テキストヘッダ

ビールのCM

※縦書きリンクはこちら https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURbXR1M0tvSjAxbzA

 IHのコンロが壊れた。スイッチが入っていることを示すランプは阿呆みたいにびかびかと赤色に光るが、作りおきのインゲン入りコンソメ・スープは、一向に温まる気配がなかった。
 冷たいままのステンレス鍋に指先で触れていると、そもそもこんなわけのわからない機器を無闇に信用して使い続けていたほうがどうかしているような気がした。

 翌日の午後、有休を取った。よく晴れた日だった。
 課長に「IHコンロが壊れてしまったので」と説明すると、全く以て意味がわからないという顔をされた。
 IHコンロが壊れてしまって温かいものが食べられないということと、歯が痛くて歯医者に行ったり、しばらく顔を合わせていなかった親戚の葬式に行ったりすることには、大きな隔たりがあるというのが常識のようだった。でも僕にとっては、全部同じくらいシビアで切実な問題のように思える。そんなことを考えながらタイムカードを押し、大きな家電量販店に車を走らせた。

 ガスコンロにも色々な種類がある。汚れにくい。魚がふっくらと焼けるグリルがついている。タイマー機能がある。やかんを置いておけば、勝手にお湯を沸かしてくれるものまであった。そしてあるいは、その全てを兼ね揃えている。数年前に祖父が亡くなったとき、墓石を選んだときのことを思い出した。どう選んだら良いのか全く以てわからない。
 僕は中くらいの価格のスタンダードな二口コンロを買って車に積んだ。
 自分のアパートへと向かう昼の国道を走りながら、ガスコンロに丸く並んだ火が灯るところを想像したら、何だか身体がそわそわした。黒い台座に、魔法のように火がつくところを。車の窓を開けて風を入れると、叫び出したいような気分だった。
 一眼レフカメラや、薄型テレビや、最新ゲーム機を買ったときと同じくらいわくわくしていたのだ。僕はアクセルを強く踏んでハンドルを切り、道沿いの大きな輸入スーパーに入る。冷蔵庫の中に、車ごと入って行くみたいだ。

 ミルク瓶みたいに巨大なボトルに入ったマヨネーズと、ドゥルイの瓶詰めマスタード、そして黄色い缶に入ったオイル・サーディンを買って帰った。あと、ハイネケンをケースで。
 気の利いた紙袋とガスコンロを抱えてアパートに入ると、玄関でメンサが待っていた。メンサは僕がこんな早い時間に帰って来たことに驚いたのと嬉しいのとで気が狂ったみたいになっていた。僕のシャツの背中に無理矢理爪を立てて上る。

 ガスコンロの設置は驚くほど簡単だった。カチ、カチ、とたった二回音がしただけ。ホースを根元まで取り付け、口をひねる。
 レバーを回すと、当たり前みたいに火が灯った。礼儀正しく並んだ火は、僕を称える儀式を執り行っているみたいだった。うやうやしさを感じた。肩に乗っているメンサが、目を丸く見開いて火を見つめていた。
「初めて見るよね」
 火は我々の進化の象徴だ。こうして自在に操れるまでに、どれほど我々が苦労してきたか。メンサの丸い目は、人間に対する畏敬の念を表している。

 今日は都心で議員選挙をやっているはずだった。ラジオを点けたら気が削がれるだろうか、と思いながらいちかばちか点けてみると、電波は音楽を乗せてやってきた。ビル・エヴァンスのOrbit (Unless It's you)だ。
 この辺りから、うすうす少々出来すぎの気があることを感じていた。これからオイル・サーディンの缶詰に簡単な工程を加えるにあたって、これ以上ぴったりの曲があるとは思えない。曲は翻るように転調した。

 オイル・サーディンの缶のふたを半分まで開けてコンロに載せ、火を点けた。弱火にする。火の一つ一つが行灯そのものに見えるくらい弱くて小さな火にする。缶が温まるまでに、マヨネーズとマスタードを混ぜてレモンを絞るだけの簡単なソースを作る。
 ふつふつと缶の中が煮立ってきたところで火を止めて缶のふたを剥がした。皿に出すかどうか少し悩んだ後、缶に直接ソースを乗せた。缶詰が、しう、と息を吐いた。

