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フラッシュバック

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 よく他人に取り違えられることがあります。黒縁の眼鏡、そこそこに高い身長、猫背。誰しもに、そういう見た目の知り合いが一人はいるのでしょう。
 何度となく他人と間違われる中で、とりわけえらい間違われ方をしたことが一度あります。大学生の頃の話です。
 蒸し暑い季節でした。


 「ショウジさん」という名前を、消え入るような声で呼ぶのを聞いた。
 老婆の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。見開いた深くて黒い瞳の表面に、かすかにたわんだ自分が映っているのを見てしまった。


 時間が頻繁に前後する話し方ですみません。
 去年の暮れ、大きな手術をしたんです。仕事の打ち合わせ中突然じっと座っていられないほどの頭痛がして何も考えられなくなったあと、椅子ごと倒れました。
 それからどうも、物事を整理して話すのが苦手で。

 死ぬということは、案外あっさりしたものなのかもしれません。糸が、ぴん、というかすかな音を立てて切れるような。ああ、自分はこのまま死ぬんだな、とすごくあっさりした気持ちで思いました。
 でも、近くにいた人がすぐに救急車を呼んでくれたので、僕はこうして生きて話をすることができるわけです。

 その老婆も、頭をかかえて苦しんでいました。


 アパートとその横の墓地を、赤いランプが照らす。
「ご家族ですか?」
「いえ」
 あの、ただの隣人です。
 あらぬ疑いをかけられまいと、僕はしどろもどろになる。
「発見した時の様子は?」
「扉の前で蹲っていて。頭を押さえて呻いてました」
「意識は?」
 ショウジさん、と呼ぶ声が頭の中にフラッシュバックする。
「ありました。でも多分混乱していて。僕を誰かと間違えていたみたいです」
 しわくちゃの小さな身体からは想像できない重みが、腕の中に蘇る。
「お名前は?」
「名前?」
「あなたのお名前」
「ああ」
 救急隊員は、念のためと言って僕の名前と電話番号を控えて去っていく。
 くるくる回る赤い光が、夜の闇をかき混ぜながら走っていくのを見ていた。どうしてなのか、それを見つめるTシャツ姿の自分の背中が頭の中に浮かんだ。救急車が曲がり角を曲がると、サイレンの音は急速に遠ざかっていった。

 自分の部屋に戻っても落ち着かない気分だった。
 この部屋の隣に、主が不在の暗闇があるのだ。
 は、と思い出して外に出ると、玄関の前にさっき買った発泡酒が転がっていた。拾い上げると、汗をかいた缶がアスファルトに不気味な痕を残している。
 手が震えて、プルタブが開けられなかった。生と死の狭間にいる人を目の前で見たのは初めてだった。
 プルタブの下に定規を滑り込ませてなんとか栓を開け、窓の下の墓を見ながらぬるくてまずいビールを飲んだ。


 先輩、明らかに呂律が回らなくなっていたからおかしいなとは思ってたんです、と救急車を呼んでくれた同僚が後で詳しく教えてくれました。
 話が段々支離滅裂になっていくし、その日はちょっと待ってと言って話を中断するのを繰り返していたそうです。自分では全然覚えていないんですけど。
 それで、打ち合わせの途中で突然目を見開いたかと思ったら、口をパクパクさせて喘いだと。それで本当にヤバイんだってわかって、すぐに救急車を呼んでくれました。
 俺、口をパクパクさせながら、何か言ってなかった?と聞きました。
 いや、と。苦しそうには見えたけど、ということでした。
 ただ、僕は手を伸ばして、何かを掴もうとしながら倒れたそうです。
 走馬灯でも見ちゃいましたか?生きていて本当によかったですね、と当時の同僚は笑いました。


 窓を開けるとすぐそこに墓地が見えるアパートだった。というか墓地しか見えない。
 青白い空気をまとった三〇基くらいの墓が、いつも同じ方向を向いて立っていた。墓地の周りにあっては、好き放題生い茂る雑草もさざめく雑木林も墓地の一部へと成り代わってしまう。その向こうに見える民家や煙草の自販機も、すべて霞んで見える。

