バナナのない世界にて
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バナナがこの世から無くなるかもしれない、という話を耳にした。
「知ってる?バナナって無くなるらしいよ」
シーツに包まった彼女は、独り言のようにそう言った。何だかこの人の身体も見慣れてきたな、と思いながら交わった夕方のことだった。彼女は職場の同僚で、僕と身体の関係を持っていた。僕と彼女、どちらもそれぞれ結婚していた。
何の脈絡もなく彼女がバナナの話をしたので、はじめは何のことなのかわからなかった。バナナ?バナナが無くなる?
「なんとかって品種のバナナの木が、みんな一斉に病気にかかってるんだって。木にカビが生えて、萎えてしまうらしい」
そう言われて、ようやく話の内容が頭の中で形になってきた。スーパーから売り切れてしまうとかそういう話ではないのだ。ついこの間、好きだった海外のアーティストが突然死したニュースを聞いたときもかなり驚いたが、少なくともそれはすぐに理解することができた。あの歌を歌っている人が、つい最近この世から姿を消したのだ、と。でもそのバナナの話は、理解のスピードが追いつかなかった。バナナが無くなる?僕は横たえていた身体を起こして、彼女の顔を見た。
「それってどういうこと?」
「だから、バナナが無くなるかもって」
「無くなるってこの世からってこと?その病気が原因で?本当に?」
「本当よ。この世から姿を消してしまうかもしれないの」
彼女はわざとらしい、深い声色を使ってそう言った。暗い部屋で、やけに声が際立って聞こえた。預言者めいている。
「そうなんだ」
自分の声は、ラブホテルの下品な壁紙に染み込んでいってしまうみたいだった。バナナの危機に対してのみならず、この世界に何の効果も発揮しない独り言にしかならなかった。
彼女と交わった直後で、まだ頭の中がぼんやりとしていた。今日あったことや、昨日までのことや、明日からのことが頭の中でごちゃ混ぜになっている。今までとこれからの人生、そしてこの現在、全部の瞬間が同じ質量で僕にのしかかってきて、その重みに押しつぶされてしまいそうだ。
「あら、そんなにバナナ好きだったの?びっくりさせちゃったのならごめんなさい」黙っている僕を、呆然としていると勘違いしているのだろう。バナナの禍福を糾う預言者は、どこかに消えてしまったようだ。
「君はバナナが嫌いなの?」
「いや、嫌いじゃないわ。でも特別好きってわけでもない」
「僕もそうだけど」
「なら良いじゃない。驚かせないでよ」
彼女は笑っていた。無神経な笑い方だと思った。肌の表面がざわりとした。
彼女はベッドから腕を天井に突き出して、指の隙間からホテルの天井を見つめていた。暗闇の中で、彼女の腕は薄く白く発光している。指先で、赤黒い爪が光っていた。
「全然、知らなかったな」
バナナがこの世から姿を消してしまうということはどういうことなのだろう、と呟いたけど、彼女は返事をしなかった。どうやら眠ってしまったらしかった。起きていたとしても答えようのない質問だっただろう。まだ夜は、もっと暗い方へと向かっていく途中だった。ここで眠ってしまうと、きっと帰りが遅くなってしまう。でもスケールの大きいフィリピンの巨大なビニールハウスの中で、鬱蒼と生い茂るバナナの木がみんなだめになっていくところを想像していたら、何故かとても眠くなってしまった。僕もそのバナナの木のうちの一本だか全部だかになってしまっていて、得体の知れないカビに覆われていく。もう何か考える必要もないのだ。途中からそのバナナの木のイメージが、僕の想像したことなのか夢なのかもわからなくなった。
二十二時にセットしておいたベッドのアラームが鳴って、僕たちは目を覚ました。汗ばんで湿気たワイシャツをもう一度着て、ホテルを出る。家に着いて顔を合わせた妻は、遅かったねと一言言うくらいのものだった。家の脱衣所でじっとりと湿ったワイシャツの背中を触ると、嗅いだこともない南米の匂い立ち上ってくるような気がした。
