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学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑫ 「1つだけのメソッドに強制的にはめ込むのではなく、個に応じて道を拓いてあげる教育の幅」

昨日のことである。

仕事の為にトラックを運転していると、ちょうど登校途中の小学生たちが列を成して歩いていた。

その中で、一組の父娘に気が付いた。
小学校2年生くらいだろうか。
父親は、娘のランドセルを肩にかつぎ、少し前を歩いている。
娘は、今にも泣きだしそうな顔をしながら、父の後ろを歩いている。
「娘は、学校へ行くことを嫌がっている」ことは、遠目にもわかった。

大変失礼な言い方だが、そのお嬢さんには少し障害があるようにも見受けられた。
その子は、もしかすると、その障害のこともあって、うまくクラスの仲間に溶け込めない、或いは仲間外れにされているのかもしれない。
と言うのは、私の従妹で、障害があるというほどではないのだが、生まれつき少しハンディがあって、普通学級に通ったのだけど、ひどいいじめを受けたと聞いたことがあったから。

父親の心中も察するに余りある。
もし娘がそういう状況にあるとわかっていても、強制的にでも、手を曳いてでも学校へ連れていくしか道が無いのだ。
「可哀そうだ」と思ってみても、このまま皆の中に入れず、長い人生を生きていくことを思えば、心を鬼にして引っぱって行くしかない。

しかし、本当はそうではない。
学校サイドもうたっているように、「子どものそれぞれの個性や個の特性を活かす」教育を受ける権利をすべての子どもが持っているのだ。

予習復習をして、授業で活発に発表することだけが評価されるのではなく、子ども一人一人がそれぞれの興味関心をベースにして、それぞれのペースと、それぞれに適した環境で学習を進めていくことが保障されているはずなのだ。

もちろん、今の先生サイドに、とてもそんな余裕など、ひとかけらも無いことは明らかである。
あまりにもブラックな職業ゆえ、成り手すらいないという苦境に追い込まれてしまっている。

しかし、先生もまた、それぞれの個性やペースを保障されながら、子どもと向き合っていく働き方が認められなければならない。
今は「帳面消し」の不必要な雑仕事が多すぎる。

不必要なことを大胆に削って、もっと門戸を外に開放し、巷にある人材を活用していけば、必ず道は拓かれるはずだ。


失敗を恐れてはいけない。
失敗こそが、人生における貴重な「学習」なのだ。



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