テキストヘッダ

あとをつけて殺してほしいの

※縦書きリンクはこちら https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURWFJrOXZZZWhDRzA

 僕は街を浪費している。
 昼前に目覚めると、頭の中に呪いみたいにそのことばが張り付いていた。理由はわからない。確かにその可能性はあるのだろうけど、何故僕だけがそんな風に思わなければいけないのだろう。
 久しぶりにカーテンを開けると隣のホテルの壁だった。いつも通りだ。煤けた臙脂色。たまには変えてくれれば良いのにと思う。壁は僕の考えていることを逆手に取るみたいに、砂嵐のようにうねる。
 やっぱり結局壁は同じ色をしたままだ。

 その日は中央線と山手線を乗り継いでシブヤまで出かけなければいけない用事があった。服を着替えていると、頭の中で自分の家から目的地まで行く道のりが勝手にシミュレーションされてうんざりした気持ちになった。体験は文字通り体だけで十分なのだ。頭の中でまで感じたくない。それでもイメージはなだれ込んでくる。鳩の糞だらけの駅前。どこかに向かう人々の群れ。鉄骨だらけの作りかけの街並み。90年代のコンピューターゲームみたいなテクスチャだ。中央線のホームの電光掲示板を全部ファック・ユーに変えた後でそのビジョンを断ち切ったら、幾分すっきりした気持ちになった。
 約束の時間は夕方だ。でもせっかくだから早めにシブヤに向かっている。こうして、僕は、何かする日の僕にはとことん何かさせる。何もしない日の僕を自己嫌悪に陥らせないために。本当はずっと家で映画のストリーミング放送でも見ていたい気分だったけど、約束があるから仕方ない。
 シブヤでやっているニューヨークの写真家の展示を見に行くという目的を強く念じて、僕も行き交うゾンビのような人々の群れの一人になる。シブヤの電光掲示板はファック・ユーになっていない。でも手の届かないところから僕たちを見下ろしてニヤニヤ笑っている。睨みつけていると「電車が参りますご注意ください」に表示が変わる。人はあれを見て飛び込むタイミングを測るのだ。電車が通り過ぎると、人を巻き込むような風が吹く。

 展示会場は人がごった返していてとてもじゃないけど長居出来なかった。その日はじんわり嫌な雨が降っていた。空からだけではなく地面からも染み出しているんじゃないかと思えてくるやつだ。いちばん見たいと思っていた雨の日のニューヨークを透明の傘を透かして捉えている写真は確かに美しかったけど、シブヤに降る雨はただ不快感しかなかった。NYの雨はとろりとしたシロップの味がしそうでうらやましい。しかもシャーベットみたいにイチゴとかレモンとか色んな味があるのだ。
 展示を見終わって外に出ると世界がほんの少し美しく見えるようになっていた!とかそんなことはまったくなかった。湿っぽい梅雨の空気を頬に感じるだけだ。それでも二千円そこらの入場料でニューヨークのどこか夢みたいな美しさだけを受容できたのだから良いとしよう。
 展示会場を出たところで、バスが水溜りのところで水を撥ねないようにゆっくり走っていった後、水溜りが「ちっ」と舌打ちして水面に波が立つのを見た。
 僕もこういう街の風景をたくさん撮ろうかなと思う。そうすれば別の街の形が見えるんじゃないかな、と。でも常にカメラを首にぶら下げて歩くのがすごく馬鹿みたいに思えてやめるのだ。

