テキストヘッダ

失踪ポイント

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURVHo1MUV4RUY5VkU


 カンダはいつも飛行機を降りて地面から機体を見上げた時、こんなペラペラの模型みたいな物が飛ぶのはどうかしているという気がする。直前までこの鉄の塊に乗って雲の上を飛んでいたと思うと、ぞっとするというより本当に何か騙されているんじゃないかという気持ちになる。空を飛んでいるというのは嘘で、実は異次元を介して別の場所にワープしているのだ!と言われた方が、カンダにとっては信じられそうな気さえする。

 日本は雨が降っていた。
 
 ああ、リムジンバス、ちょうど行っちゃいましたね。
 
 ハママツが指差した方向から、雨に濡れたヘッドランプを光らせたバスが来る。

 どうせなんで、もうターミナル飯にしません?

 カンダは少し動揺しつつ答える。

 家にある野菜がダメになっちゃうから。ごめんね。

 ハママツは笑いながら、カンダさんってほんとに生まじめっていうか。生活力ありますよね、と言う。ふつう海外出張前に野菜なんて買わないでしょ。

 ちゃんと計算して買うの。腐りかけが一番美味しいんだよ。

 カンダはごめんねハママツくんと謝りながら、せめてものお詫びとばかりにコンビニで飲み物を買うときにお金を出す。いいのいいのと言いながら、こんな缶コーヒー一本おごってフォローしてるつもりになってるのも、生まじめと言われる所以のひとつなのだろうなと思う。
 出張先のホテルでのことが、カンダの頭の中にフラッシュバックする。
 
 カンダさんって、こういう時もまじめな返ししかできないんですか?

 やっぱり、なんか食べて帰ろうか。
 いいですよ、無理しなくて。

 低い耳鳴りのような音がカンダには聞こえる。雨に濡れながら、飛行機が曇り空に向かって飛んで行くのが頭の中に浮かぶ。

 何を作るんですか?

 カンダの頭の中は、すぐに冷蔵庫の中の風景に切り替わる。

 うーん、トマトと玉ねぎとピーマンとズッキーニがあるから、ラタトゥイユかな。

 ラタトュイユってなんですか、それ。というかすごいですね、冷蔵庫の中身、ほんとにちゃんと覚えてるんですね。最初、冗談かと思いました。きっとそういうのが、カンダさんが仕事できる所以なんだろうな。
 いただきます、と言いながらハママツがコーヒーのプルタブを上げた。

 疲れましたね。
 疲れたね。

 ロビーのソファで二人は黙り込む。若い二人組のアジア人女性観光客。作業服を着た金髪の男たち。いずれも疲れた顔で黙っている。寒色のスペースは病院の待合室のようでもある。

 疲れた、か。

 ハママツが手に持っているコーヒーの缶には、ピンク色のシールが貼られていた。
「飲んで集めてハワイ旅行が当たる!詳しくは特設サイトで」
 カンダの目は、ハママツの細長い指の間から覗く1Pと書かれたシールの辺りを見ている。その指が自分の首筋や背中を伝うところが、頭の中に浮かぶ。

 欲しかったら、あげますよ。

 ハママツはカンダの手――親指と人差し指を繋ぐ柔らかい腱のところ――に、そのピンク色のシールを貼り付ける。

 ハワイ旅行に行けますよ。

 バスは細長い糸をたどるようにして、海を渡っていく。中心に向かうに連れて糸は寄り集まり、絡まり合いながら街を織り成す。
 糸の一番端で二人は別れる。カンダはため息を吐き、スーツケースを引きずりながら家路をたどる。ハママツと別れると、何故か急に急に電車の窓から見える雨に濡れた街並みが美しく見える。
 カンダが家に帰って冷蔵庫を開けると、そこにはさっきカンダが思い浮かべた通りの風景が広がっている。


 カンダ、これ集めてんの?