物に限らず、人生から色んなものが失われていくことに対して、僕は常にある一定の距離を保つという方法で心の準備をしてきた。僕は何かに対してひどく腹を立てたり、強く悲しんだりしなかった。そうならないようにしていた。そうして取り乱すことに、何か強い抵抗があったのだ。
そんな僕でも、流石にバナナが無くなってしまうとは思っていなかった。
もしバナナがこの世から失われてしまったとして、バナナ味の何かもなくなってしまうのだろうか。
例えば、バナナ味のチョコレートとか。僕は時々、成城石井で買ったバナナ味のチョコレートを食べていた。チョコレートの中に、バナナの味がする滑らかなペーストが入っているのだ。年に一回か二回くらい、思い出したように自分で買ってきて食べる。妻は、「またそれ食べてる」と言って笑った。
「いや、久しぶりに食べてるんだよ」
「ついこの間も食べていたよ」
「そんなことないはずだけど」
そうやって、バナナ味のチョコレートを食べている僕の姿は、妻にとって何かしら強い印象を与える光景だったのだろう。もう三十歳にもなる男が、一人で黙々と机に座ってバナナ味のチョコレートを食べている姿が、滑稽に見えたのかもしれない。バナナ味のチョコレートよりも、例えばヨーグルトを食べていることの方が遥かに多かったけど、そんな風に言われたことはなかった。
「食べる?」と聞くと、妻はいつも「あとで食べるかもしれないから残しておいて」と言った。「今はバナナという気分じゃないの」
そうしてしばらくの間冷蔵庫の中に放置されていた二、三片のチョコレートを、僕は後でこっそりと取り出して食べた。「あのチョコ、食べちゃったよ」とふとしたときに伝えると、妻は僕が何を言っているのかわからない、という顔をした後、何か壁にでも突き当たったかのように「ああ、そう」とだけ言った。
あのチョコレートの中のペーストには、本物のバナナが練りこまれているのだろうか。少なくとも今はそうだろう。でももしかすると、何か科学的な調味料を使えば、バナナに近い味が再現できるのかもしれないとも思う。そういう時代なのだ。
でも、もし本当にバナナそのものがなくなってしまった場合、それらは何味になるのだろうか。人はそれを、かつて味わったその味を偲びながら、バナナ味と呼び続けるのだろうか。やがて時が流れて、本物のバナナを食べたことがある人間がいなくなってしまった後も、それはバナナ味と呼ばれ続けるのだろうか。本物のバナナを知らない未来の人々にとって、その名前はどのように響くのだろう。
向かい合わせになって夕食を食べながら、僕は妻に「こないだ同僚に聞いたんだけど、」と話をした。ホテルの天井に向かって突き上げられた、白く光る腕と赤黒い爪が頭によぎった。テーブルの上には、高野豆腐、ひじき、野菜のかき揚げ、白米を乗せた皿が載っていた。どうしてあの時彼女は、ベッドの中でバナナが滅びつつあるなんて話をする必要があったのだろう、と僕は頭のどこかで思った。
「バナナの木が、みんな病気にかかって絶滅しかけているらしい。僕たちはいつかバナナを食べられなくなるかもしれないんだ」
妻はきょとんとした顔をして僕を見つめた後、ワンテンポ置いて「えっ」と短く息を漏らした。「それってどういうこと?」
「文字通りの意味だよ。フィリピンのバナナの木々たちは、みんな死にかけているらしい」
「そんな」
妻は、箸でつまんでいたさいのめに切られた高野豆腐を一度器の中に落として、呆然とした表情で言った。
「一体どんな病気なの?」
「木自体にカビが生えて、実もろとも萎えてしまうんだって」
その言葉の意味を、妻はゆっくりと噛み砕いて考えているようだった。耳から入っていった意味が脳に向かって突進して行くところが見えてきそうだった。行き場を失った箸は空を指している。自分がとても残酷で恐ろしいことを言ってしまったような気がした。
「それはつまり、カビがバナナの木の生命を吸いとってしまうみたいなことなのかな」