 少し歩いて、よくネットで名前を見る老舗カレー屋までわざわざ向かった。いつかそこに行かなければいけないという気がしていたから。
 ドウゲンザカのアスファルトの丸い文様が苦手だ。〇 〇 〇 〇 〇…。幾何学的に延々と並んでいると、それが浮き上がって見えて僕は吐き気を催す。一個ずつが何か僕に語りかけてきたり弱い力で足に絡み付いてきたりする。足早に坂道を上って、カレー屋に入る。昼下がりなので案外すぐに入れて安心する。
 店内には煙草の煙が充満していた。喫茶店でも煙草を吸えるところが少なくなっているので、これは珍しいと僕もキャメルに火をつけた。カバンの底で箱ごとしわくちゃになって潰れていたやつだ。ふと隣の席を見やると、中年男性が煙草の先に妙な機械をつけて吸っていた。おそらく煙が出ないようにするものだろう。紫色で流線型のそれは、煙が出ているよりもよっぽどいかがわしい。
「まったくやってらんないよな」とその機械が男に向かって言う。「早すぎるんだよなあ」
 機械から出たことばは、煙草の細い筒の中を通って中年の頭の脳に向かって行った。喉のところで煙とことばに分かれるのだ。
「絶対間に合わないんだよなあ。間に合わなかったらゼロになるんだよ。何もやっていなかったのと同じさ。それなら最初からやらないほうがマシだよな」
 男は光のない目でそのことばを飲み込んでいた。何か締切があって、それが早すぎることを嘆いているのだろうということは想像できた。男が煙草を口から離すと、機械は黙り込んだ。咥えていたフィルタのところがべちゃべちゃに濡れていて、僕は思わず目を逸らした。
 薄く曇る窓ガラスの外を、傘を刺した女が過ぎていく。派手な格好をした女だ。この辺で働く風俗嬢だろう。風俗嬢でも傘をさす、ということばを頭の中に浮かべた後、軽い自己嫌悪に陥る。そんなの当たり前のことじゃないか。僕はもっとちゃんと、行き交う人々の人生を想像しないといけない。想像しないといけないはずのだ。
 運ばれてきたカレーは妙な形に盛られていた。三角錐。つまりピラミッド型だ。その足元に黒いカレーが注がれている。僕はそれをスプーンで切り崩しながら口に運んでいった。スパイスが効いていて辛い。舌が麻痺する。
 どこか魔術めいた食事だ。
 中年は、煙草をテーブルの上に置きっぱなしにして席を立ち、トイレへ向かった。不時着した宇宙船みたいな流線型のそれは、火すらついていないように見えた。あんなもの吸って、何が楽しいのだろうか。
「なあ」と、機械が煙草越しに話しかけてくる。男の唾液に濡れたフィルタ越しの声はくぐもっている。
「待てよ。目を逸らさず聞いてくれよ。もうアイツうんざりなんだよな。俺が言わないと何もしやがらない。もっと主体性みたいなのが欲しいんだよな。これだからニコチン中毒のやつはイヤなんだよ。主体性と受動性がもう完全に曖昧になってるんだ」
「でも僕だって主体性があるかどうかなんてわかりませんよ」
 機械はヒヒヒヒと高い声で笑った。

 僕は金を払って喫茶店を出ると、小さな公園の生垣に向かって思い切り機械を放り投げた。主体性。機械は何か叫びながら飛んでいったけど、プラスチックが割れる安っぽい音がすると何も聞こえなくなった。 
 またドウゲンザカの坂道が足に絡みつく。コーヒーが飲みたくてコーヒー屋にスターバックスに寄ると、店の中の全員が同じ色の服を着ているのが見えたので入るのをやめた。コンビニでアイスコーヒーを買って口を洗い流すと、さっきの黒魔術みたいなカレーで熱く痺れた舌が冷えて、口から煙が立ち上った。狼煙のように長く、それはシブヤの空に伸びていく。

 僕は街を浪費しているだろうか?
 目的地を携帯電話に向かって呟くと、立ち上っていった僕の煙が見下ろすシブヤの街並みが画面に映った。ただの点になった自分が路地を辿っていく。温くてどろりとした赤い液体が画面の中の路地に沿って流れていく。何かに対して苛立ちながら道を歩いていくと、ナイフとフォークで示されたファミリーレストランや、ポストマークの郵便局がその波に飲まれて消えていった。免れられるのは、空を走っている高架上の線路と、その線路を走る電車に乗っている乗客だけだ。
 僕だって出来ることなら正しく街と付き合いたい。だけどそうするにはどうするべきなのかがわからない。街ってもっと懐が深いものではなかったろうか?こちらに何か態度みたいなものを求めてくるものだったろうか?