 エダノがハムの挟まったパンを食べながら、カンダのスマートフォンを指差す。

 ああ。
 何が当たるの?
 ハワイ旅行だって。
 カンダ、旅行とか行くの?
 行くよ。行きますよ。こないだも海外出張だったし。
 いや、それ旅行じゃないじゃん。
 旅行みたいなもんじゃん。
 バカだねえ。

  エダノみたいな子が自分と付き合ってくれる理由が、カンダにはよくわからない。
 カンダのいる部署には、エダノと雰囲気も近い女の子が他にも数人いるし、自分とエダノでは趣味も嗜好も全く違うからだ。
 それなのに、エダノはいつも通勤途中でどこかでご飯を買ってきて、こうしてカンダを昼食に誘う。
 このパン美味しい、この惣菜美味しい、このお弁当屋さんはカフェもやっててお店で食べるランチも美味しい、とエダノはいちいち教えるが、カンダはどれも行ったことがない。手製の弁当があるからだ。前夜の残り物を詰めただけでも、みんながまめだねえとカンダを褒める。

 ハワイか、いいなあ。わたし大学の卒業旅行ハワイだったんだよね。ほんと天国みたいだったな、カウアイ島。わたし晴れ女だから、一週間全部晴れだったんだよ。そう言いながら、 エダノは何かを思い出すように遠くを見つめる。今年の正月休みは一人でどっか行っちゃうかな。
 カンダはゆっくりと筍の煮物を飲み込む。

 晴れ女とか、ほんとにあるんだ。

 二人がいるビルの外は、雨が降っている。鳩よけの赤い三角印が、雨の降る方向を指している。エダノが言っているのは、あくまで「ここぞというとき」の話で、今日みたいななんでもない日のことまでは知らないのだ。

 なんか気候が違うと、ほんとに目に見える風景もちょっと違うんだよね。ハワイは全てが原色って感じだったな。目にかかってるフィルタが違うっていうか。あれって気圧とか湿度の違いでああなるのかな?

 そうなんだ。それって記憶が良い方に改竄されてんじゃないの?

 エダノが相手の場合、こちらも適当な相槌を打っても許されるのが楽だ。話しを聞いていないから、とカンダは思う。

 あ、ていうか!とエダノが大声を出す。
 これじゃん!

 エダノの持っていた黒い缶には、カンダのスマートフォンの背中に貼られているピンク色のシールと同じシールが貼られている。
 エダノはほら、と言いながら淡いピンク色の爪でそれを剥がし、カンダのスマートフォンに貼り付けた。はい。カンダのハワイ行き、お手伝いしますよ。

 はい、ありがとう。

 カンダの貼ったシールは端が縒れている。貼られた二枚のポイントを眺めながら、エダノは言う。

 こういうのあったよね。小学生のとき。マラソンカード。国名とか国旗とか書いあって、やる気出るやつ。

 あったね。カンダはそう言いながら、ハママツの貼った方のシールを見ている。彼はどうやって、こんな風にどこも傷つけずにシールを剥がしたんだろう。

 今考えるとああいうの良いよね。やったらやっただけちゃんと結果が出て評価してもらえるみたいな。ね。ああ、ああいうの良かったなあ。カンダはああいうの得意そうだよね。
 そうかな。
 ハワイ、すぐ行けちゃうんじゃない?
 でもわたし、缶コーヒー飲まないからな。
 そのタンブラー、何入ってるの?
 ほうじ茶。

 あははは、とエダノは心底面白そうに笑った。ほうじ茶って。
 お手伝いしますから。大丈夫ですよ。エダノはそう言いながらあっという間にパンを食べてしまう。カンダの弁当箱の中には、まだご飯もおかずも漬物も半分くらいずつ残っている。
 エダノはカンダがラタトュイユの残りをゆっくりと咀嚼するのを見つめている。

 カンダって、顎小さいよね。
 顎?
 顎小さいの、羨ましいんだよね。わたしいかついから。頭小さいからでかい眼鏡かけてても綺麗なんだよ、カンダは。
 そんなの言われたことなかったな。

 顎を持つ指の感触を、カンダは思い出す。

 ほんとにカンダは身だしなみに気使わなすぎだよ。ほんとに。もうちょっと頑張りなよ。
 今更化粧頑張り出すのもな、と思うんだよね。
 何言ってんの。

 化粧なんて、コスプレみたいなもんだよ、とエダノは言う。自分はこういう感じ、って決められる唯一の手段じゃん。
 コスプレって。もう三〇手前なのに。というか、そういう自分を類型化するみたいなのが一番苦手なんだよねえと言って、カンダは苦笑いする。