カビって菌類よね、植物みたいに根のようなものを伸ばしている顕微鏡の写真かなにかを見たことがあるわ、と妻は言う。
「どうしてバナナがそんな目に合わなきゃいけないのかしら」
「そうだね。確かにバナナには落ち度はないような気はする」
妻はそういう僕を、信じられないという目で見て「どうしてそんな風に他人事でいられるのかしら?バナナが食べられなくなるかもしれないのよ」と言った。僕は笑って野菜のかき揚げをかじった。細く切られた複数種類の野菜たちが、口の中で混ざっていった。
その後僕たちは、黙って食事を続けた。
シンクの前に立って洗い物をしながら、妻は「バナナが、この世から消えるんだわ」と一人ごちた。
皿を洗う妻の背中を見ていて、このところこの家にバナナがあるところを見ていないことに思い当たった。
結婚したばかりの頃、僕たちがこの家に引っ越してきたとき、妻は張り切ってミキサーを買ってきた。電気屋で一番安かったミキサーだった。
「これで、毎朝スムージーが飲める」と、妻は嬉しそうに言った。
僕は野菜や果物をぐちゃぐちゃにかき混ぜたものなんて飲もうと思ったこともなかったが、妻は嬉しそうだった。幾つかの野菜や果物の組み合わせを試した後、バナナをベースにした、ほうれん草や小松菜、あるいはごまやヨーグルトなどのスムージーに落ち着いたようだった。
「そんな、全部ぐちゃぐちゃに混ぜて美味しいの?」と僕が尋ねると、
「バナナを入れると、全部バナナの味になる」と、妻は美味しいのか美味しくないのかよくわからない感想を言った。
「りんごを入れてもみかんを入れても。こうなってくると、なんだか味というもの自体の始原が、バナナにあるような感じすらするわね」
「確かに」
僕はほんのたまに、妻がスムージーに仕損なった腐りかけのバナナを食べた。僕はバナナを食べると耳が痒くなるという、不思議な性質があった。知り合いに何人かそういう人がいることを、僕は知っている。耳が痒くなるくらいどうということはないのだが。バナナ味のチョコレートではそうはならない。
妻はしばらくするとそのスムージーに飽きたのか、いつの間にかそのミキサーを台所の棚の奥深くに仕舞いこんでしまった。つまり僕も、ここしばらくの間バナナを食べていないということになる。
「あなたは中学校の頃、結構問題児だったわよね。毎朝出席簿を取る時に先生が、あなたの名前を呼ぶ前にあなたの座席を見遣って、『あいつはまた来てない』と呟いていたのを覚えているわ。そのうちにあなたの名前は呼ばれなくなっていた」と、彼女は思い出すように言った。
「だから、君が僕のことを覚えていたことには結構びっくりしたよ」
何かを思い出すような間があった後、彼女は「あなたの名前が好きだったのかもしれないわね」と冗談っぽく言った。
彼女がこの話をするのは、もう少しこうしてベッドの中でぼうっとしていたいというサインだった。僕の苗字は確かに少し変わった響きを持っていた。全国に三世帯しかない、珍しい苗字だ。
「先生があなたの名前を呼んだ後、あなたのことを考えるわけ。私たちがこうしている間、あなたは別のことをしているんだわって。私が下らない授業を受けている間、あなたは色んなことをしているの」
「例えば?」
「そうね。例えば植物を育てたり、動物とお話ししたり」
「少女趣味的な発想だね」
「別に何でもいいの。とにかく、そうやってほとんど学校に来ないあなたのことを、なんとなく羨ましく思っていたわ。私もああすればいいのに、って思っていた。でも、うまくできなかった」
僕は学校を休んで何をしていただろうか。本を読んだり映画を見たり、色々なことをしていたと言えばそういうことになるのだろうけど、今となっては断片的なことしか思い出せなかった。きっと彼女はそういうことが羨ましいのだろうが、僕自身からすればそんなの大したことじゃなかった。別に小説家や映画監督になったわけでもなかった。
「あなたは私のことなんて覚えていなかったわよね」
