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 雨なんて一滴だって降らない夏だった。学生会館の空き缶捨ては、僕たちが生協で買ったビールの空き缶で埋め尽くされた。とにかく何かを考えて、計画的に実行に移すということが面倒な時代だった。漫然と流されることが簡単で、上手く生きるための唯一の方法である時代でもあった。
 そして、まだ大学生協でビールが売っている、最後の素晴らしい時代でもあった。

 Iは学生会館のベンチの背もたれに腰掛けて、缶ビールを煽る。まだ昼間だったが、このところ僕たちは昼も夜も関係なくビールを飲んでいた。オープンテラスには強い日差しが差していて、僕たちはその光に当たらないように場所を変えながらビールを飲む。動物園の怠惰な熊のように。

 Iのバイトは、深夜の高速道路の工事を見張る警備の仕事だということだった。
「作りかけの高速道路に盗まれるものなんてあるのか」
「色々あるんだよ」とIはにやりとしながら言った。「でも半分寝てても大丈夫なんだ」
 時々遠くから走ってくる車のヘッドライトが通り過ぎるのを眺めているだけさ。エンジンの音がして、それが大きくなって、目の前を通り過ぎるとその音が小さくなって、やがて何も聞こえなくなる。
 そう言って昼ごろふらりと大学に現れては、いつも机の上で眠っていた。僕は夜の闇の中で、Iの横を車が現れては走り去っていくところを想像する。
 Iは毎日学校に来ているようには見えなかった。しかしどこかからレジュメや過去問を手に入れてきていて、単位を落とすことは決してないのだ。ビールとレジュメ。それらを抜きにして、僕とIの関係性は語れない。
「奨学金には手をつけないんだ。卒業したら、それを元手に株をやって、増やしてから返済するのさ」と、いつもIは真面目な顔をして言っていた。それが成功するほど彼の頭が賢いとは思えなかった。彼は世渡りの上手さだけで、今のところ奇跡的にうまくいっているだけにすぎない。
「儲かったらちょっとちょうだいね」と、僕は言っておく。

「そろそろ行くよ」と言ってIは立ち上がった。ビールの空き缶を放り投げると、それは見事な弧を描いてゴミ箱の底に吸い込まれた。
 Iはアーカイヴ概論とかいう講義に出るらしい。
「アーカイヴ概論?」
「博物館や美術館が隠し持ってる作品や資料は、情報化して共有しなくちゃいけないわけだ。これからの時代においては」
「何のために?」
「独り占めはよくないだろ」
Iは授業のレジュメをクラッチバックの中のファイルから取り出した。証明写真が挟まっているファイルと同じファイルだった。折り目ひとつついていない、綺麗なレジュメだ。博物館ではなく、美術館に飾れる。バッグの中に春から夏にかけてずっと入れられていた無意味なレジュメ。これだから、僕みたいなろくでもない奴らに利用されるのだろう。ビールの缶の結露で湿った指先にはこうあった-----

 -----なぜ今、アーカイヴ化/ドキュメンテーションが必要なのか? アーカイヴ化/ドキュメンテーションの最終目的は、時間と空間を超えて人々が情報共有の糸を連綿と続けていくための理論を構築し、実践を続けていくことである。 二十一世紀にはいり、美術館・博物館では、情報公開法の制定、独法化の波にさらされ、すべての作品・標本・資料の公開を迫られている。一方では、個人情報保護法の成立にともなう問題を捨ておくわけにもいかない。このような状況から、現在の美術館・博物館は、作品そのものへのこだわりのみならず、情報の世界に視野を広げることでしか館として生きていく道はないといっても過言ではない。美術館・博物館が情報サーヴィスを通して、いかに不特定多数の人々とコミュニケーションを図るかを真摯に考え、新しい価値を生み出すことが、現代社会に生きる我々の命題である。

 大昔のSF小説みたいだ。
「どこの美術館でも、やたらとたくさん立ち入り禁止看板を立てている理由が意味がわかったよ。お腹の中に貴重な作品や遺物を腹の中にたっぷり貯めこんでるってわけだ」
「美術館や博物館にはそういう役割を担う側面もあるってことさ」
「確かに、マニアショップはクリアケースでフィギュアを飾っても、在庫を出し惜しみしたりはしないもんな」
 光線銃を構えたひ弱そうな学芸員たちが、世界起源の秘密を握る神秘的な美術品を守っている。
「そしてつまり、今度はあちら側から和平案を提示して、今後の実際的な主導権を握るための段階的な方策を打ち出そうとしているわけだ」
 全部明らかにするように見せかけて、ある一定のラインから先は絶対に明らかにしない、都合の良いルールを作るための。
「なるほど」
「きっとまずは高度な情報戦が繰り広げられる。さしずめ君は本気で情報公開法とか言うのが世の中を良くすると思っている政府側の高官てところじゃないか」
「途中で知らない方が良いことを知ってしまうのだろうな」Iはため息を吐きながら眼鏡を押し上げる。
「全てをアーカイヴ化していくことに疑問を感じて葛藤することになる、受け取る側に寄り添った人物だ。魅力的な登場人物じゃないか」
「君は?」
「僕は秘密は秘密のままが良いとしておく頑固な学芸員だろうな」
 Iがにやりと笑う。
「アーカイヴ化によって、世界は変わるかもしれないし変わらないかもしれない。ディストピア小説とユートピア小説はいつも紙一重だ。それぞれの登場人物にそれぞれの結末が用意され、結局どっちが世界にとってより良い未来だったのかについてははぐらかされる。君はきっと、精神的成長の末に自分なりに世界を受け止めるのだろう。それなりのすったもんだの後に」
 また僕たちの座っているベンチに日が差してくるのを感じて、今何時なんだろうと思った。
「僕は殺される。きっと秘密を守り続けることを良しとした尊厳を維持したまま死ぬ。愚かにも取れるだろうし、何か意味ありげにも描かれるだろう」
 想像力が豊かだねとIが言った。

 僕たちはそれぞれ缶ビール二本をお腹の中に収めた後、学生会館のトイレで永遠とも思える長い小便を放った。腹の中で膀胱が水袋のように萎んでいくのを感じた。Iは僕よりも先にさっさと小便を出し切って、じゃあなと言って機嫌よく授業に向かった。僕は小便器の前に立ったまま、同じ量のビールを飲んでいるはずなのに、何故出て行く量がこんなにも違うのだろうと考えた。きっと僕の身体は透明の瓶みたいになっていて、ビールだろうがなんだろうが、ただ通り過ぎていくだけなのだろう。

 見上げるとまだ空が青い。青すぎてひっくり返りそうになる。空を見上げたままゲップをすると、ビール臭い生暖かい息が顔に降りかかってきた。
「くせえな」と呟いて、くるりの「ハイウェイ」という曲を聴きながら帰った。

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