テキストヘッダ

Picky Eater

 旅の長さに比例して、それだけ多くの料理屋、レストランに一見さんで入ってきたことになる。しかしそれに比例して色んなものを食べてきたことになるかというとそうではない。

 旅の理由は、時間が余りに余っていたからとか一箇所に留まっているのが嫌だったからとか色々ある。もちろん、見聞を広めたいというのもあるにはあった。しかし、どうも口に入れるものだけは、それまで食べたことがあるものや、食べる前からある程度味の想像がつくものしか選べなかった。虫なんていうのは以てのほかで、あとは米なんかも細長かったりべちゃべちゃしているものは苦手だった。既に食べ慣れているものが思っているのと違う味だと、舌が戸惑うのだ。
 魚や肉の類は、基本的にどこの国も同じようなものだ。肉はそれほど種類がないし、魚は見たことのない鱗のものが時々あったが、味自体はそれほど変わらない。
 危ないのは得体の知れない木の実とか何だかどろっとしたソースとかだ。全く予想もしない味がすることがある。
 ソースだってそんなに種類はない。チリ・ソースかケチャップ・ソース、次点でグレイヴィ・ソースやクリーム・ソース-----デミは時々何故かやたら甘いのがあるから要注意だ-----などを選んでおけば問題ない。問題は、ソースは勝手にかけられて出てくることが多いということだ。時々口に合わないものがあると、俺はそれを魂が拒否しているような気すらして残してしまうのだった。

 そうやって、料理に関しては一切チャレンジできないことに、俺はコンプレックスに感じていた。「身体が食べているもので出来上がっているのなら、俺の身体そのものは旅に出る前とそれほど違わないのだ」という考えが、心のどこかにいつもあった。
 それは心持が明るいときは「俺には変わらない芯があるぜ」となったし、暗いときは「結局俺は何も変わらないんだ」となった。配分としては3:7くらいで、「旅に出ようが俺はそれほど変わらない」「というか俺は旅というものに効能を期待しすぎていたのだ」と、どこで食べても同じ味のハンバーガーやポテトなどを口に運んでいると、いつもどこか後ろめたい気持ちになった。

 故郷に帰って旅の感想を聞かれたら、調子の良い俺のことだから、「やっぱ旅は最高だよ」みたいなことを言うに決まっている。最悪だ。ナポリを見ようがオーロラを見ようが貧困地域の無垢な眼をした子どもたちと触れ合おうが、結局は故郷とほとんど味の変わらない鶏肉やトマトで出来た身体のくせに。きっと脳みそまでどこにでもあるスポンジケーキで出来ているのだろう。そう思うと故郷に帰るのが怖くなって、俺はダラダラと旅を続けるほかないのだった。


 今はドコドコと荒野を車で旅していた。初のアメリカ大陸上陸だった。
 最初は映画を観ているみたいで心が浮き立った風景も、一日二日と過ぎる内にただただ単調で退屈に見えるようになった。剥き出しになった地層なんかも、そこに骸骨が埋まっているのが見えたり、その影に宝箱が隠してあったりするのならまだしも、それ以外何もない地平にぽつんと立って、俺を待ち構えているだけなのがうっとおしく感じた。横を通り過ぎる瞬間も「ああー地層だー」としか思わないのだ。電柱から電柱へ渡っていく地方都市の市民マラソンと変わらない。大声で故郷の歌を歌ったり、目をつむって心の目で運転をしたり、そういう自分との戦いで時間をやり過ごす他なかった。

 もう二日くらい食べていなかったろうか。昨日の夕方見かけたモーテル兼ダイナーは、駐車場にはガラの悪い若者がたむろしていたので即Uターンだった。その時には、どうせまたすぐ見つかるだろう、くらいに思っていたのだ。
 やはりアメリカ大陸はスケールが違う。しばらく荒野、荒野、荒野で、眠気と空腹で同じところをぐるぐる回っているのかと錯覚するくらいだった。本当は車は走ってなんかいなくて、ロール紙に印刷された背景の方が延々とぐるぐる回っているだけなのだ。大陸を舐めてかかった俺を、誰かがあざ笑うために。