「そんなことないよ。確かに覚えている人の数は少ないと思うけど、君のことは覚えていたよ」
彼女はふふふと笑った。
別に周りと比べて優秀だったとかそういうわけではなく、中学生の僕は周りとは違う順序で大人になったのだと思う。ただそれだけだ。ただ、周りの一般的な順序とはタイミングが合わなかっただけ。授業の中身よりも、もっと実際的に自分が身につけるべき技術や知識があるのだという気がした。だからそこで足踏みをしたというだけの話だった。しかしきっと、僕と同じように感じていた人が、あの中学校にはたくさんいただろうということが、今はちゃんと想像できる。例えば彼女のように。それをやり過ごすことができなかった分、僕は彼女より幼稚だったということになるだろう。
「不良が煙草を吸ったりしているのを見て、あの中学校の先生は『君はまだ子どもだろ』みたいなことを言って注意するわけ。何だか馬鹿みたいだな、とそれを見て思っていたわ。そう言われて、『はいそうですか』と言って煙草を床になすりつけるとでも思っているのかしら、と思っていると、案外みんな素直に煙草の箱を先生に渡したり、抵抗しつつもきちんと咥えている煙草を取られたりしているわけ。私だったら、そんな風に言われても絶対に言うことを聞いていなかった」
僕は白い夏の制服に身を包んだ彼女が、窓際の席から先生と不良のやりとりを眺めているところを想像する。冷たく両方を蔑む眼差し。
「同窓会に行くと、あの頃の不良連中が、今みんなそれなりにやっているということがわかるわけ。ちゃんと仕事や家族を持ったりして。でも私には、あの時の先生の注意があの不良たちを更生させるきっかけになったとは思えないわ。はっきり言ってしまえば、無風だわ。地球の裏側で蝶が羽ばたくのなんかよりも。ただのゼロよ。でも一方で思うの。そうだとしたら、あの時のやりとりと私がそれをくだらないと思った気持ちは、どこに消えてしまったんだろう。あの言葉は私に向けられていたんじゃないかって」
僕にとってのその空白の時間を埋めるように、僕は彼女との時間を過ごしているのかもしれない。こうしてあの中学校であったくだらない同級生同士のいざこざや、杓子定規を持った先生達がどんなことを言っていたかということ、そしてそれに対して彼女がどう思っていたのかということを聞くのが、僕にとってとても新鮮に感じられた。
僕だけではなく彼女も同じように、そうして何かを取り戻していたのかもしれない。今はこうして彼女と交わるタイミングなのだと、僕は自分に言い聞かせていた。何事にも順序があるのだ。
次の日の夕食の時間、妻はまたバナナの話を持ち出した。
「図書館に行って、調べてみたの。バナナは既に一度、種の絶滅を経験している」妻は鼻の穴から息を吐きながらそう言った。
「一九六〇年代に、グロス・ミシェル種っていう品種が、パナマ病という病気にかかって絶滅してる。フザリウムというその病原菌を、土壌から全て取り除くことは今もできていない。つまりバナナは、歴史上一度戦いに負けているというわけ」
「へえ」
僕はその日、とてもくだらない社内の争いに巻き込まれて、ぐったりと疲れていた。会議室のテーブルを挟んで、大の大人同士が言い争いをした。端の方に座ってその成り行きを見ていただけだったが、双方の言い分が荒々しい言葉で交わされ、徐々にヒートアップしていくのを見ているととても疲れた。もう既に何で言い争っていたのか思い出せないくらいどっちでもいいじゃないか、と言いたくなるような些細なことだったのだ。永遠に交わらない平行な二本線を眺めながら、僕の心は磨り減って行った。大人になって働くようになっても、こうして何の生産性もない言い合いに時間を割く人たちが意外と多いのだな、と思いながら。そんな会議の後に、彼女から今日会おうという連絡が着たけど断っていた。何だか何もかもに対してうんざりした気持ちだったので、早く自分の部屋のベッドに横になりたかった。
