MIND THE GAP
※縦書きリンクはこちら https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURVHBsQ3E5UXB5cEU
裂けた地面の向こう側が、目の前でずれて離れていく。
しらない、縁もゆかりもないひとびとが、すし詰めになって運ばれていくのに向かって、わたしはシャッターを切る。目をぎゅっと瞑ってガラスに張り付く中年のサラリーマンは、苦痛そうというよりも完全に諦めの表情をしていて、わたしは思わずカメラを握る手に力が入る。
「人間の、見たことのない表情を撮るよね」
と、かつて先生が褒めてくれた言葉が勝手に頭の中に浮かんでしまう。
携帯電話についているカメラと一眼レフのカメラは、とうぜん全く違うものだけど、わたしにとって何よりも違うのは、ファインダーのあるなしだ。ファインダーを覗いているときは、ファインダーから見えるもの以外は何も見えなくなるのが良い。どうしてなのか、ファインダー越しの方が、これこそがわたしの見ている世界なのだという確信が持てるのだった。現実よりも、ちゃんとわたしが見ているものだけが写りこんでいるのがここちよい。
ときどき、カメラを銃に喩える人がいる。大げさだけど、まあ間違っていないとわたしは思う。私は人を殺したことはないけど、殺したいと思ったことはある。憎くて殺したいと思ったことも、愛おしすぎてからっと揚げて食べてしまいたいと思ったこともある。
それに似た気持ちが、ファインダーを覗いているときに湧き上がることがあるのだ。写真に対して真剣になればなるほど、そういう「殺したい」に似た気持ちは強くなる。大人を殺したい。子どもを殺したい。犬も猫も殺したい。家族もばあちゃんも殺したい。知らない人も。それぞれに、それぞれの殺したいと思う瞬間がある。
でも、とうぜん実際に殺すわけではないし、たまにその殺したいに似た生々しい気持ちが上手く脱臭できた写真が撮れると、学校で評価されることが多かった。こつは、殺すことそのものではなく、どこまでもその気持ちに近づいていながら、相手を本当には殺してしまわないことなのだ。
と、「白線の内側を歩いてください!」と叫ぶアナウンスが聞こえて、思わず身をすくめた。自分のことかと思って思わずファインダーから目を離したが、私はホームの真ん中、自販機の横に足をつけている。
誰かがギリギリを歩いていたのだろう。また、私には間抜けな国のファンファーレにしか聞こえない音が聞こえてきて、電車がゆっくりとホームに入ってくる。
どれくらいの数のひとびとが、この駅から電車に乗るのだろう。きっとそういう数字も、どこかで調べればわかるのだろうけど、実際に調べる気になるわけではない。実際に調べることよりも、その数字を想像して、途方もない気持ちになることの方が大切なのだ、わたしにとっては。
切符を買ったうちのひとりにわたしもいるけど、わたしは写真を撮りにきただけだ。だから、電車が行ってしまうのを見送ると、間違って切符を買ってしまったとか適当なことを言って、機械の改札を通らず駅を出る。マイナスいち、とわたしは思う。電車に乗って行って、どこかに消失してしまった、いち。
喫茶店で時間を潰しながら、カメラについたパネルで写真を見返す。
やっぱりありきたりな被写体だよなあと思う。ファインダーから外して、社会と触れさせた瞬間に、その満員電車の写真はただのよくある風景になってしまった気がした。
海外から来たカメラマンがこういう写真を日本で撮って国内で発表するならまだ意味はあるかもしれないけど、わたしたちにとってはこれが紛うことなき日常だ。それは、たまたま今日片田舎からで来ているだけにすぎないわたしにとってだってそう。東京に住んで、まじめに働いている人はたいへんだなあ。見るものにたいして、それくらいの印象しか与えられないだろう。
