テキストヘッダ

午前二時

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURQW5DektvN2NNYWc

 ハザマは夜中の二時を愛している。

 それは偏愛と言っていい類のものだ。毎日わざわざその時間まで起きておいて、二時そのものを撫で回したり手のひらの上で転がしてみたりするわけではないが、夜中の二時になると何故か心が安らいだ。時計の針が二時を指しているのを見ると自然に深いため息が出て、張ったばかりのカンバスを前にしているような心持ちになる。
 二時は確実に暗い。どんな場所にいても必ず暗い。そしてどんな場所にいる誰もがもはや夜は暗いと認めるほどの暗さがそこにある。静かに息を潜めながら話す人々がいる。大きな声で騒ぐ人々がいたとしても、それは夜中の暗闇の中で自分の存在をアピールしたり、地面と壁の場所を確かめるためのようなものだ。ひとりひとりが切り離され、孤独を噛みしめる。心地よい孤独もあれば、身を切るような寂しさを伴う孤独もある。いずれにせよ、自分という人間の輪郭がくっきりと闇の中に浮かんでくる。
 ハザマはそんな夜中の二時という時間が好きだった。自分の境界みたいなものが、昼間の喧騒で曖昧になってしまったことに気づくことができるから。そしてそれをリセットすることができるからだった。

 その金曜日は仕事を終えて帰ってきたのが二十一時ごろで、家着に着替えてソファで煙草を二本ほど吸ったあと、そのまま横になって眠ってしまった。目が覚めた時にはとっくに日付は変わっていて、首と頭がずきずきと痛かった。
 ハザマはバスタブに熱い湯を沸かしてゆっくりと浸かった。身体をわずかに動かすと響く水の音以外は、低い地鳴りのような音しか聞こえなかった。窓から入ってくる風が、濡れた頬に心地よかった。
 目を閉じる。二時だ。みんなもう寝静まっている。バスタブの湯に浸かりながら、ハザマはひとり、二時の奥底に潜り込んでいく。

 そしてハザマはいつものように色々な場所に思いを馳せる。それは別に、特に思い入れのある場所というわけではない。
 その日にまぶたの裏に浮かんできたのは、学生時代に行ったレコード屋だった。

 もちろんレコード屋も二時だった。店には誰もおらず、もちろん音楽は鳴っていない。中古のレコードボックスの中で、80年代に流行ったネオアコバンドのシングル・レコードが佇んでいるのが見える。
 それは海外のインディーズバンドを紹介するレーベルもやっているレコード屋で、ヨーロッパ圏のギターポップやカジュアルなジャズなどに強かった。そういう音楽は君の守備範囲外だったが、近くを通るとつい寄ってしまうレコードショップだった。
 覚えているのはクリスマス前のことだ。当時付き合っていた恋人のプレゼントを探しに街に出て歩き疲れた途中、たまたま横を通って立ち寄ったのだった。
 カザマが普段行くような、ダンボールの中にありったけの中古のレコードが詰め込まれているような店ではなくて、店がちゃんとセレクトしたものだけを置くレコード屋だった。ゆるいボサノヴァがかかっていた。床にはレーベルのロゴをあしらったカーペットが敷かれている。店員の若い男は、パソコンの画面を見ながらホットドッグを食べていた。器用に片手でレコードの針を上げて、次のレコードを置いた。次にかかったのはオレンジ・ジュースのレコードだった。検番しているのだ。
 試聴機に近寄って、ヘッドホンでレーベルのコンピレーションを聴いてみた。それは決して悪いものではなかった。店内でかかっている音楽こそハザマの趣味に合うものではなかったが、コンピレーションの中身は悪くなかった。むしろとても良いものだった。カザマが普段聞かないようなポップソングも、自分が予想する展開を裏切るような構成だったし、耳障りが心地良かった。
 こういうのを恋人にプレゼントするのはどうだろう。普段、自分ほど積極的には音楽を聴かないタイプではあるけど、もしかすると彼女と自分とのちょうど中間地点くらいに位置する音楽かもしれない。二人でどこかに行ったりとか、自分の家で彼女が料理を作ってくれる時なんかに流すのだ。
 ハザマはそのコンピレーション・アルバムを買って帰ったが、結局恋人にはプレゼントしなかった。やはりどこか押し付けがましいような気がしたのだ。そして一度も家のCDプレイヤーのトレイに乗ることもなかった。恋人が家に来ている時は、小沢健二とかフィッシュマンズばかりが流れていた。
 そのコンピレーション・アルバムは、多分今もハザマの部屋のどこかで眠り続けている。恋人とは別れてしまった。
 誰もいない夜中二時のレコード屋は、また朝になってボサノヴァやギターポップがかかるのを待っている。おそらくハザマには、それはどれも似たようなものにしか聞こえない。

 風呂を上がると、ドアの磨りガラスの向こうでリビングの明かりが灯っていた。ハザマの恋人がキッチンのテーブルに腰掛けてビールを飲んでいる。
「起きてたの?」
「眠れなくて」
「起こしちゃった?」
「まあ」恋人はビールに口をつけて間を空ける。「気にしないで」
 ハザマは自分の分のビールを取り出した。
「珍しいね、飲んでるなんて」
「うん」
 恋人は積極的に飲酒するタイプではない。いつもハザマが勧めても、ハザマの開けたビールを一口か二口飲んで満足してしまう。
 ハザマとハザマの恋人は、向かい合わせに座って黙ってビールを飲んだ。
 二人は付き合って一年と半年になる。暮らし始めてからはちょうど一年ほどだ。「他人と暮らすことは難しい」と兼ねてから散々色々な人から聞いていたけど、ハザマにとってそれは別に難しいことではない。ただひとりの暮らしがツーセットあるだけだ。相手がどう思っているかは別として。
「話があるの」