 辺鄙な場所にあるとは言え、お参りのシーズン外でも時々人が手を合わせにやってくることがあった。日が沈んでから花を供えに来て、長いこと何かを呟いている中年男性。まるで神社の鐘を鳴らすときみたいに、ぱん、ぱんと二回手を打つ若い男女。何も言わずにお墓を見つめているだけの小さな女の子。そういうのを、窓を薄く開けて何度かクロッキーしたことがある。
 かつて家に遊びに来た女の子は気味悪がった。
「なんでこんなところにしたの?」
「なんか落ち着くから」
 そう言うと、彼女は墓に向けていた眼差しをそのままこちらに向けた。
 君らしいと言えば君らしいね、というようなことを言われたのを覚えている。その子はそれから部屋に遊びに来ることはなかった。もう顔も声も上手く思い出せない。
 その他にも、数少ない友達のうちの何人かが僕の家を訪れたことはあったけど、皆長居はしなかった——泊まるなんて以ての外だ——し、再び訪れてくれることもほとんどなかった。
 それでも僕はその家が結構気に入っていた。立て付けの悪い襖も、余計蒸し暑く感じる湿っぽい畳も、黒っぽく変色した古い柱も、すべて懐かしい思い出として覚えている。初めて一人暮らしを始め、初めて自分一人の生活を営んだ場所だからかもしれない。


 卒業後、絵の道には進みませんでした。伝手で、地元の印刷会社に入ったんです。
 絵をやめて就職すると決めた時はあっさりしたもので、仕事をしながら空いた時間に描き続けます、とゼミの先生に言い切ってしまいました。それが仇になって、描くことも大学時代の知り合いに会うことも億劫になってしまっているんですけど。
 あの情熱はどこへやら、と思わない日もないではないのですが、元からそれほど執着するタイプでなかったな、とすぐに思い直して毎朝仕事に向かっていました。


 隣の部屋に住んでいたその老婆のことを、それまであまりよく知らなかった。
 おばあちゃん子だった僕にとっては、老婆というのは皆それなりに愛想が良くて優しいものだという思い込みがあったので、アパートの周りで顔を合わせてもにこりともしないその顔は、ある意味印象的ではあった。それと、いつも洒落ていたことが印象に残っている。若作りではないけど、白いブラウスにロングスカートを履き、つばの大きい帽子をかぶっていた姿を、妙によく覚えている。後ろ姿だけ見て、若い女性と見紛ったこともあった。

 この狭い間取りのアパートに、誰かと一緒に暮らしていたとは思えない。

 大学をサボって昼間から墓地を眺めながらビールを飲んでいた時、隣の窓が開いたことがあった。
 白いブラウスから伸びた両腕が、窓の外で合わさるのを見た。か細くて白い、皺だらけの指。
 長い合掌を終えた後、腕は静かに不思議な踊りを舞った。老婆の腕とは思えないしなやかさで、その腕は何かを掴もうとしているように見えた。あるいは、指揮棒を振っているようにも思えた。
 やがて腕は突然正気に戻ったかのように、ところどころ鈍色になってしまった窓の棧をぎゅっと掴んで静止し、音もなく部屋の中に消えていった。
 その墓地に誰か知っている人が、まして大切だった人が埋まっているのであれば、そういう風にすることもあるだろうな、と思いながらビールを飲んだ。


 結婚しようと思ったこともありました。
 でも駄目だったんですよ。僕はほんとに駄目なんです。執着心がないから。駄目にしちゃうんです。
 でも結果的によかったかな、と思います。
 こんな風に倒れてしまって、仕事も辞めてしまって、じゃあこれからは自由に生きよう、なんていうのを他人に押し付けるわけにはいきませんから。もし結婚していたとしたら、今頃子どもがいたかもしれません。そうだったら、こんな風に「とりあえず仕事を辞めてしまおう」なんて思えなかったでしょうから。
 でもまあなかなか。もう一度絵を描こうと思ってもなかなか上手く行かないです。ぼんやりと、緩やかに日が流れていくのに身を任せています。
 これで良いんだ、と思っています。


