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2018.5.14 ヒーローズ・リボーン

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1Cq_Fm9zhhJFa65rXE47sZtHJn22vOqqM

 サノスが指を鳴らし、さっきまで誰一人弱音を吐くことなく懸命に戦い続けていたヒーローたちが、不安の想いを口にしながら次々と倒れていくシークエンス。
 ぼろぼろ涙を流しながら、ふと自分が画面の中ではなく横にいる奥さんの右手を見ていることに気が付いて、自分でちょっと笑ってしまった。あー良かった、と思ったら、また余計に涙が出てきた。

 涙もろい。というかどんな時も簡単に泣いてしまう。我慢しようとしても、我慢しようと思ったときにはもう遅いことがほとんどだ。
 たちが悪いことに、そうやって泣いているときいつも、もう一人の冷静な自分が泣いている自分を見ているような気がする。こんなので泣いてんの、とか、泣いてる自分に酔ってない?とか、とかく余計なことを考えてしまう。そう思い始めてからの涙は何だか体液っぽくなくて、こんなだったっけ、ずいぶんさらさらしているな、と思ったりする。
 そんなだから、途中からはどうして泣いているのかわからなくなってしまう。あとは涙が止まるのをただ待つしかない。随分ややこしい性根だな、と自分でも思う。自意識過剰さが虚構の自分を作っている。

 アベンジャーズ・インフィニティーウォー。シビル・ウォーを経て、ヒーローたちが敗北することにも慣れていたはずだった(当時びっくりしすぎて立てなかった)。当初の予定ではPart1、Part2と続く予定と知っていたし、原案となっている一連のコミックシリーズも読んだことがあったので、メタ的にもかなり心構えして行ったつもりなのだけど、それでも今回のラストシーンはショックだった。

 奥さんの手を眺めている自分を発見して、改めて気づいたことがある。
 自分はあのヒーローたちが共有する映画の世界を、現実のものと思って観ている節がある。
 あったかもしれないどこかで分岐した世界とか、自分が暮らしている世界と平行して存在するもう一つの世界とか。あるいはあの、セブンティーズ好きな人種混合チームの連中が旅する宇宙のどこかに、自分たちの世界があるんじゃないか、とか。この世界とあの世界は、少なくとも自分の中では確かに繋がっているのではないか。
 何をそんなアホなことを、と言われてしまうかもしれないけれど、その次に観に行った「レディ・プレイヤー・ワン」を観ながら真剣に考えていたのはそんなことで、スピルバーグの作ったあの世界もそれなりには楽しんだのだけど、そう、あくまで僕はあの世界を外側から眺めて「楽しんだ」だけなのだ。バイザーの向こうにあるバーチャルな空間はもちろん、あの世界におけるディストピア的な現実も、やっぱり僕には「こことは繋がっていない夢の世界」でしかなかったな、と思う。
 マーベル・シネマティック・ユニバースは、よくよく考えればかつてからテロや災害や社会問題をコミックの世界にオーバーラップさせてきた会社の作っているシリーズなわけで、もしかすると僕は「狙い通り」ハマっているだけなのかもしれない。メインキャストたちの名前がさらさらと形を失くしていくエドクレジットを見つめつつまだ涙を流している自分を、やっぱり「いいお客さんだね」と笑うもう一人の自分が眺めていたのを思い出す。

 現実と非現実、あるいはその境界を扱う物語は多い。そもそも物語というものが原理的には虚構であるわけだから、物語を作る人間は、「どこまでが現実でどこからが非現実なのか」みたいなことを考える瞬間がどこかで必ずあるはずだと勝手に思っている。少なくとも僕はそうで、今書いていることがリアリズムに基づいているのか否かみたいなことは、いつも当たり前みたいに意識しているような感じがする。
 「#小説」と「#エッセイ」というタグ付けを意図的に使い分けているのも、やっぱり現実とそうでないものを分けて考える必要があるのだと、意識するまでもなく考えているせいなのだろう。正直に言ってしまえば、自分の考えたことをまるっとそのまま書くための免罪符として「#エッセイ」というラベルを貼っている側面もある。都合よくその両方を行き来する書き手である自分に対して、「それでいいのか」と思う日は少なくない。

 でも今回のマーベルの記念碑的作品を観て、「現実」と「非現実」の間にくっきりとした線を引くのはおかしなことなのかもしれないな、と思った。小説を書きながらぼんやり考えていたその思いがより強くなった、という方が正確かもしれない。
 やっぱり僕が流している涙は、間違いなく現実の涙なのだ、と思う。「お前はスパイダーマンだろ」と自分を奮い立たせるヒーローに涙しながら、僕は自分の仕事の上手く行かなさを重ねているわけではない。スーパーパワーを持っているわけではないヴィランにまんまとコントロールされて二つに分かれてしまうヒーローチームをもどかしく思いながら、僕は保護貿易と自由貿易を巡ったアメリカの市民権争いを重ねているわけではない。そういう部分もあるのかもしれないけれど、やっぱり僕は、身の回りの人々を始めとする自分の世界を救うために戦うヒーローたちの姿そのものを応援しているのだと思う。

 エンドロールが流れ切った後、いつもマーベル映画は物語の続きをほんの少しだけ見せる。
 お前も頑張れよと言われてしまうかもしれないけれど、長大なスタッフリストを眺めながらいつも、これからももっとももっと世界をより良くしてください、と思う。監督、プロデューサー。これからも挫けずに戦って、どうか世界を救ってください。俳優、スタントマン。 お願いします。 脚本家、カメラマン。 頼むよ。 CGアーティスト、サウンドデザイナー。
 祈るということは、他人任せにすることにも、誰かに向かって御礼を言うことにも、願望を満たすことを欲することにも似ているけど、似ているからこそ全く違うのではないか。次の世界を待ちわびる間、そんなことを考える。
 スクリーンが一度暗くなった後も、世界は続いている。
 割と、いやかなり本気で、ちょっと強くなったような気持ちで席を立つ。涙を流していた自分も、涙を流している自分を見ていた自分もそこにはいない。ただ自分がいるだけだ。

「泣いてたね」と奥さんが言う。余計なこと言わんでいい、と言いながら外に出る。お、ちゃんと手がある、と思う。世界は続いている。

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