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昨今の、コロナワクチンに関する記事を見ていると、エビデンスに基づいたまともな解説が多くみられるようになったと思います。もちろんまだまだ科学的データに基づかないわけのわからない論説も見かけるのですが、インフルエンザ患者におけるタミフルと異常行動の件や、子宮頸がん予防におけるHPVワクチンと神経症状の件がもてはやされたころは、とにかく製薬企業を叩け、国を叩け、というムードばかりだったと記憶しており、それと比べると、一定の進化を感じるのです。

「科学リテラシー」という言葉は、自分自身としてはなんだか上から目線な気がして、書き言葉として使うのはあまり好きでは無いのですが、なんだかんだ言って日本の科学リテラシーは一歩ずつですが進歩しているんじゃないかとも感じます。

このCOVID-19のパンデミックの中、「PCRをしろ、するな」とか「正しい対策はどうあるべきか」とかいったことについて劇場型ともいうべき数々の論争が巻き起こったというのは、日本の社会に確実に何かを残したと思いますし、そう信じたいところです。臨床医学にあまりなじみが無かった人も「エビデンスとは何か」という意識が多かれ少なかれ芽生えたと思いますし、医学に携わる人、特に若い人は、もう一歩踏み込んで「エビデンスに基づいた議論とは何か」「論文を盲信せず正しく読むにはどうすべきか」という意識が身についたのではなかろうかと思います。

私自身、以前から科学的思考に基づかないいわゆる「トンデモ医学」「エセ医学」は苦々しく思っていたところで、昨今の友人を含めた皆さんの科学的知見に基づく大攻勢には喝采を叫んでしかるべきところです。ところが不思議なことに、この大攻勢が、私には違和感と言うか、妙に気持ち悪く感じられて仕方ないのです。「論理的であること」を極めて重要視している私ですが、なぜか昨今の、特に「コロナワクチン打とうよ☆」という空気が気持ち悪く感じられます。

断っておきますが、自分自身は機会を得たら「接種」の一択だと思っています(しかし、それにつけてもまだ接種機会が回ってこないNIHの動きの悪さよ)。ワクチンの効果は明白であり、少なくとも短期的な安全性については十二分に担保されていると認識しており、家族にも接種を勧めています。

それでも「コロナワクチン打とうよ☆」というキャンペーンには同意しきれない自分がおり、このもやもやをどう説明して良いのか、少し悩んでいました。

それが今日になって、ようやく一つの原因にたどり着いたので、書き留めておこうと久々に筆を起こした次第です。

ワクチンを接種することを勧める意見は、要約すると「ワクチンには高い効果が証明されていて、自分のためにも社会のためにも打つべきです。命にかかわりかねないような重大な合併症の確率は非常に低いため、心配しなくても大丈夫です」というものだと思います。私は、この後半に引っかかりを感じていたのです。つまり、確率が非常に低くても、ワクチンのせいで命を落としてしまうようなことが、起きることがあります(因果関係が不明瞭であっても)。その事実への冷淡さ、あるいは意図的に無視しているかのような態度が気に入らないのでした。

この態度は、しかし、ある種の必要悪です。なぜならいわゆる反ワクチン、反医学で鳴らしてきたエセ医学の論客は、このわずかな合併症のリスクを元にいたずらに不安を煽ろうとするからです。そこに対峙する以上、あえて冷淡であるというのは仕方がないことではあります。

しかし、たとえ100万人のうちの1人であっても、何かが起こるときには起こってしまいます。そこに対する優しさであったり、それに不安を感じる人の気持ちに寄り添う態度であったり、という部分は、いち臨床家としては欠くべからざるものと思うのです。「心配しなくても大丈夫です」ではなく、「そうですよね、そうは言っても心配ですよね」が、臨床家としてあるべき態度であろうと。やっぱり私は根っこの部分がいち臨床家であって、そこが許容できなかったのでした。

実は私の伯父にあたる人、昔ジフテリアの予防接種が原因で死んでいます。私が生まれる前の話ですし、その人が死ななければ私の母が生まれてくることも無く私もこの世にいなかったというような、とても古い話ですが。接種部位が壊死し、掻爬を繰り返しながら亡くなったそうで、小さな子供なのに、かなりミゼラブルだったようです。

こんな話をして、別にワクチンが怖いとか何とか言いたいわけではありません。私の家族もこんなことがあったからと言って反ワクチンになったりということは全くありません。そしてそもそもこのジフテリア予防接種禍で問題になったような低レベルなミスが今のコロナワクチンで発生するなどということはあり得ないですから、今回のコロナワクチンのリスクを云々することとは本来同列にすべきことではありません。しかし、繰り返しますが、「非常に低い確率」だったとしても、それに当たってしまう人は必ずいて、そのことに対する不安な気持ちというものを馬鹿にするとか、無視する、あるいは簡単に否定するというのは、ちょっと非常に気持ちが悪いことだと思うのですね。

臨床医学、あるいは基礎医学で、「サンプルになる数が少なすぎて信じるに足りない」という気持ちを表現するときに、「それはn=1の知見に過ぎないからね」という言い方をします。「n=1」とは対象となるサンプルの数(n、すなわちnumber)が1つである、という意味です。n=1にこだわり過ぎないことは医学の研究者としては必要な態度ですが、臨床家として、あるいはなにより人間としてはやはり、無視すべきではないと思います。

本当に「科学リテラシー」が上がってきて、科学的知見に基づいた当たり前のチョイスを社会が選択できるようになったら、次のステージとしてはこのn=1にもっとコミットする優しさを、科学と社会にはまとって欲しいなと思い、期待する次第です。


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