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椅子

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURVHJfdklyZzBNdDA

 行方不明扱いになっていた父親が死んだ。膵臓がんだったらしい。突然「死んだ」と聞かされたところで、もとより行方不明扱いになっていたのであまり心は動かなかった。膵臓って一体どこだろう。

 内縁の妻だったという女が俺を部屋に呼んで、この部屋にあるものを一つだけ、なんでも持って行って良いと言った。何やら罪を感じるところでもあったのだろう。母親は絶対に会わないと言って父親にまつわるエトセトラを完全シャットアウトしていたが、俺は何かもらえるなら、という感じでへらへら赴いていった。
 どうせ貧乏で悲惨な暮らしをしているのだろうと漠然と思っていたのだけど、そこそこ良いマンションに住んでいて驚いた。窓から目を凝らすと、遠くにかすかに海が見える。子どもがいない、品の良い夫婦の暮らす部屋。毎年二人で海外旅行に行くのが楽しみだったという。何度も言うが、ずっと行方不明だと思っていたから、今更別に腹も立たなかった。
 父親が最後に選んだ女は妙に色っぽかった。母親よりずっと若い。ギリ、いや全然イケるかもなと思うくらい。女はコーヒーではなく紅茶を淹れて俺を待っていた。
 なんでも持って行って良いのよ、と言われて最初に目に入ったのはプレステ4だった。VRゴーグルも置いてあったので、セットでもらえないかなと一瞬よぎったが、生き別れの父親の形見としてもらうのがゲーム機というのはどうなんだろうと思って見栄を張った。プレステ4が出てるくらいだから、プレステ5も出るだろう。型が古くなって不要になる形見なんておかしい。

「じゃあ、この椅子とか」
 僕が座っていた椅子は一人がけのハイバックのソファで、テレビが見える方に置かれていた。
 女は一瞬顔を引き攣らせる。
「あ、いや駄目ならいいっす」
 違うの、と女は言った。
「その椅子、お父さんがとても気に入っていたのよ」
 妙に色気のある声で、女は言った。女が座っている椅子は木製のチェアで、このソファとは全く趣が違った。別々に買ったのだろうか。
「似ているのね」
 何か思い出すみたいに彼女が言って目尻をぬぐうのを見て、俺はそそくさと車にソファを積んで帰った。実家から借りてきたボロい軽では、ハイバックのソファは横倒しにしなければ入らなかった。
 最後に何故か、女は俺の手を握った。
 帰り道、やっぱりプレステにすればよかったかもなと思った。子どもを捨てて悠々と暮らす男が、ヴァーチャル・リアリティで何を別の世界を見とるねんと思ったら、ほんの少しだけ腹が立った。

 ワンルームのアパートに置いたその深い赤色のソファは、周りの景色から浮いて見えた。どう考えても似つかわしくない。俺の部屋にはこたつ用の卓しかなかったので、ハイバックのソファなんて存在意義がなかった。ソファ側も何故ここにいるのか意味がわからないと言った風情だった。
 とりあえず座ってみると、立っている時よりも視線が高くなったような気すらした。俺の部屋って浅いプールみたいだなと思った。全てのものの位置が低い。腰から上は何もない。本棚もCDラックもみな腰より低い棚に収まっている。ベッドもなく、床に湿った座布団と折りたたまれた布団が転がっている。何だかあさりとかしじみの養殖をするプールみたいだ、この部屋は。
 かと言って捨てたり誰かに譲るには惜しい手触りのソファだった。指でなぞると、革が指先に吸い付くような感じがした。多分高級品だ。

「何これ、邪魔じゃん」とガールズバーのバイトから帰ってきたアチコは言った。
 かくかくしかじか、という話をするとアチコは笑った。まあまあ、と言いながら俺はアチコをソファに導く。
 何それ意味わかんない。トールくんお父さんいなかったんだ。知らなかった。確かにトールくんて、お父さんいない顔だよね。男に厳しくて女に優しいし。自分が捨てられたことあるから、捨てられた女の子に優しいんだ?
 一人がけのソファなので、アチコがそこに座ると僕は床に座るしかなかった。
「良い椅子じゃん」
 なんかえらくなったきぶん、と言ってアチコは嬉しそうに微笑む。
 アチコが足を組むと、黄色くて丈の短いスカートがうごめいた。えんじ色のソファと黄色いスカート。そこだけ秋が早く来たみたいだった。

