テキストヘッダ

Nausea

 頭痛や吐き気に悩んでいる人を元気付けるために、自分の話をすることがある。自分の頭痛がすっかりおさまった時の話だ。

 曰く、人工的に地震を発生させることの出来る兵器がこの世界には既にあるという。かつて目を血走らせてそう教えてくれた会社の同僚がいるけど、どんだけ莫大なエネルギーが要るんだよ、と思って信じていない。世界を亀と象が支えているとかなら、まだ在り得るかもしれない。指で突いたり、餌で誘ったりするのだ。

 吐きそうだ、と思ったときにはもう遅いことの方が多い。そうなるときの兆候はいつも決まっていて、まず眼球が震える。それは自分にしかわからない揺らぎだ。人間の身体の一部分とは思えないほど超高速で、多分見た目には動いていないように見えるのだと思う。もちろん、眼球の振動に合わせて風景が何重にも重なって見える。
 眼球が震えるのを感じているときは、遠隔的に眼球を震わせて人を吐き気をもよおさせる兵器はあるかもしれないなと思ったりする。地震を起こす兵器のことは信じていないくせに。科学的な兵器でなくても、そういう超能力が使える人間が僕の近くにはいるのかもしれない。

「何をそんな、吐くようなことがあるのだ」というタイミングでそれはやってくる。せめて、例えばクライアントから入稿ギリギリでデザインの再修正を求められている最中とか、田園都市線の満員遅延ファッキン電車の中とか、そういう場面で吐き気を感じるのであれば、自分で自分の繊細さを自認できていいのかもしれない。でもクライアントの下っ端の無自覚な声が受話器から流れてくるのを受け止めているときにどれだけ念じたとしても、全く吐き気はやってこない。やってくるのは締切だ。
 そういうわけで、眼が震えているところを医者に見てもらおうにも、なかなか眼科の目の前で眼球が震えだすという機会に恵まれることもなくここまで来てしまったのだった。

 目を閉じても、まぶたの中で暗闇が震えた。その暗闇の縁が線になって、何か風景のようなものが見えることがあった。
 きっと僕は前世誰かを殺すか何かして、その罰を受けているのだと思うのだった。


 それは、ガールフレンドと銀座で食事をした後のことだった。
 昼間からホテルに誘うのもなあ、と思いながら歩いているその途中に、その画廊はあった。汚れた漆喰塗りの建物の軒先に、小さな立て看板が出ていた。

- いなくなった巨人の話展 -

「入ってみようよ」と、彼女が言った。
 看板に張られたポスターには、盛られた青い岩絵の具の上に、白い抽象的な線が並んでいる絵があしらわれていた。煙にも見えたし骨にも見えた。大きな河を渡るはしけにも見えた。
 ガラスを覗き込むと、水色のワンピースを着た女と目が合ってしまった。女は、まだ肌寒いのに半袖だった。背が高く、袖から出た肘が、乾いた樺の枝のように節くれだって白い。長い髪の隙間から、鈍く光る瞳が見えた。
 戸を開けると小さく金属の音がした。女は立ち上がり、
「こんにちは」
 と言って一度こちらを見やっただけで、座って元の木偶人形に戻った。

 絵はどれも青色が基調になっていた。青い色だけで夜や朝を表しているのがわかった。その上に抽象的な線が並んでいる。何かしらの生き物と思われる、単純な線の組み合わせが並んでいるものが描かれているものもあった。白や灰色で描かれたその線たちは、どれも形を成さず抽象性を保ったままだった。
 彼女がそれを難しい顔をして眺めていたけど、僕にはだんだんこれらの絵が何を描いたものなのかわかってきた。巨人たちの暮らした世界が描かれているのだ。巨人たちの、見たままで。海で魚を捕らえ、畑を耕し、夜には抱き合って眠る。巨人の暮らした世界は、僕たちが暮らしているこの世界よりもずっとシンプルで神秘的なのだろうと思った。
 彼女は僕の方に目配せした。青の上に、白い球体が浮かんでいる絵の前だった。口元に手を当てて僕を誘うと、耳元で
「綺麗だね」
 と囁いた。

 吐きそうだ、と思ったときにはもう遅い。
「どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 身体を折りたたんだまま、僕は立てなくなってしまった。目の前にあった絵が、押し寄せるさざ波のように何重にも重なって見えた。彼女の肩を借りて、画廊のトイレに座った。
「しばらくすれば治ると思う。ごめん」

 どうして僕の眼球は震えるのを止めないのだろう、と思った。

 それは、僕の眼球と見えない線で繋がっている鈍色の球が、遠い時代に滅んだ巨人たちの洞窟に祀られていて、巨人たちが歌う声でそれは震えるからだった。
 巨人は跪いて、雄たけびのような声を上げた。空気がびりびりと振動して、鈍色の球が震える。歯を剥き出しにした巨人には、そう遠くない未来で自分たちが滅んでしまうことを知っていて、そのやるせない気持ちを歌うのだ。抗ったり逆らおうとするのではなく、絶滅を受け入れ、その意味を考えるために歌っているのだ。ただただ、何故なのか、この苦しみは何を意味しているのか、なにゆえ自分たちは消えねばならぬのか。
 巨人が歌う姿があまりにも美しいので、僕は止め処なく涙を流した。巨人には眼がなかった。巨人の代わりに僕は泣くのだった。

 さっき彼女と一緒に食べたイタリア料理を便器の中に吐き出すと、それは渦になって暗い水の底に沈んでいった。赤い渦は、血ではなくトマトだろう。トイレの外からは、彼女とあの木偶人形のような女の話し声が聞こえた。彼女が一方的に話していた。何も言わずに立ち去れるところだったのを、僕の嘔吐に付き合ったせいで、あの木偶人形のような女としゃべる羽目になったのだ。
 彼女とは違う声で、海です、という声が聞こえた。それは強い口調だった。海。海です。これは海です。今よりももっとずっと青かった頃の。

 目を閉じると、あの鈍色の球は大洪水に流されて、海の上をたゆたっていた。
 巨人はもう見えなかった。辺りにあるのは水と空だけだった。時々風が海を撫でて、身体が波に揺られるどぷんという音だけが聞こえた。
 随分流されていくと、浜辺に幾つも同じような鈍色の球が流れ着いていた。柔らかくて黄色い砂の上で、鈍色の球は静かに朽ち果て、浜辺の砂より細かい粒子になって風に乗ってなくなった。
 遠くの方で、巨人の歌う声が聞こえた。怒るのでもなく、嘆くのでもなく、ただただ歌う声だった。

 その日から、僕の目の震えは収まったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?