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幼少の頃、どうしても買ってほしいお菓子があった。でも、親には言い出せなかった。(その弐)

しかし、ある時、私にとって「またと無い」チャンスが訪れた。

母の知り合いの子どもが、何かちょっと大きな病気をしたというのでお見舞いに行く際、何かお菓子を持っていきたいが、何がいいか?と私にたずねてきたのだ。

私は迷うことなく、長崎大学前にある商店の、そのお菓子こそが、その子のお見舞いにふさわしい!それしか無いのだと熱弁した。

別に、自分が買ってもらえるわけではない。
しかし、あれほど見つめ続け、憧れ続けた、あのお菓子を他の子の為とは言え、買うことができるのだ!手に取ることができるのだ!という高揚感から、私の足取りは軽かった。

千歳町から長崎大学まで、けっこうな道程なのだが、私と母は、もちろん歩いて、そのお菓子を買いに行った。

そして、念願の、そのお菓子を買う時、さすがの母も私のことが不憫に思ったのか、普段絶対に買わないお菓子を私にも買ってくれたように記憶している。

さて、私はそのお菓子を握りしめ、いさんで帰路に着いた。

そして古ぼけたアパート群の、すぐそばにある「さかい商店」という、これまた古い小さな商店に差し掛かった時、母が私に向って叫んだ。

「なんね、このお菓子は、ここにも、あるやなかね!」


そう、なんのことは無い。その憧れのお菓子はすぐ目の前にあったのだ。


しかし、そんなことを言われてもしょうがない。毎日、歩く中で見つめていたからこそ、「憧れ」なのだから。
今から、半世紀以上前の話である。


昔の母親は、こういう母親も少なくは無かっただろうと思う。貧しい家が多かった。
小学校のクラス名簿の、うちの電話番号欄は、「金子米穀店〇〇ー〇〇〇〇(次)」と書いてあった。
つまり、緊急連絡の際は、アパートから少し離れたお米屋さんに「取り次ぎ」を頼む、ということなのだ。
だから、お菓子など、子どもには一切与えないという母の態度は、正しかったと言えるだろう。

それでも、貧しいけれど、たまにはそういうお菓子を食べる機会を与えてくれた人もいた。

私が、別の時に他のアパートの友達の所へ遊びに行っていた時のこと。
私が遊びに行く前に買い物に出掛けていた、友だちのお母さんが、友達の分まで、おみやげとして「チョコ・フレーク」を買って来てくれた。
私にとっては大興奮である。
そんな、一人に一つの「チョコ・フレーク」なんて、夢のような話だ。
しかし、そのお母さんが出掛けている時の子どもの数は3人。
だから「チョコ・フレーク」も3つしかなかった。
子どもは私を入れて4人だった。
当然、前からいた3人は、「チョコ・フレーク」の所有権を主張して譲らない。泣きわめく者も出た。
しかし、そのお母さんは、泣く者を一括して、3つの「チョコ・フレーク」を取り上げ、箱から袋に入ったフレークを取り出した挙句、3つの袋から少しずつ空き箱の中にフレークを入れ、それを私に渡した。
「こいで、よかやろ!」
異議をとなえる者はいなかった。
そのお母さんは「チョコ・フレーク」3つを四等分してくれたのだ。

これも、半世紀以上経った前のエピソードだが、忘れることができない。

「たかが、お菓子のこと」かもしれない。
だが、ほんのささいな物でも、とっても欲している時に与えてもらったという嬉しさは、生涯忘れることができないくらいインパクトがあるのだ。


もちろん、そんなことは私の母も、誰かのお母さんも露ほども覚えていないであろうことは、疑う余地が無い。
今、こうしてネット上に記録していようとは、夢にも思わないだろう。



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