 いや、この現代において化粧しないでいるのこそ、自己の類型化の最たるものじゃん。

 エダノは呆れたように言って缶コーヒーを飲み干す。

 はあ。
 まあ、カンダみたいな種類の人間が好きな男っているからね。無印良品のカタログに載ってそうな、無添加の食品ばっかり食べてる人。
 わたしはあんなレトルトのご飯食べないよ。
 なんで絶対ボーダー着てるんだろうね、無印のカタログの人たち。
 ボーダーは着ないよ、わたし。

 エダノは両手で顎をマッサージしながら笑った。あははは。


 確かにわたしは、とカンダは思う。
 確かにわたしは、マラソンが得意だった。というか陸上部だったし。長距離走やってたし。エダノが言っていたようなマラソンカード、わたしはあっという間にブラジルに行って帰ってきて、またブラジルに行って帰って来ていた。
 当時なんでブラジルなんだろう、あんまり綺麗そうじゃないし、もっと綺麗なところがいいな、と思いながらも、カンダはそのマラソンカードを埋めるために一生懸命走った。ああ、あれはブラジルが一番遠い場所だからか、とカンダは思い出しながら気づく。
 でも大学生になってカンダの自我がようやくはっきりしてくると、どうも競うのが嫌になって走ることを辞めてしまった。自分は、ただ淡々と走っているのが好きだったのだと気付いたのだ。
 ハワイまでは直線距離約六五〇〇キロ。今でも時速一〇キロくらいでは走れるはずだから、六五〇時間。一日六時間走ったとして、約百日と十日。往復すれば半年以上かかる。
 遠いな、とカンダは思う。ブラジルはもっと近かったのに。
 ハママツはどこか遠くに連れて行ってくれるだろうか。生まじめな自分を、別の世界に。
 カンダは考えを振り払うように目の前のエクセル関数を見つめ、今年から新しく売り始めた輸入食品の年度内売り上げ予測データを作成する。ちょっとこのままだと目標に届かなさそうだなと思いながら。
 出張から帰ってきて以来、ハママツはカンダに話しかけていない。


 そして、カンダの元にシールが集まり始める。

 エダノが余計なことを言ったのだろう、とカンダは思う。何が面白いのか、カンダさんこれ集めてるんだってね、と言ってみんながカンダのスマートフォンにシールを貼り付けていく。時々カンダが席を外している間にも、ピンク色のシールは勝手に増殖している。

 カンダさんは、ほんとうにこういうところまめだね。
 こういうので応募してもらったものが、いっぱい部屋にありそうだね。
 あ、そのミッフィーのお弁当箱も、もしかしてパンまつり的な?

 課長までもが、カンダさんこれほら、と言ってわざわざ普段と違う銘柄のコーヒーを買ってくる。
 ちょっと、課長まで。これ貯まってハワイ行けることになったら、休みくれるんですか?とカンダが苦笑いしながら言うと、課長は髭をさすりながらいいよ、と言う。

 カンダさん真面目だから。たまには長い休み取りなよ。

 そう言って、みんなと同じように端っこの縒れたシールを電話に貼って去っていく。

 行って良いんかい。じゃあ誰が年度内目標の再設定やるんですか。

 カンダはみんながくれたシールを綺麗に列に並べながらそう思う。カンダ自身も驚くほどの枚数のシールが、ここ数日の間に集まっている。そんな訳ないとわかっていても、みんながわたしをどこかにやりたがっているのだ、と思うのをカンダはやめることができない。


