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Hole

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURbmduYkdSUlpzeE0

「仕事、辞めてきたの」と、黙って食事を口に運んでいた彼女が突然言った。遅い夕食の最中だった。
「すっきり、したわ」
 我が家の夕食は別々だ。僕は毎日六時前には帰宅して、彼女のために食事を作る。彼女が帰ってくるのは早くても十時を超えてからだ。僕は毎晩、彼女が夕食を食べるのを眺めながら、会社の愚痴を言うのを聞いていた。
 かねてからそういう状態が続いていたので、驚きはしなかった。これまでに何度か僕一人ぶんの収入だけで二人で暮らしていけないかという計算もしたことがあって、贅沢しなければぼちぼちやっていけるということはわかっていた。
「そうなんだ」
 晴れやかな彼女の表情を見ていると、僕も嬉しい気持ちと、どこか羨ましいような気持ちがいっぺんに湧き上がった。早く帰れる僕だって、決して仕事が全く辛くないというわけではないから。何だかさもしい気持ちだなと思って、僕はそれを振り払う。
「祝杯をあげよう」
 彼女は普段ビールを飲まないけど、僕がグラスを出すと、黙ってそれを受け取った。
「乾杯」
 彼女はビールを飲んで、美味しい、と言った。ナスの揚げ浸しにとっても合うわ。
 久しぶりに料理を褒められて、僕は嬉しい気持ちになった。

 一ヶ月くらいだろうか。
 彼女は徹底的に引きこもった。ナイトキャップをして毛布を持ち歩く、アニメの中の熊みたいに。
「今まで一生懸命働いていた分を取り戻すの」
 彼女はそう言って、昼夜が逆転した生活を送った。僕が帰ってくる頃は、いつも彼女の午睡の時間のようで、遅い時間に食事をした。かつては飲まなかったお酒も、嗜む程度に飲むようになっていた。
「私がだらだらと過ごしていることが、あなたの気に障らなければいいのだけど」
 ある日彼女はそう言った。「料理も作らず、何をするでもなくただ眠り続けている」
 いいよ、別に。僕は料理が好きなんだよ、と僕は言う。
「でも、今まで働いた分を全部取り戻してしまったら?」
 彼女はビールを啜り、ゴーヤの梅肉和えをゆっくり噛んで飲み込んだ後でこう言った。
「そうね。それはちゃんと考えておかないといけないわね」
 そして僕が寝静まってから、その夜の闇の中で穴熊のように何かしているのだった。毎朝目を覚ますと、彼女はいつの間にか僕の隣で眠っていた。リビングに行っても、彼女が夜行性の穴熊だった形跡はどこにも残っていないのだった。
 彼女が何をしているのかは気にならなかった。僕の知らない間に彼女が何かをしている、というぼんやりとした輪郭だけが、自分が眠りにつく瞬間の闇の中にあった。

 その日、池袋にライトスタンドを買いに行った。ベッドサイドに置いていた読書灯が、いつの間にか壊れてしまっていたのだ。
 仕事を終えた僕は、池袋の東口で彼女と待ち合わせして、一緒に小さな家具屋でスタンドを買い、レストランで簡単な食事をとった。僕も彼女も、一杯だけビールを飲んだ。
 スタンドが入った袋を片手に、彼女と書店に寄った。ビルの数フロアに渡る書店で、僕が池袋に来た時に必ず寄る場所だった。
 入り口で彼女と別れた後、僕はすぐに三階に向かって、文芸書の新刊コーナーを覗いた。老齢の、もう大家と言っていいはずの作家が、エッセイを出していた。自分の終末を悟った上で、そのピリオドに向かう締めの作業ということだろう。そういう文章にあまり良いものはない、と思いつつも、僕は手にとってその中身を読んでしまう。

 何かを書くということは、暗闇をじっと見つめることに似ている。その先に何があるのか、という真実を突き止めるよりも、私はその暗闇が自分にどう作用するか、ということに興味がある。その先に見えてきたものが、無数に脚を生やした怪物だろうが、つまらない普遍的なパンの一切れだろうが、それは結局のところ幻に過ぎない。
 だからこそ、自分にどんな幻が見えて来るのか、ということが重要なのだ。少なくとも私にとっては、その暗闇の中に見えた世界というのは、真に存在したのだ。現実と、その幻の間で、自分がどう振る舞うのか、ということが私の書いたものなのだろう。
 それゆえ、暗闇を見つめていないときにどんなインプットをしておくか、ということが肝要なのである。私はその暗闇に、様々なものを見なければならないから。

 かつての彼の著作のことを浮かべながら、今まではあまり積極的に語ってこなかったはずの執筆論を読んだ。へえ、そんな風に思っていたのか、と興味深く。一方で、自分の執筆に対する考え方をここまでつまびらかにしてしまうことが、どこか寂しくもあった。もう本格的な長編は書かないのかもしれない。

 気がつくと、随分時間が経ってしまっていた。
 普段なら、「そろそろ帰ろうよ」と携帯電話にメールしてくる彼女からの連絡がなかった。
 彼女の縄張りとしている女性誌のコーナーやビジネス本のコーナーにも、彼女はいなかった。地下に降りて漫画のコーナーを覗いた。なんとなく絵本のコーナーも。旅行ガイドの棚の間を抜けた。もう一度一階に面出しされているビジネス本コーナーを見に行った。大手の外資系企業出身者が、独立して事業を起こす際のノウハウをまとめた本が売れているらしかった。
 普段行かない書架は、どこも迷路に思えた。穴熊の彼女はどこにもいなかった。

 エスカレーターを上りながら左手に広がる夜の街並みを眺めると、これから酒を飲んだり、もう酒を飲んで酔った人々の群れが行き交うのが見えた。カラオケの前でたむろする若者たちの集団がいた。どこかに向かう車たちが、緩やかにY字路を流れていった。これから朝までのしばらくの間、煌々と白く光り続ける街灯の灯りがあった。
 僕が本を読んでいる間にも、時間は流れていた。そしてこのビルの中だけでも、僕が絶対に読みきれないだけの本があるのだ。

 やがて、閉店を十分前を知らせるほたるの光が流れ始めた。
 フロアの案内を見ながら、彼女に電話をかけた。コール音を聞きながら、心理、教育、法律、哲学、政治、医学、社会、農業、経済、宗教、福祉、理学、歴史、工学、芸術、と読み上げていった。
 どこにも彼女がいる気がしなかった。耳の穴を、焦燥感を煽るような無機質なコール音が煌々と照らしていた。

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