでる廃墟みたいなアパート、というか団地の一棟なんですけど、今その棟には、私しか住んでいないんです。
 最初は何となく、怖いというか不安というか寂しいというか、何とも言えない気持ちだったんですけど、もう慣れました。元々は大学の研究の一環、実地調査、みたいな気持ちで始めたんですけど。
 団地生活、結構好きだったんですよね。震災の時って私中学生だったんですけど、思春期だったからもう学校が嫌で嫌で。あの街も嫌になってき始めていたころで。小学校の時は仲良かった子とかも、ちょっとずつ色気付いていくじゃないですか。もう全然そういうのに馴染めなくて。…もう時効だと思うんで言いますけど、引っ越しが出来たのは正直嬉しかったんです。まだ原発事故の影響もよくわかんなかったですけど、私はまだ若いし女だし、って。家もほぼ全壊に近い半壊でしたし。よく、「逃げるのか」って責められるみたいな話がありますけど、私のところはそうじゃなかったです。隣の家のおばちゃんが、若いもんね、しょうがないよね、早く行った方がいいよ、って言ってくれて。一回半壊の家に荷物取りに帰ったら、そのおばちゃんの家ももぬけの殻になってましたけど。こっちで貸してもらった家は、団地で家族全員で住むのにはかなり狭い家だったんですけど、被災者ってことで結構優しくしてもらえるし、私としては何か気持ちを切り替えるタイミングみたいなものになっていて。
 だからボロい家みたいなのも、あんっまり抵抗なくて。あ、あと私引っ越し魔なんですよ。飽き性というか、フーテンというか…。まああんまりいいものではないな、とは自覚してるんですけど。だからそういう古くて安い団地ばっかり選んで転々と引っ越ししながら暮らしてるんです。
 空き家だらけではあるんですけど、住んでいる人が全くいないこともない。だから簡単に取り壊すこともできないし、壊すとしてもお金がいる。
 だから県や市が、私みたいな若い人に、とても安い家賃で部屋を貸してくれるんです。しかも、もう既に床も壁紙も備え付けの調度品もみんなボロボロだから、壁紙を塗ったり、床にタイルを貼ったりしてもいい。一定のルールさえきちんと守っていれば、何をしても許される。
 そういう団地が、結構あるんです。みんな「団地」というだけで、あまり住もうとは思わないみたいですけど。

 へえ。知らなかった。そうなんだ。

 お金がないわけじゃないんです。ただ、人があんまり好んでは住まないような場所で好きなように暮らしてみて、緩やかに滅んでいく静かな場所で寝食してみて、建物やその周りの環境に飽きたら次の場所に行ってみる、そういう生活が何だか心地いいんです。この場所が死に行く理由を肌で感じることに、ハマってるんです。研究なんてそんなもんですよ。そして万が一私の次に入居する誰かがいたら、私が壁の一面をムラなく漆喰で塗り固めたり、スイッチカバーを全部真鍮に変えてしまった部屋に住むんです。前に住んでいたのは、どんな子だったんだろう。きっとたくましく楽しく生きるかわいい女の子だったんだろうなとか思ったりしながら。それが、何ていうか、心地いいんです。
 動的均衡って聞いたことありますか?人は同じようには留まり続けられないって。空間的に同じ場所に留まっているように見えても、私たちは変化し続けているって。身体から出て行くのと同じ分だけ、別の物が身体に入ってくるんです。
 時々思うんですよね。団地も生き物みたいなものだと思うから、じゃあ、団地からは何が出て行きつつあって、何が入り込んできているんだろうなって。それが生き物としての団地に死を呼び寄せるようなものだとしても、何かネガティブな捉え方をしたくないっていうか。見てたいんですよ。どうやって建物というか空間が、緩やかに死んでいくのか。

 海岸通りを東に抜けていった道に、二人はいる。車の通りはそれなりにあるが、人通りはほとんどなかった。時々すれ違う坂の上を目指して歩いていくワイシャツ姿の人は、どこかみんな後ろめたそうな、こそこそした動きに見える。
 歩道橋の上で地鳴りのような音が聞こえて、ツムラヤはまた教習所に通っていたころの記憶を呼び覚ます。見渡しても車は特に走っていない。それは歩道橋の更に上にある高架上のバイパスを行くトラックの音だから、ツムラヤたちにはその姿が見えないのだ。太い柱の上に支えられて、シュプールを描くように道路が浮かんでいる。

