テキストヘッダ

Racoon

 見回りをしていたら、敷地を流れる小さな小川で、アライグマが林檎を洗っていた。
 少々常軌を逸した、狂った洗いっぷりだったので一応声をかけた。
「なんかおかしいんだよ」とアライグマは言った。「なんか夢見てるみたいでさ。早く眼を覚まさないと」
 そう言って、アライグマは必死に林檎を洗うのだった。林檎を洗えば、間違いが正されるとでも言うように。
「夢じゃないよ」
 僕はアライグマの頬をつねってやる。
「痛い」
「ほら」
 アライグマは僕を睨む。
「夢だったら痛みを感じないっていうのか?」
「そういうことになっている」
 川面は光に照らされて白く濁っている。
「昔、腕を切って血を流す夢を見たんだ。鏡を割ってしまって、それで切るんだ。あれは確かに痛かった。血の気がひいていく感じもよく覚えている」
 おいおい、覚えてないのか、と僕は思う。それは夢じゃなくてほんとにあった話だろう。君が突然姿見に突っ込んだんじゃないか。
 その後すぐ、アライグマは結構な量の血を流して、気を失ってしまったのだ。手当したのは僕だ。アライグマの小さな身体に、こんなにたくさんの血が流れているんだな、と思いながら止血し床を拭いた。思えばあれも、こういう静かで明るい月の夜のことだった。

「とにかく、目を覚まさないと」
 そう言って、アライグマはまた川の流れで林檎を洗った。そうやって、この間違った世界から抜け出そうとしているのだ。
 いいさ。こういうときは放っておくのが一番良い。僕はアライグマの隣にしゃがみこんで、彼が林檎を洗うのを見ることにした。改めて、見事な手つきだった。
 林檎は妖しく光っていた。月の明かりに照らされた川が、林檎を濡らす。月の光をまとっているのだ。
「はあ」
 アライグマがぜえぜえ言いながら林檎を洗うのを見ていたら、なんだか僕まで妙な気持ちになってきてしまった。
「いつも、こうなんだ」
「何が?」
「いつまで洗えばいいのかわからなくなる。そうしているうちに、何かが間違ってる、というか何もかもが完全に間違ってるって気になるんだ」
「わかるよ」

 昔、アライグマが、施設で出された飴を洗ってしまったときのことを思い出す。
 飴は形を失くしてしまった。アライグマは手のひらの中の虚無を見て、きょとんとした顔をしていた。そしてこう言った。
「すごいや」
 アライグマの顔はアルコール中毒の患者がウイスキー瓶のまぼろしを見ているみたいだった。
「こんなの初めてだ」
 飴を食べられなかったことはどうでも良くなったみたいで、みんなから不思議がられていた。

 アライグマは手のひらの中の決して失われることのない林檎を洗い続けていた。
「どうしてこんなことになったんだろう」
 そう言いながらぽろぽろと涙を流した。涙は川に溶けて流れて行った。
「こんなはずじゃなかったんだ。もっと意味のあることをするはずだったんだ。作家とか大工とか、そんなの。恥ずかしいけど、そういうことに憧れていたんだ。憧れは憧れのままさ。ただ俺がうろついているこのろくでもない場所を時々ギラギラ照らすだけ。俺もこの世界に、何かをもたらすつもりだったのに。もたらしたかったのに」
 僕はアライグマの背中をさすった。できるだけ優しく。ごわごわとした体毛が指を刺した。
「頼む。悪い夢だと言ってくれないか。こんなどうにもならない存在に生まれついてしまったことを」
 アライグマは、小さな手で林檎をまだ洗い続けていた。林檎は残酷な光を放っていた。
「これは、悪い夢だ」
 アライグマはしゃくりあげた。肺と喉が奇妙な音を立てていた。
「これは悪い夢なんだよ」
 アライグマは洗うのを止めない。
 そのうちアライグマの手が滑って、林檎が川下に流れていくことを期待していたが、一向にその気配はない。
 こんなに小さな手で、健気に林檎を洗うアライグマが不憫に思えた。同情した。
 アライグマの小さな嗚咽と涙だけが、川下へと流れていくのだった。

 次の日目覚めると、アライグマは昨日のことはすっかり忘れてしまっているみたいだった。朝食で出されたトーストと林檎をたいらげて、元気に外に遊びに行った。もちろん林檎は、食べやすいように皮を剥いて八等分されたものだった。それは小さな舟のようにも見えた。

 僕はその小舟のような林檎を食べながら、あの時、僕も同じようなものだよ、と声をかけるべきだっただろうかと思案した。僕も毎日林檎を洗っているようなものだよ、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?