 ハザマは彼女の話を聞きながら、彼女と暮らし始める前に住んでいた一人暮らし用のアパートを想像する。風呂のない木造建てのアパートで、大学生時代から住み続けていたアパートだった。
 隣の部屋にはいつも手の震えている-----いつも発泡酒の空き缶が大量に詰め込まれたゴミ袋が捨てられていたから、アルコール中毒だったのだろう-----老父が一人で住んでいた。
 今日の二時二十七分、そのアパートにはもう誰も住んでいない。ボロボロで、ハザマが学生時代にはちらほら部屋が埋まっていたが、ハザマを最後に新しく入ってくる人はいなかった。
 老父はハザマが引っ越すちょうど一ヶ月ほど前に部屋で死んだ。ハザマがその日仕事から帰ってきた時、警察と市の職員が家の前にたくさんいて、その老父について色々と話を聞かれた。いつ頃から姿を見ていないか?最近何か不審なことはなかったか?身内や親交関係などについて聞いたことはあるか?いずれもハザマの知らないことばかりだった。

 ハザマがもう要らなくなったレコード屋古本を売り、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機をリサイクルショップに引き渡し、新居に持っていくものを箱詰めしている頃、ちょうど老父が住んでいた部屋も整理が始まったようだった。
 間の抜けた黄色いジャンパーを着た男二人が、部屋から荷物を運び出していた。大きなトラックを横付けして、色褪せた箪笥や小さな座卓を載せていく。
「孤独死のようでした」と、背の高くて年かさの方の男が言った。軍手とマスクを外し、鼻の頭を掻いた。
「お引越しですか?」
「ええ、まあ」
「まあ、こんなことがあってはね。臭いも相当キツかったんじゃないですか?亡くなられてから、二週間くらい経っていらしたそうです。まだまだ暑い日もありましたし」
 二週間。
「まあ、お気になさることはないですよ」
 そう言って彼は、茶色いドアの開け放たれた部屋に向かって手を合わせた。若い方の男が、市のゴミ袋を両手に抱えて出てきた。

 そんな老父との最後の会話を、ハザマはよく覚えていた。
「とうとうふたりだけになってしまったね」
 それは老父とハザマだけを残して、最後の住人が引っ越して行った後のことだった。仕事に出かける前、新聞を片手にした老父とすれ違った時の話だ。ハザマと老父以外の戸のポストは、すべて目張りされてしまっていた。
 自分がそれに対して、何と答えたのかはどうしても思い出せない。

 ハザマは時々考える。
 もし老父が今も亡くならずにいて、僕は彼女と暮らすために引っ越しをしていたら?
 もし老父が亡くなったことを知る前に、自分が引っ越しをしていたら?
 もし老父が亡くなってしまう前に、引っ越しをするんです、ともし老父に伝えていたら?
 もしそもそも僕に引っ越しの予定なんてなくて、ある日突然老父が部屋で一人で亡くなって腐ってしまっていたのだと知らされていたら?

 彼女は別れ話をした。ごめんなさい。地元に帰らなきゃいけないの。母親の調子が良くなくて。そして、あなたのことをとても愛しているけど、ずっと愛していられるかどうかは正直自信がない。感謝している。深く深く感謝している。どうか許してほしい。今別れるのは自分にとっても辛い。それでももう、ずっとこういう関係を続けていけるとは思わないの。あなたはあなたらしく、あなた自身のために時間を使うべきだと思うの。わたしのことなんて気にせず。

 二時二十七分の無人のアパートは、静かに佇んでいる。アパートは、ハザマが出て行った後取り壊されることになった。そろそろ重機がやってきて、そこを更地にしてしまうのだろう。
 ハザマの部屋と老父の部屋は隣同士対で、鏡合わせのような間取りになっていたはずだ。薄い壁に仕切られたふたごの部屋。もう一方の部屋の畳には、老父が最後にそこにいた痕跡を残したままになっている。ハザマがよく腰掛けて外を眺めていたベランダの窓はぴっちりと閉ざされている。淀んだ空気が部屋の中に溜まっている。

「誰かと暮らすのは楽しかった?」
 僕がそう聞くと、彼女は赤くなったまぶたをこすった。化粧をしていない彼女の顔が好きだった。
「変な聞き方するのね。『僕と暮らすのは楽しかった?』じゃなくて?」
 缶ビールは空になっていたけど、僕は底に溜まった雫が落ちてくるのを待った。
「誰かと暮らすのだよ」
「そうね。わたしもあなたも、きっと誰かと一緒に暮らすのって向いていないタイプなんだって思っていたけど、こうなってみると悪いものじゃなかったわ」

 彼女は先にベッドに入った。もしかすると彼女は、僕がベッドに入ってくるのを待っているんじゃないかというような気がした。あるいは、こんな日くらいは彼女と一緒にベッドに入った方がいいんじゃないかなと思った。
 二時四十一分だった。誰もがひとりの時間だった。たとえ彼女と一緒にベッドに入ったとしてもひとりだろうなと僕は思った。缶ビールをもう一本開ける。
 いつか誰かと暮らす日が再び来るのだろうか。そしてその暮らしの日々には毎日必ず二時がやってきて、僕にどんな思いを抱かせるのだろうか。
 僕は老父がひとりで冷たくなっていったところを想像する。そしてそれが、決して寂しいとか寂しくないとかそういう次元の話ではなかったことを祈った。

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