 俺は故郷が懐かしくなった。スピードを上げて、それを振り払う。

 何マイルくらい走っただろう。俺はお得意のネガティブ思考が極まって、このまま岩棚の傍で死ぬのも悪くないなと思い始めていた。アジア人の骸骨がボロボロのデボネアの中で見つかりました、と地元のニュースが報じているところまで想像した。
 するとそこに、久しく見ていなかった人工的な建物が見えた。夢かもしれないと思い、クラクションをバフバフ鳴らして俺は自分を覚醒させたが、建物の壁はちゃんとそこにあるままだった。
 しかし俺はあまり喜べない。二日食べないくらいで死なないだろうと気づいている自分に気づいてしまったからだった。つまり、まだ余裕があったのだ。生きる力がまだ残っているくせに、骸骨になっている自分の姿を思い浮かべていた自分があさましいと思った。生きながらにして、死をも得ようとしているのだ、俺は。

 ところが、たどり着いてみたら、それは焼け落ちて瓦礫だらけになったダイナーだった。
 辛うじて残っているテントシートには、赤い文字でEduardo's Steak Houseとある。まだ辺りには何かが焦げたり溶けたりした臭いが混ざり合って充満している。地鳴りかモーターのような音が、終末感を醸し出していた。
 これはつい最近何かヤバイことがあったに違いない。この分では誰か死んでいるかもしれない。誰もいないのは確かだろう。と思いながら振り返ると、そこに白髪の男がでかい火箸を持って立っていて息を飲んだ。
 男は黒ずんだEduardo's Stake Houseのロゴ入りエプロンをしている。
「カイヨーテに、火をつけられたんだ」
「カイヨーテ?」
「カイヨーテだよ」
 男は宙に、指でC、O、Y、O、T、Eと書いた。
 男はしゃがみこんだ。瓦礫の山を眺めながら言う。夜中にパチパチ音がするもんでさ。しかもやたら明るいでやんの。UFOでも来たのかな、と思ったらUFOなんかよりもびっくりだよ。コヨーテが口に火の点いた木の棒を咥えて、俺の店にゆっくり火を点けていったんだ。顔に向かって、熱くて乾いた風が吹いた。それから火が怖くて。
「ステーキ屋が火が怖いだなんて。商売上がったりさ。でも観ちゃったんだ。保管庫が燃えて、でかい肉の塊たちがみんな黒こげになって縮んでいくのを。いつも肉焼いてんのに怖くなっちゃって。肉って焼くとぐんぐん縮むんだよ。二分の一以下さ。俺もあの火に焼かれてたら二分の一以下に縮んで死んでた。焼けるのは慣れてるけど、縮むのは嫌だと思った。恐ろしいよ」
 微かに肉が焼ける臭いが鼻先をかすめて、俺の胃が悲鳴を上げてしまう。
「腹減ってんのか」
「減ってますね」
「それなら何か食っていけよ」と男は言った。

 エドゥアルドが言うには、コヨーテは神さまに近い存在らしい。太古の昔、人間に火の使い方を教えたのもコヨーテだという。ただし奴らには狡いところがあって、かつてから人間を利用してやろうと虎視眈々と機をうかがっているそうだ。
「奴らは俺から火を奪ったんだ。肉を焼きすぎた罰だろう。仲間に聞いたことがある。ハイウェイ沿いのダイナーやガソリンスタンドが金を儲けすぎると、調子に乗った奴を諌めるためにカイヨーテたちが火をつけるんだ」
 なんて社会主義的なコヨーテたちだろう。

 俺はとりあえずコカ・コーラを注文した。瓶の、キンキンに冷えたやつだ。それはいつも通りのコーラに違いなかったが、甘みと炭酸の刺激が頭蓋骨を突き破って俺は白目を剥いた。コーラを飲みながら星を見上げた。エドゥアルドのダイナーはもう天井がない。辛うじて残った壁に囲まれた空には満点の星が浮かんでいて、俺の頭を突き破った炭酸の泡が瞬いているみたいに見えた。
 エドゥアルドが出してくれたのはピクルスだった。緑色の球体が、マクドナルドのハンバーガーにスライスされて入っているやつだということは目視でわかったが、あとの数種類は得体が知れない野菜だった。細かい突起が無数に生えているもの、トマトにそっくりだが完全に色が青いもの、カリフラワー。カリフラワーは知っているが、見た目が気持ち悪いので食べたことがない。
 ピクルスはどれもホルマリンから出てきたエイリアンに見えた。せっかく捕らえたエイリアンを外に出してしまってどうする。思い切って緑色の球体を口に放り込んでみたら、酸っぱさの間隙を縫って薬草のような香りがした。ダメだ。苗床をそのまま食べているみたいに生々しい。俺はコリコリコリと三回だけ噛んで飲み込んだ。
「火のことを考えるだけで手が震えるんだ」と、エドゥアルドは言った。