ランチョンマットの上には、昨日に引き続いて高野豆腐が乗っていた。高野豆腐は二日目が一番美味しい。味がしっかりしみこんでいて、食感もよりくたりとしているのがよい。
「パナマ病に侵されたグロス・ミシェル種に代わって台頭することになったのが、現在私たちが食べているキャベンディッシュ種ね。キャベンディッシュ種は鮮度制御も上手い具合に出来て流通にも都合が良かったし、パナマ病への耐性もあったから、バナナが世界に広がるための立役者になった」
「全然、知らなかったな」
高野豆腐の中には、えんどうが入っていて、こちらは一日目の方がしゃきっとしていて美味しいなと思った。妻はまだ、箸を取ってすらいない。妻はわざわざ毎日箸置きを用意するのだけど、その箸置きの上に行儀よく箸が乗っかっていた。身振り手振りを加えながら、妻は話を続けた。さながら党首会の演説だった。
「ところが最近フザリウムが変異して、キャベンディッシュ種にも通用する菌になった、というのが今の状況。それは新パナマ病と呼ばれるようになり、再びバナナを滅ぼそうとしているわけ。繰り返すようだけど、土壌から新しいその菌を取り除くことは不可能だし、一度病気にかかった木を健康に戻すことはできない。これは不治の病なのよ。私たちがこうやってのらくらと食事をしている間にも、フザリウムはじわじわと確実に世界中のバナナの木を蝕んでいる。今ではフィリピンのキャベンディッシュ種の五分の一が、その病気でダメになってしまっているのよ」
ずいぶん熱心に調べたものだ、と僕は感心してしまった。
「バナナにそんな苦難の歴史があったなんて、思いも寄らなかったな。僕たちが食べているバナナは、歴史をやり直したほうのバナナなんだ」
「そう。その通り。歴史は繰り返されるのよ」
妻はそこまで話すと、ようやく口を閉ざして箸を取り、料理を食べ始めた。しゃべりたいことはしゃべりつくした、といった感じで黙々と食べている。僕は自分の食事を終えて、お茶を飲みながら彼女が料理を口に運ぶのを見ていた。
「そうなると、グロス・ミシェル種の方を食べてみたくなるな。全然違うものなんだろうか」
「私が読んだ本には、こんな記述があったわ。農家の人のインタビューなんだけど」
『グロス・ミシェル種は、キャベンディッシュ種なんかより断然うまかった。クリーミーで、弾力があるんだ。おれから言わせれば、同じバナナといっても、あれは別物だよ』
「農家は、段々グロス・ミシェル種を食べることができなくなっていくことを残念がっていた。当時のインタビューで、もう来年くらいにはおれたちもグロス・ミシェル種は食べられなくなっているかもしれないな、と話していた」と妻は言った。
そうか、そんなに違うものなんだ。別物なんだ。別物ってどれくらい別なんだろうね。僕は自分の皿を洗い始めながら言った。食べ終わったら持ってきてね、皿。彼女の皿は、それぞれまだ三分の一程度ずつしか片付いていない。
「私も、自分がこんなにバナナが絶滅の危機にあることに興味を惹かれると思っていなかった。でも、このままこの世にちゃんとバナナが存在する世界と、バナナが失われたり、違う形や品種で存在する世界とでは、全く違う世界になる気がする。そう思うと何だか私はこちらの世界に居続けていいんだろうか、という気持ちになるわ」
「どういうこと?」
「本来私はバナナがあり続ける世界にいるべきなのよ。やっぱりバナナが存在しない世界って、完全に間違っている気がする」
排水溝に、食器洗いの泡が溜まっていた。泡は音もなく消えていく。何のきっかけでひとつひとつの泡が消えていく順番が決められているのだろう。
「もしかすると今私は何かを微妙に間違っていて、少しずつ違う世界に移行しているのかな、と思ったりするわ」妻は真面目な口調でそう言った。妻の方を振り向くと、妻は何もしゃべっていなかったかのように料理を口に運んでいた。
僕も皿を洗いながら、バナナが存在しない世界のことを想像してみた。バナナと一緒に妻を初めとする何人かが消えた世界。それは確かに、明らかに間違っているような気がした。