 カンダが家でぼんやりしながら残り物でできた煮物を食べていると、テレビのニュース番組が昨夜の渋谷の風景を映し出す。
「ハロウィンの仮装者で、今年も渋谷はお祭り騒ぎです」と、わざわざレインコートを着た男がスクランブルの前で中継している。
 マイクを向けられたピエロメイクの男は、雨風に打たれてメイクがぐちゃぐちゃになっている。アメコミ映画の悪役のようだ、ああ、というかあの悪役の仮装なのか、とカンダは思う。街を混沌に陥れる、狂った男。
 こんな日ならあの人だかりの中に爆弾を持ち込んで爆発させるのなんて簡単そうだなと、カンダは想像する。
 メイクなのか本当に眼球が飛び出してしまっているのかわからない人々の群れが、本当にちぎれた手足を携えて瓦礫まみれになった渋谷の前で死の行列を作る。ピエロマークであしらった犯行声明をテレビ局に送って、ピエロだらけの街を混乱に陥れるのだ。
 時々カンダは、生真面目と言われる自分の性格がよくわからなくなる。生まじめさ故に、こういう残酷なことを考えつくのだろうか。こういうことは誰しもにあることだとわかっていても、その混乱をどう扱っていいのかわからなくなるのだ。
「ハロウィンを日本でも盛り上げたいです!」と、ピエロ男は爽やかな笑顔で言う。グロテスクなメイクの裏に、その男の屈託のなさが透けて見えた。
 エダノが言っていた通り、化粧なんてコスプレの一種なのかもしれない。わたしが一生懸命メイクをせずでかい眼鏡をかけ、毎日弁当とほうじ茶を携えて仕事に行くのも、確かにコスプレなのかもしれない。カンダはそう思いながら、渋谷の熱狂を見つめる。それほど離れた場所じゃないはずなのに、カンダにはそれがものすごく遠い場所に感じる。
 カンダの知らないところで、渋谷では幾つかの傷害事件が起きていた。泥酔したゾンビとブルース・リーの喧嘩。スパイダーマンによるレイプ未遂。街は熱狂の渦を加速させ、その残り火のようなものを引きずりながら、今日もまだぎらぎらと光っている。
 酒臭くて熱い息を浴びたつい先日のことを思い出しながら、カンダは眠りにつく。その臭いが、思っているより全然嫌じゃなかったことを思いながら。


 ハママツが近くを通りがかって、どうしても無視できずに、カンダさんシールすごいたくさん集めましたね、と言って笑う。ハワイ行って、帰ってきて、もう一回行けるんじゃないですか?
 ハママツが今更話しかけてきたことに少し驚きながら、カンダはつとめて普通通りに返す。

 集めたわけじゃないよ。みんながくれるだけ。
 そういうのってカンダさんだからじゃないですか?カンダさんが真面目でちゃんとした人だからですよ。カンダさんなら、自分たちと違ってちゃんとシールを集めて、ハワイまで辿りついてくれるんだって思うからでしょ。

 なんかカンダさんらしいエピソードだな、とハママツは言う。
 カンダさんらしいとはどういうことだろう。

 ちゃんとしたって?しょうもないシールをちゃんと集めて、ちゃんと応募要項まで見て、シールを台紙に貼って応募しそうなしみったれた女だってこと?

 カンダは少し険を含めたつもりで言う。それがハママツに届いているかわからない。
 でもハママツは、違う違う、ほんとにそう思って言ったんですよ、と真顔で言う。

 ハママツもまた、コーヒーの缶を手に握っている。
 なんか、簡単に集まっちゃったら、それはそれで面白くないですね。

 そう言ってハママツはにやりと笑い、剥がしたシールを指先に付けたまま自分の席に戻っていく。

 ハママツくんは、どうしたいの?とカンダは思わず聞いてしまう。
 一瞬ハママツが凍りついた表情をするのを見て、カンダはすぐに付け足す。
 わたしに、ほんとにハワイに行って欲しい?

 ハママツは是非、と言って笑う。
 お土産話、聞かせてください。


 キーボードの上に浮かぶカンダの手は、震えている。
 でもカンダは、それが自分の怒りなのかどうかわからない。自分の皮を一皮も二皮も剝いたところにいる、自分とはあまり関係のない自分の怒りが、わたしのところまで届いているのだ、と思う。

 こういうのって、わたしみたいな人ばかりが応募するのだろうか。
 確かに、同じ銘柄の缶コーヒーを一人でがばがば買って飲むような人は、こうやって地道にシールを集めて台紙に貼って応募するようなまめな人ではないのかもしれない。
 わたしのような、何か他の人の思い込みみたいなものまで全部引き受けてしまって、嫌とは言えないような人たちばかりが、こうして自然とシールを集めてハワイに集まるのかもしれない。
 自分と同じような姿形をした人々が、貧乏くさいポイントシールの余りをスマートフォンの背中に貼り付けたまま、かんかん照りのビーチで所在無さげにパラソルの下にいるのだ。そいつら同士は、決して交わることはない。ただ物悲しげにお互いを見つめあって、声もかけあわずに亡霊のように消えていくのだ。