「火は、俺たちの魂が住まう場所を焼いて削る。肉体は器だ。その器を縮めて、魂の形を変えてしまうってわけだ。原型を留めないくらいに。天井からぶら下げた肉塊が炎に包まれているのが、自分に見えちまったんだ。付きすぎた脂肪を焼き尽くした後、じわじわと魂の器を削っていくのがわかった。あんな風に焼け死んだら、次は下等な生物にしか生まれ変われない」
 エドゥアルドは話相手を求めていたのだろうか。自分は何も口にしたりせず、得体の知れないアジア人である俺に滔々と語った。この国に住む人間の死生観はみんなこうなのだろうか。
 俺は俺が食べたもので作られた脂肪で俺自身が焼かれていくところを想像した。旅を続けてきたせいで、俺はガリガリに痩せている。あっという間に骨だけになって、バイ菌かアメーバ辺りにしか生まれ変われないくらい縮まるのだろう。
「食わないのか」
 エドゥアルドは、俺を見た。これは「いえ結構です」と言って立ち去れる状況ではない。俺は観念した。にやにや笑いながら「いただきますよぉ」と言って、丸呑みしやすそうな青色トマトを口に放り込んだ。すぐにコーラで流し込む。
「すまんな、そんなものしか出せなくて」
 エドゥアルドは心底申し訳なさそうに言った。
「三十年近くここで肉を焼いていた。この辺は何もないだろ?ここを通る人間は必ず俺のダイナーに寄るんだ。ジョージ・クルーニーが来たこともある。この次のモーテルかダイナーまでは、また一晩丸々運転しなきゃなんない。だからここでたらふく食べさせるんだ。もうゲロ吐いてぶっ倒れそうだってくらい食べないと、また明日の今頃後悔することになるぜって脅すんだよ」
 エドゥアルドは、人を丸々太らせることを生きがいにしていたようだ。そういう類の人間は似通った眼をしている。
 俺はカリフラワーを口に放り込んでまたコーラで流し込んだ。酸っぱさで眼がちかちかする。カリフラワーは俺が思っているよりも柔らかくて気味が悪かった。こいつの胞子に、脳みそを乗っ取られてしまうかもしれない。
「本当はお前にも俺が焼いた肉を食べさせたかったよ」
 エドゥアルドは心底残念そうに言う。
 俺は最後のピクルスに取り掛かる。大量の蜂に刺された顔にしか見えないそれは、独特のぬめりを放っていた。もう丸呑みされないためにこういう形に進化したとしか思えなかった。
 俺は息を吸い込んで飲み込む準備を整える。手に持ってみると、それはカチカチに硬かった。食えるのだろうか、こんなもの。
 思い切って口の中に入れたその瞬間に、エドゥアルドは俺のコーラのビンを奪って飲んだ。俺はパニックになる。口の中で、薬草の臭いがほとばしった。俺の魂が、これを身体に受け入れることを全力で拒否していた。鼓動が早くなり、全身に鳥肌が立つ。
 エドゥアルドが何か言った。何とかシード。何かの種らしい。ちょっと癖あるだろう、と言う声が聞こえたが癖なんてものではない。飲み込もうとしたら、案の定それは喉にひっかかった。息が吸えなくなり、俺は余計パニックに陥る。気を失う瞬間、空に浮かんだ星の光、ひとつひとつが大きくなっていくのがわかった。

 眼を開けると、エドゥアルドが俺を見下ろしていた。
「大丈夫か」
 濁っていた視界が段々はっきりしていく。
「何もそんなに急いで食べなくても」
 エドゥアルドは、屈託のない笑顔で笑った。わずかに腋臭が香った。

 俺はまたデボネアに乗り込んで、次のダイナーを目指した。エドゥアルドも、警察が来た後はハイウェイの先にある街に一度戻るらしい。俺からお金を取らず、「次のダイナーでは良いもん食えよ」と言って何本かチョコ・バーをくれた。それがあるなら先に言って欲しかった。

 俺は俺の中にあるあの種を思い浮かべた。種を咀嚼したのかどうかも定かではないのだが、とにかくあれは俺の中にある。
 あの種が良き物か悪き物なのかはとりあえず置いておいて、あの種によって俺の身体の組成は変わるのだと思う。胃の中には、種以外には三回かんだだけの緑の根菜と、青いトマトと、カリフラワーだけだ。あの種は俺の身体に根を張るほかないわけだ。そうしたら、骨に届くくらい根を張って、俺を変えることもあるのかもしれない。魂の器の中に、俺は硬い種の植物を飼っているのだ。

 俺は故郷が懐かしくなった。そろそろ帰っても良いかもな、とまっすぐなハイウェイを運転しながら思った。

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