「じゃあ僕も間違っているということなのかもしれないな」そう口に出してみると、妻はじっとこちらを見て何かを考えた。
「ついでにこの後私が食べ終わった食器を洗ってくれれば、あなたは間違っていないわ。きっとバナナも生き延びる」と言って彼女は笑った。
浮気相手に、妻から聞いたバナナの歴史の話をしてみた。
「僕たちが食べているバナナは、やり直しているほうのバナナなんだ」
そういうと、彼女は「へえ」と言って笑った。「それにしても、そんなにバナナ好きだったんだ。全然知らなかった。今度バナナのケーキか何かを買ってきてあげるね」と彼女は言った。
「グロス・ミシェル種は味が全然違ったらしい。クリーミーで弾力があった」
「そうなんだ」
彼女はまた、腕を挙げて天井を見上げていた。手の指の爪の先を見つめている。その先には、天使が描かれた天井画があった。女という生き物は、爪を自分の身体から突き出てきた宝石のように扱う。彼女のそれは、艶かしい赤だ。
「でももし、そのグロスなんとかという種類のバナナがこの世に残っていたとしたら、バナナはこんなに広く食べられていなかったかもしれないわ。今食べている種類の方は、流通もしやすかったんでしょ?流通できるかどうか、というのはとても大きなことだと思うわ」
「確かに」
「あなたの話だと、何だかグロスなんとか種の代わりに、新しい種が反映したみたいに聞こえるけど、私はいずれにせよ今ある種類がきちんと覇権を握っていたような気がするわ。運命ってそういうものでしょう?」
僕は食べたこともない種類のバナナが食卓に置かれている世界の夢を見た。僕が見た夢の中のグロス・ミシェル種は、僕が知っているバナナよりもずっとでっぷりとしていて、皮を剥くと汁が溢れ出すほどトロトロとしていた。ほとんど実体すらなかった。皮ごとしゃぶりつくようにして口に含むと、舌にもったりとした甘みが広がる。噛まなくても、舌の上で形を失くしてしまう。口の端から際限なくバナナの汁が溢れ出した。それは僕の首筋をつたい、白いテーブルクロスの上にしみを作った。妻が、バナナを食べる僕を眺めていた。しみはみるみる黒く-----ちょうどバナナが腐る時みたいに-----変化していって、そこに穴が開いたみたいになった。僕がそこに指を突っ込むと、僕は指先から目覚めていった。
現実と思しき世界で僕は「運命付けられたバナナの歴史」と呟いてみた。例によって、隣にいる彼女は眠ってしまっていた。腕に頭を乗せて眠る姿から、退屈な授業中に机に突っ伏して眠る中学生の彼女が浮かんだ。
しばらく経つと、例のバナナのニュースがあちこちで報じられるようになった。
新聞やラジオのニュースでも、突然一斉に同じようなことを報じていた。バナナの滅亡は目前に迫っているのだった。なぜか必ず、どこかに消費者へのインタビューが含まれていた。テレビ局や新聞社の下っ端が、その辺のスーパーや小学校なんかに行って、「バナナが無くなるんですよ、どうですか?」と聞いて回っている。
とにかくバナナは日本中で老若男女に愛されていた。全員がバナナの無事を願っているらしかった。
ある日の帰り、スーパーに寄ると、入り口のところに大きなカメラを持った若い男が立っていた。
「すみません、バナナが無くなるかもしれないって話はご存知ですか?」と、不自然な笑みを浮かべながら店に入ってきた人間に片っ端から声をかけていた。まるで愛想の良い入国管理官みたいだった。
僕は踵を返し、家路を急いだ。同じ質問をされた時に、自分がどういう風に答えるのか想像できなかったからだ。家路を辿りながら、ああやって絶滅の危機に晒されているバナナについて、好奇の目だけを向けることの是非を考えた。
リビングで、妻と二人でぼうっと夜十一時の国営放送のニュースを見ていた。イスラム教の軍事組織が、アメリカ人ジャーナリストを拉致して人質にしていた。人質は「ヘルプミー、イッツラストチャンス」と書かれたスケッチブックを持って、無表情とも取れる表情で土壁の前で佇んでいた。キャスターは「政府の対応が問われます」と言ってそのニュースを締めくくった。