 緩やかなスロープになっている歩道橋の下で、浮浪者の男がボール紙を被り、仰向けになって眠っている。二人とも気づかない。男も眠っていて、二人が上を通りがかっていることには気づかない。
 夢が、コミックでよくある描写のように煙のような吹き出しの中で見るものなら、二人は浮浪者の男の見ている夢を無意識のまま踏み込んで蹴散らしていることになる。浮浪者の夢の中で浮浪者は浮浪者ではなく、一人の人間として、幼い頃の記憶がないまぜになった夢を見ている。桟橋の上から糸を垂らして、魚釣りをする夢だ。光る水面が、波打ってもいないのにばしゃばしゃと音を立てている。

 その男は、この年の元旦に、この街で死ぬ。正月用にライトアップされた、この街のシンボルである塔の下で、静かに凍え死ぬことが決まっている。

 あ。
 
 タカハシが指差す方に、白いモルタル造りのマンションが建っていた。

  今、あそこの窓の明かりが消えるところ見ました。

 ツムラヤにはどの窓の明かりが消えたのかわからない。

 寝るんですかね。
 寝るんだろうね。

 ツムラヤが腕時計を見る。自分なら、まだまだ眠らない時間だ。忙しい時期ならまだ帰って来ていないこともある。

 不思議な感じがしますね。
 何が?
 あの部屋の人は、もう多分お風呂に入っていて、これからベッドに入って眠るんだろうなと思うと。

 海の匂いに混じって、石鹸の匂いがした。このマンションのどこかで誰かが風呂に入っているのかもしれないなとツムラヤは思う。見上げると、ベランダにパキラの葉が揺れているのが見えた。少し大きくなりすぎたようで、ベランダの柵の外に葉がはみ出している。柵の短い角に、古びたけろけろけろっぴのビニールシートが小さく折りたたまれて干されている。その雑然とした部屋の中に幼稚園くらいの子どもが二人ほど暮らしていて、その横に並んで母親が眠りにつくところを、ツムラヤは想像する。それは、たまたま、タカハシが見た「明かりの消えた部屋」だ。

 タカハシはその部屋に暮らしているのが、ツムラヤよりも少し年上くらいの男だろうと想像する。ひとりきりで、規則正しく暮らしている。決まった時間に眠り、決まった時間に起きて、決まった食事を取り、決まった場所へ出かけていく。一日一日をいちいち手のひらの中に収めて成形して、毎日同じ形にして並べていくみたいに。それは無機質な生活だろうか、と自問する。自分だって、誰かから見ればそういう日々ではないだろうか。

 明かりが消えた部屋で暮らしているのは幼い子どもと母親でもないし、規則正しい独身男でもない。老婆とその娘だ。老婆の夫であり、娘の父である男は、二十三年も前に亡くなっている。部屋の電気を消したのは娘だ。リビングの介護ベッドで母親が眠るのを待ち、自室に入って映画を観る。カーテンを閉めて部屋を暗くし、一人掛けのカウチソファに座り、モニタの真正面から観る。
 母親はもう随分前に惚けてしまい、自分のことを娘と認識してくれる日とそうでない日がある。一年に一度か二度、夫を亡くした日のことを思い出して静かに泣く。惚けてはいるけど自分のことはある程度できるし、暴れたり口を荒げたりしないので、グループホームやデイケアの職員はみな、彼女のことを「手のかからない人ですね」と言う。その、子どものことを言うような言い草に、娘は違和感を感じている。言っても仕様のないことだし、抗議するようなことはない。
 映画が始まる前、予告編を見ているうちに娘は疲れて眠ってしまう。映画は始まり、勝手に終わる。

 二人が、その部屋の中にある本当の暮らしや人々について知ったところで、どうということはない。何かが変わるわけでも、消えたり増えたりするわけでもない。
 どこにでもある風景が、二人が通り過ぎていく無数の窓の中にあるというだけだ。

 何となく、島の雰囲気がここまで侵食しているみたいにも思えるなと、ツムラヤは思う。
 海の匂いがした。たまたま、二人ともほぼ同時にそう思ったが、それぞれに別々の情景を思い描くことに頭を使っていて、どちらも口に出すことはなかった。

 暗い空を、鳥が飛んでいた。

(next:https://note.mu/horsefromgourd/n/n1cd427e8393e)

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