 高架下には浮浪者のテントが軒を連ねている。彼らは街を浪費しているだろうか?浮浪者がそこに座っていたとわかる濡れてくぼんだマットだけが落ちている。彼らは街に臭いで痕跡を残す。脱臭された僕は街に何か残しているだろうか?それも僕が通った後どろどろに飲み込まれて消えていく。
 地図に従ってまた細い路地に入る。積まれたダンボールで塞がれている、雑居ビルの二階の窓に貼られた「空室アリ」の看板が支離滅裂なことばを叫んでいた。
「聞こえない聞こえない!聞こえないから聞いているフリするしかない!でも聞いているフリで成立する!ここにいるよ!聞こえてるよ!ちゃんと成立してるよ!」
 僕は看板の叫びを耳で聞きながら無視する。成立しているだろうか。彼らは街を浪費していないだろうか。
 雑居ビルの半地下には薄暗いカフェがある。そこが待ち合わせ場所だ。

「あとをつけて殺してほしいんです」とだけ青白い女は言う。
 何のためになのか、僕は知る必要がないし知りたくもない。でも普通は写真を見せられたり、ターゲットがいる可能性が高い場所を教えてもらったりするものなのだけど、彼女はそれしか言わない。
「つまり、あなたのことを?」
「ええ」
 それだけ言って彼女は少しずつ糸がほつれていくみたいにして消える。最後にだけばつんと音がする。
「お待たせいたしました」
 それからようやく飲み物が運ばれてくる。トマトジュースだ。
「こんなもん頼んでませんよ」
 トマトジュースもまたばつんと音を立ててほつれて消える。


 地下から地上に出て、雑居ビルを見上げる。「空室アリ」はもう完全に瞼を閉じて沈黙している。誰かあの部屋を片付けてやればいいのに。
 さっき自分の口から出た煙がちょうどいい感じに立ち上っていて、僕は女の背中を簡単に追うことが出来る。さっき僕が来た道を、ほつれた糸の女が風に乗るようなスピードで流されていく。
 煙も糸も僕がさっき街に流した赤い液体も、流動体のくせに道に沿ってしか流れていかない。ただ、糸は首都高の下に潜り込んでしまって、高く登った煙は後を追えなくなってしまった。あとは僕の目で糸の女を探すしかない。
 変電所のビルの陰に女は倒れていた。背中にばっくり大きな傷跡が開いていて、青白い糸がトマトジュースみたいに染まっている。そのトマトジュースみたいな血は、僕には感じ取れない緩やかな傾斜に沿ってまた下を目指して流れていった。
 僕は誰にも見られないようにしてビルの陰に出て、その流れとは逆の方向に向かって歩き出す。
 僕は街を浪費しているだろうか?ようやく入れたスターバックスで列に並びながらそう思う。次はホットコーヒーにする。もう口に含んでも、煙は立ち上らない。さっきの煙はもう高く上がりすぎてどこかに消えてしまった。

 家に帰ると、カーテンが開けっ放しになっていて、月の青い光がホテルの壁を照らしている。それは月の砂漠に吹く砂嵐を上から見下ろしているみたいに見える。僕はその風景に向かって手を伸ばし、今日使わなかったナイフを刺す。
 ホテルとうちのアパートの隙間から夜の街を見下ろした。それはシャーベットのような細かい粒子になって光っている。


※こちらの短編は、Yukiga Futte Uresiiさんの楽曲から着想を得ています。
「後をつけて殺してほしいの」
http://ol-oil.tumblr.com/post/137870799900/ol191-%E5%BE%8C%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%A6%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE-download-flac-click


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