 日が沈むとそのまま夏が消えてなくなってしまいそうな気配になった頃、隣室から家具や荷物が運び出され、階段下に停まった軽トラに積み込まれていくところを見かけた。
 家に入ろうとする僕を、トラックの荷台に立っている金髪の男が見とめて、「あ、お隣さん」と呟く。
 僕とあまり変わらない年頃に見えるその男は、大きな声で母親を呼んだ。
「この人じゃない?救急車呼んでくれたの」
 母親は「その節はご迷惑を」と頭を下げた。親子はどちらも老婆には似ていないように見えた。
「つい一週間ほど前に亡くなりまして」
 つまり老婆は一ヶ月ほど、脳が死んだ状態で生きていたということになる。
「救急隊の方から、アパートの方が見つけてくださったと聞いていました。折を見て御礼をと思っていたのですが、バタバタしていて。今日も何度かノックさせていただいたのですが」
 家族でありながら最後を看取ってあげられなかった私が、こんなことをあなたに言うのは少し問題があるかもしれませんが、と前置きした上で母親は言った。

 母は、たった一人の部屋で意識を失わず、幸運でした。救急の方に、意識を失う直前にあなたに見つけていただいたと聞いています。
 八年程前に、彼女の夫であるわたしの父が亡くなってから、母はずっとこのアパートで一人暮らしをしていました。
 わたしたちはずっと同居を勧めていたのですが、静かに一人で暮らしたいと言って聞かなかったんです。突然倒れたりしたらどうするのって言ったこともありますしたが、その時はその時だし死ぬ時はみんな一人よ、と母は言っていました。大丈夫、寂しくない、と。
 今思えば強がっていたところもあったのかもしれません。
 でも、母の最後を看取っていただき、ありがとうございました。

 母親が頭を下げた時に、僕の部屋を反転させた間取りの部屋がちらりと見えた。ほぼがらんどうになった部屋に、椅子が二つ並んでいるのが見えた。
「あの」
 母親が振り向く。
「お母様の旦那さまのお名前は、なんと言いますか?」
 ショウジ、という名前ではなかった。


 僕は、反射的に返事をしてしまったんです。

 ああ頭が、と、老婆は苦しそうに呻いている。
 駆け寄ると、老婆は一度驚いたように目を見開き、か細い声で名前を呼んだ。
「どうしてこんなところに?」
 大丈夫ですよ、大丈夫。そう繰り返しながら、冷静な振りをして片手で携帯電話を操作する。
「お迎え?」
 そうですよ、と僕は答える。
「ショウジさん」
 すぐに救急車が、と言いかけたところで、老婆はゆっくりと目を閉じた。
 やっと、また会えたね。
 海に潜る前みたいに、老婆は短く息を吸い込んだ。腕に体重がかかり、僕のパーカーを掴む指も離れていった。

 何が起こったのか、よくわかりませんでした。

 自分が倒れる瞬間に思い出したのは、その時のことです。
 同じような記憶だから、フラッシュバックしたのかもしれません。
 僕の瞳に映ったのは、助けてくれた同僚でも、一度だけ部屋に来た大学時代の彼女でも、結婚しても良いかななんて思っていた女の子でも、大学のアトリエの白いカンバスでもなく、あの日のことだったんです。わたしの腕の中で微笑んでいたあの老婆のことだったんです。

 あの鈍く光る瞳に老婆が映していたのは何だったのだろうと、自分も倒れてからよく想像します。そしてその、ある意味劇的ではある死の場面と同時に、あの長い合掌と何かを掴もうとして舞っていた白い腕も思い出されます。
 僕はある意味、まだ何も執着するものがないからこそ、こうして帰ってこれたのかもしれないなと思うことがあります。
 長く生きていれば何かあるかもしれないな、と、あの瞳に映ったものを想像しながら思うわけです。そういう何かを見出したくて、絵を描いているのかもしれません。


表紙写真撮影/野口翔平
Twitter: @ktzgw 
http://ngcsh.tumblr.com/
後記はこちらから https://note.mu/horsefromgourd/n/n965f4cb8e70c

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