 アチコの足に挟まれながらアチコを貪った。そんなことするのは初めてだった。それができるようになったのは、父親のソファが部屋にやってきたからだ。
 アチコの声がいつもより大きく聞こえた。アチコの匂いと革の匂いが混じり合う。獣だ、と俺は思う。アチコは強く俺の髪の毛を握りしめ、それと同等の力で足で頭を挟んだ。息をするのが苦しいくらいで、頭の中が空っぽになっていくのが酸素不足のせいか興奮のせいかわからなかった。アチコの声が遠ざかり、太ももの熱が頭蓋骨を通じて脳に伝わった頃、アチコはがくがく震えて一度絶頂に達した。少しくらいギシギシ音を立てても良さそうなものだが、椅子は静かだった。
 アチコが尻をずらすと、革が濡れて光っていた。
 膵臓がんで死んだ父親のことがよぎる。女にだらしなかった、らしい、働くのが嫌いで酒が好きだった、らしい、というぼんやりとした輪郭を、母親が時折こぼす愚痴のようなもので知っているつもりだった。
 アチコはそのままソファの上で足を開いて俺を導いた。
 ソファの手すりを掴んで、親父の椅子ごとアチコの中をかき回すと、俺はどえらいことをしている、という気持ちになった。アチコもその、どえらいことをしている、という気分だからこんなにぐしゃぐしゃになっているのだろうかと思った。
 嫌でも親父がこのソファに座って飯を食いながら、あの女と話をしていたのを想像してしまう。テレビばかり見ている親父に、あの女が一生懸命話しかけるのを、だ。
 何故だろう俺は、親父はあの女にはこの椅子に座らせなかったんじゃないかなと思った。女も座ろうとしなかったんじゃないかなと思った。
 アチコはソファに深く沈み込んで行った。もう背もたれには首しか残っていない。トールくん、とアチコがか細く呼ぶ声を聞いていると、椅子が俺の名前を呼んでいるみたいに思えた。
 あとは何も考えられなくなって、ただ股間だけが熱くなって、俺はすぐに果ててしまう。

 椅子、良いね、と言ってアチコは笑った。これもしかして高いんじゃない?と言いながら、体液で汚れた革をティッシュで拭いた。
 俺はアチコを無神経で馬鹿な女だと思わない。死んだ、俺を捨てた父親の椅子で、俺がセックスすることは別に悪いことじゃない。かつて父親が座っていた椅子が、俺とアチコの混ざり合った体液で汚れることは、別に変なことじゃない。それなら、実の子どもを放っておいて、死んでからこんな呪いをかけることの方がよっぽど倫理的に問題だ。
 アチコは、そんなことわかっているとでもいうように、床に跪いてぐったりしている俺の頭を優しく撫でる、大丈夫だよと言いながら。

 そういう風に頭を撫でられながら、夜中電気を消してテレビを観る。映画館みたいで好き、といつもアチコが言う。芸人とアイドルがプールで騒ぐ番組を眺めながら、ふと、うちも椅子にしようよ、とアチコが言う。もう一つ椅子買ってさ。テーブルも大きいのにして。座布団なんて貧乏くさいよ。ボロくてもいいから、もう少し広い家に引っ越そうよ、という。あと二十万、いや三十万貯まったら!
 うんいいよと言いながら俺はそれにかかる時間を計算する。一年くらい先だなと思う。一年先も、アチコと一緒にいられるだろうか。俺が頑張って働けば、もう少し早まるだろうか。
 アチコはテレビに飽きたのか、また俺の髪の毛を優しく引っ張って股間に導いた。アチコはやはりやけに興奮していて、激しく声を上げながら強い力で俺を股間に押し付ける。俺は逃げられない。

 次の日の夕方、アチコが仕事に出た後、俺はもう一度椅子に座ってみる。でかくて四角い机。灰皿。もう一脚の椅子。発泡酒じゃないビール。LEON。夕焼け、海。次に浮かぶのは何故か親父の内縁の妻だ。薄いブラウスを羽織って、ティーカップで紅茶を飲む女だ。
 俺は身をかがめて床に置いた灰皿に煙草を押し付ける間、息を止める。
 頭を上げて椅子の上でゆっくりと煙を吐く。煙が現在の俺の部屋をぼやかしていくのが見えた。

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