バナナのニュースはその後だった。キャスターが「バナナが食べられなくなるかもしれません」と言った。その表情は神妙そのものだった。でもどこかほんの少しだけ、人質事件の時と表情が違う気がした。それは怒りではなく悲しみだった。途方もない、やり場のない悲しみを表す表情。
バナナがどうして絶滅してしまうのか、ということについての説明は、妻がしていた通りだった。フィリピンで病気が蔓延している。それはゆっくりとバナナの木をだめにしていく。そしてそれは徐々に広がり、倍々ゲーム的に蔓延している。
夕方僕が寄ったスーパーがちらりと映った。
「えー、食べられなくなったらさみしい」と女子高生が言っていた。
「毎日のように食べているので大変困りますね」と主婦が言っていた。
「幼い頃の思い出なんかもたくさんあります」と中年のサラリーマンが言っていた。
「かなしい」と物心もついていないような子どもが言っていた。
「弊社のメイン商品ですから。これが無くなってしまうと大変なことになりますね」と、有名なフルーツの輸入会社社長が言っていた。
それを見た妻は、冷めた目で「レスト・イン・ピース、バナナ」と呟いた。「何だか、もうバナナのことなんてどうでも良くなったわ」
それから数週間もしない内に、僕の浮気は妻の知るところとなり、僕たちは別れることになった。静かな、さざ波も立たないような別れ際だった。会社から帰ると部屋から妻の荷物が消失していて、あとには僕のものだけが残っていた。妻は、自分のものと僕のものを、きっちり線を引いて管理していたのだろうか?
浮気相手に、何故かなかなか自分が妻と別れたことを切り出せなかった。言う必要もなかったからだろう。
妻と暮らしていた時には会えなかった、休日の昼間に彼女とホテルで会った。彼女は、自分の家の近くにあるというケーキ屋で、ケーキを買ってきた。バナナで作ったクリームの入ったロールケーキと、いちごの乗ったタルトだった。
「いちごのタルトがいいな」と僕がいうと、彼女は「ええ、どうして」と言った。「バナナ、バナナって言うから、バナナのケーキを買ってきたのに」
「今はバナナという気分じゃないんだよ」
そしてこれ以上話を続けてほしくなかった。とにかくうんざりした気持ちだった。
「今にバナナが食べられなくなるかもしれないのに」
彼女は髪の毛をかき上げながら、バナナのケーキを食べた。僕はいちごのタルトを食べたが、別に美味しいともまずいとも思わなかった。カスタードとタルトが、口の中の水分を奪っていく。ケーキを一口口に運ぶたびに、どうでもいいという気持ちが増していくような気がした。バナナのロールケーキは、プラスチックのフォークで刻まれ、一口ずつ彼女の口に運ばれた後、クリームと一緒に咀嚼された。自分の指先についたクリームを彼女が舐めとるところを見つめていた。僕はホテルの小さなラウンドテーブルで、彼女と身を寄せ合ってケーキを食べていた。そういう自分の姿を、どこかで誰かが見ているような気がした。いつぐらいから、こんな風になにもかもがどうでもいいと思うようになったのだろう。
それでも僕は、昼間とはいえ、休日のホテルの休憩料金がもったいなくて、彼女とセックスをした。ホテルで会っているわけだから当然彼女もそのつもりで、彼女の方から仕掛けてきた。
彼女と軽くキスをしただけで、バナナの匂いが鼻についた。甘くて重い感じのする匂いだった。一つの木にバナナの実が所狭しと実っていて、それがカビに侵されて萎んでいくところが目に浮かんだ。僕の身体と心を蝕んでいく匂いだった。何も考えられなかった。何度も何度も嗅いだことのある、記憶から消えることのない匂いだった。耳が痒くなり、それを振り払うように僕は彼女と交わった。
今もバナナはなくなっていない。
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