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学校教育に決定的に欠けているものの一つ ② べースにあるべき「リスペクト」

「リスペクト」の無いところに、教育はあり得ません。あろうはずがありません。

最近でこそ、「人権学習」なども増えてきましたが、たった40~50年遡るだけども、この国の「リスペクト」は、おぞましいものでした。

「尊敬」という言葉があったとしても、それは教師が児童・生徒に対して強要するものであり、教師が生徒に対して向けるものは微塵もなかったと思います。

殴る蹴るの暴力はもちろん、精神的な辱めや侮辱など、ここに列挙するのも嫌になるのでやめておきますが、こういった経験は誰にでもあるでしょう。
また、自分も教師としてこの「リスペクト」に関する意識が弱かったことは白状しておかねばなりません。

私の担任の先生の中で、もっとも私を評価してくれたと言うか、唯一評価してくれたのは、小学校1~2年の時のS先生でした。

私にとっては、この先生のいい思い出が多いのですが、そんな先生でも、この「リスペクト」については、忘れられない幾つかのエピソードがあります。

1年生になって間もない頃です。ひとりの男子が、どうしても我慢できなかったのでしょう。「大」の方を漏らしてしまって、一部を教室内に落としてしまいました。それをS先生が気付かずに踏んでしまって、「わっ、大変だ、漏らしてしまったの!」ではなく、「なんばしよっとね、踏んでしまったやかね!」と大声で叱りました。
私は斜め後ろの席に座っていましたが、その時の男子のうつむいた後姿が今でも思い出せます。
確かに、他にもおしっこを漏らしてしまう子などもいましたが、「自分のサンダルが汚れされたことを叱るのは、小1の時の自分からしても違うなと思いました。

あともうひとつ、小学~4年の時の担任の先生は、皆が「お父さん」のように慕う、私も大好きな先生でした。
しかし、この先生でも、まったく子どもの尊厳を踏みにじるようなことを何度かしたことがあります。
クラスに浅野君という男子がいました。ちょっとやんちゃでしたが、元気な明るい男子でした。
その浅野君が、ある時、何をしたかは忘れましたが、そんなに大したことでは無い事で先生に叱られたことがありました。

その時、担任の先生は、「昔、浅野内匠頭という悪い奴がいたが、お前も「浅野」という名前だから、悪いやつだ!」ととんでもないことを言いました。彼は泣いていました。
浅野内匠頭を悪い奴という認識もずれていれば、同じ苗字だからという発想も無茶苦茶です。
今だったら、保護者は抗議するでしょう。


今、学校現場は教員にとって「受難の時代」と言っていいほど大変な時代です。
なにか指導が気にいらないと言って、保護者が学校に直接学校に怒鳴り込んでくる時代です。
だから、児童・生徒に気を遣えということではありません。

教師はそれこそ、尊厳を持って教育にあたるべきです。

しかし、同時に相手がどんなに幼かろうと反抗期であろうと「子どもあつかいせず」、ひとりの人間として「リスペクト」した上で教育にあたることは、絶対に必要なことです。

うまくいかないとしても、そういうちょっとした扱いや行動、発言が人を育てていくと信じていくしかないのです。


Existential education - コピー


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