さっきのサラリーマンの表情だけは、それでもまあまあいいかもしれないなと思った。まるで山篭りの修行僧だ。窓についた手のひらが、施無畏印のようにも見えたし、どこか滑稽さも感じられる。人間のかたまりの中で、その顔以外は匿名性がある。
と、そのサラリーマンの向こうに、こっちを見ている眼があることに気づいた。隙間から飛び出し、不自然に折れ曲がってつり革を掴むその間から、私を見ている。感情がなかった。ただ、こっちを見ているだけの眼だった。わたしと同じくらいの、女性の眼に見えた。
面接を終えて、池袋駅前のコインパウダールームでスーツからラフな私服に着替えた後、さっき撮った写真をポートフォリオのサイトに載せた。
MIND THE GAP、というタイトルを付けて。
面接中もその写真のことばかりが頭によぎって、集中できなかった。この面接官のおっさんも、あの満員電車に乗って出社して、会社についてからこうして髪をジェルで固めているのかもしれないと思うと、何だか自分の張り付いた笑顔がただのにやけ顏にしかなっていない気がしたのだ。
志望動機は何ですか、という質問がわたしは死ぬほど苦手で、好きなひとにどうして好きかなんて説明できない!とアホの子みたいなことを思う。
というか、そもそも、そんなに働きたいと思う会社でもないのだ。
鏡に向かって、派手に着飾った女がスマートフォンのシャッターを切った。この女も、どこかに向かうのだろう。
朝と比べれば遥かに牧歌的な電車に乗って渋谷に行き、ニューヨークに住む写真家の展示を見た。街の、特別とは言えない風景を撮る写真家だった。
「神秘的なことは、身近な場所で起こる。何も世界の裏側まで行く必要はない」とそのカメラマンは言っていて、どこにも行く予定がないわたしは勇気が出た。
写真はやっぱり、カメラマンの眼差しだ、当たり前だけど。そのカメラマンがどういう風に世界を見ているのか。
わたしたち、平凡な人間には見えていないものが、大家と言われるようなひとたちには見えているのだと思う。ことばにしてしまうとやたらと陳腐だし、学校でそんなこと言ったらまだそんなこと言ってるのという感じになるだろうけど、やっぱりどこまで行っても、わたしたちは写真でその人の世界の見方を知るのだ、とわたしは思いなおす。
展示の帰り、スクランブル交差点で行き交う人々を見て、わたしはシャッターを切りたくてうずうずする気持ちを抑えることができなかった。そんな風景は、百周も二百週もして火星までいけるくらいありがちなモチーフだったけど、たまらず地下道出口の人が通らないスポットにしゃがんで、行き交う人々の足元からシャッターを切った。
わたしの世界の見方。
北に帰る新幹線のホームで、ふと携帯電話を見ると、SNSの通知が嵐のように届いていた。満員電車の写真を載せたポートフォリオのリンクが、とんでもない数シェアされているのだ。
CRAZYとか、inefficiencyとかいう単語がほとんどで、それに紛れて日本語で「異常」とか「こんな街に住みたくない」という文言が添えられている。
何を切り取りたくて、そんな写真を撮ったのか、自分でももう思い出せなかった。
写真を見返すと、渋谷のスクランブルで撮ったひとびとが行き交う奥の方に、ひとつだけ不自然に立ち止まって、こちらを向いている影があった。
それはやっぱりわたしと同じくらいの年の女性に見えた。ただ佇んで、こちらを見ている。
たとえばずっと、こうしてホームに座っているわたしを、動き出す電車の中から捉えたとき、どんな風に見えるのだろう。向こう側のホームで走り出したはやぶさ号の指定席からは、スーツバッグを持ってくたびれた表情をしているわたしがどう見えるのだろう。
自由席でなんとか窓側を確保して、走り出した電車の窓に向けてシャッターを切った。
裂けた地面の向こう側が、目の前でずれて離れていく。ホームにはひとびとがいて、どこかに向かって歩いている。カメラを構えたわたしが、窓にうっすら映り込んでいて、どこかに運ばれていった。
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