 カンダは思い出す。かつて、ブラジルまで行って帰ってきて、またブラジルから帰ってきても余り、シートからはみ出た分のシールを、クラスの子が自分のマラソンシートに貼り付けていたのを目撃したことを。
 そしてそれを見て見ぬ振りしたことを。

 カンダはその日、最後の一人になるまで残業する。年内に仕上げれば良い、年度内中の商品ごとの数値目標達成見込みデータを作り上げてしまうためだ。

 そして誰もいなくなった頃、ハママツの席に近づく。

 ハママツの席を静かに見渡すその目は、怯えにも似た静かな青い光を宿している。
 それはちゃんと、机の上で一番目立つToDoリストが書かれたメモ用紙に貼り付けられている。
 迎えに行かなくちゃ、とカンダは思う。
 ポイントの力であっちに行ったきり帰ってこられなくなった自分を、誰かの力を借りるのではなく、自分の力で取り戻さなければ。

 街はその日も、自分ではない何かになった人々の熱狂に包まれている。それは永遠に続くようにすら思える。


 次の日、カンダの席は空いている。
 カンダさん風邪ですか?とハママツはエダノに尋ねる。

 いや、知らないな。珍しいね。
 そうですよね。
 気になる?
 え。
 どっちの意味で気になるの?
 どっちの意味って、普通に気になりますけど。

 ハママツはエダノの言った意味を考えながら、課内の共有フォルダを見ていて、ふと年度内の数値目標達成見込みデータ、及びその到達目標に向けた年明け以降の広報・営業活動の指針、計画提案の草案ができていることに気がつく。
 そして、ピンク色のシールがなくなっていることにも。
 複数の要素を勘案して、ハママツはふと少しだけ不安になる。
 でも、カンダさんみたいな人がこんなことでいなくなったりするかな?
 そんなわけないか、と思いながらハママツはワイシャツの袖を捲り、午後から今週いっぱいにかけてのToDoリストを更新する。深読みしすぎるのはよくない。俺のいいところは、こういうことをさらっと脇においておけることだ。
 細くて硬い、まじめそうな顎の線を思い出しながら、ハママツはカンダが作った新しい目標に向けて動きだす。


 カンダは空港の中にある店で、一万六千円もするサングラスを買う。すぐにかけるからと言って、店員にタグを外してもらう。ためらわず、受け取ったその手で眼鏡を外し、サングラスをかける。
 コンタクトをしていないカンダの視界は、黒く柔らかくぼやける。細身で日焼けしたモデルのような店員が滲んで風景に溶け込むのを見て、これでいいのだと思う。コスプレだ。
 スーツケースを引きずりながら空港を歩いていると、どこにでも行けそうな気がしてくる。コスプレだコスプレだ。カンダの目には、中東人も白人もアジア人も皆等しい抽象画に見える。どこかに向かい、どこかに行き着くだけの、ただの旅行者たち。空港の、滑走路に平行する長い廊下を、カンダは歩いていく。

 飛行機が落ちたら、怖いわ。
 大丈夫。神さまにちゃんと祈ったら、生きたまま地面に降りられるから。
 神さまっているの?
 わからないけど、その時だけはいるって強く信じればいいよ。

 こうするだけ、と手を組む黒っぽい影がそこにあるのを眺めながら、カンダはサングラスの下で少しだけ泣く。
 ロビー、スーツケース、どこか疲れた表情。それらを身の回りに従えるだけで、あくまでまだどこかに行く前の段階でも、簡単に旅行者らしくなれる。
 そうして何かを待っている人々の群れの中に、カンダの姿もある。

 1Pと書かれたシールたちが、カンダの家の冷蔵庫に貼られた台紙の上で静かに息をしている。
 街は、今日も輝いている。


※本作品は、先日開催された「地味ハロウィン」内の、「職場で『パンまつりのシール集めている』と言ったら、思いの外集まりすぎて困っている人」というコスプレをされている方の写真から着想を得ました。ご本人に届くといいなと願っています。当該ツイート:https://twitter.com/N0C0ffeeN0life/status/924560208231153665

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