 缶ビールはよく冷えていた。スーパーの業務用の冷蔵庫の底で、何万年も前から氷付けになっていたみたいだ。プルタブを開け、はやる気持ちを抑えながらフォークを手に持った。空は夕暮れ色になっていた。うろこ状の雲が、巨大な手のひらの指先で撫でられたみたいに長い筋になって緩やかな筋になっている。
 ビールを流し込むと、自分の喉が音を立てた。「旨そうな音だな」という思いと、「ビールがたまらなく旨い」という実感が同時にやってきて妙な気分だった。
 フォークの先で身を軽くほぐしながら、ソースを和えた。レモンの香りがする。口に運ぶと、勝利の味がした。勝利。やったぞ!我々は何もかもを手にした!
 多少味が濃い気はしたが、ビールを飲むつまみとしてはこれくらいが適当だろうと思った。マヨネーズを、海外の少し甘めのものにしたのは正解だった。レモンの酸味とこれ以上ないくらい良く合った。
 僕はまた缶ビールに口付けし、思い切り喉を鳴らした。炭酸に喉がはじけ飛ぶ。

 完璧すぎた。

 当然だが、完璧すぎて怖くなった。
 こう完璧すぎると、反対にこれ以外全てが間違っているのではないかと不安になった。群青色になりかけている空に薄くかかっているうろこ雲が、突然遠くからやってくる不吉なサインのように思えてきた。
 心配になって新聞受けを見てみたら、電気やガスのクラクラするような支払い明細と、行ったこともないような家具屋やピザ店のダイレクト・メールで溢れかえっていた。
 もちろん新聞の天気予報は、明日が小雨を伴う曇りであることを知らせている。
 ずっとごろごろと喉を鳴らして足元に擦り寄っていたメンサも、いつの間にか部屋の隅で、冷たい目であらぬ方を見つめていた。

 こういう書割で作られているみたいな世界で、本当の幸せについて考えることは野暮だろうか?
 僕はそれでもオイル・サーディンのマヨネーズ・ソース和えを食べ、ビールをすすった。その二つは、秋の空のように変わりやすい心でも味を損なってはいなかった。しかしそうして、僕の中に立ち込める暗い雲に一切左右されない味というのも、何だか妙な感じがした。
 オイル・サーディンの中身は減り、缶ビールは軽くなっていった。手のひらから砂がこぼれてしまうように儚いこの幸せは、即物的で愚かなものだろうか?もっともっと恒常的に、自分にしか感じられないような幸せを、僕は必死になって探すべきなのかもしれない。

 自分があくせくと家を出る準備をしている、明日の朝の光景を思い浮かべた。

 僕は急いでトーストを焼き、その隙に髭を剃り、トーストに齧りついた。味わっている暇なんてなかった。何も塗らず、僕はそれを胃に収め、冷めたコーヒーをがぶ飲みする。飛びついてくるメンサを振り払いながらスーツに着替える。ドアに打ち付けた足の指がじんじんするが、いちいち構っている暇はなかった。
 そういう僕を、カウチに腰掛けて缶ビールを飲む僕が見ていた。
「そう焦るなよ」
 そう言いながら僕は、コンロの上にオイル・サーディンの缶をのせ、火をつけるのだ。

 僕はそういう悠長な自分を見て、何も言わずにいられるだろうか?
「幸せというのは、そういう即物的なものじゃないんだ」と水を差すようなことを言い渡せるだろうか。

「僕は」
 メンサが部屋の隅で僕を見つめていた。いつも初めて見るものを見るみたいな、丸い目をしたメンサが好きだった。メンサは突然走り出して、僕に飛びついた。腕を開いてメンサを受け止める。ビールの缶が、メンサの後ろ足にひっかかるところがスローモーションになって見えた。
「幸せになるためにこうしている」

 耳元でそう言う声が聞こえて、ぱちんと音が聞こえた。
 同時に、音楽が聞こえた。
 それは僕にはファンファーレみたいな音に聞こえる。音楽は余韻を残して消えてしまった。頭の中に、書割みたいに美しい空が焼きついているだけだった。

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