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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#長崎市

親しみの持てる街の要素って何だろう? ~ 2012.1月半ばの大黒・恵美須市場にて

あんなにも明るい笑顔で迎えて、声をかけてくれた方のお店が遂に閉まってしまいました。 もうこの扉が開かれることは二度とありません・・・ 2011年12月の同じ場所 同じ場所を撮っているとは思えません・・・ 「自分の住んでいる街に親しみを感じる」「好きになる」また「誇りに思う」っていう要素とは何だろう?と考えてしまいます。 所得番付47都道府県中、いつも下から2~3番目という長崎であれば、「豊かさ」や「便利さ」はあがらないでしょう。 かつて「坂道だらけで大型商業施設の入り

私ブロに頂いた、メッセージ

『 懐かしすぎて涙が止まりませんでした。 この玉屋でランドセルを買ってもらい、中学生の制服を買ってもらい、社会人になってはじめてのスーツを買ってもらった場所。 一階のジュース屋さんで何度かコップを割ってみたり、屋上のゲームコーナーでお小遣いを使い果たしたり、産まれた時から私の人生に寄り添ってくれた場所でした。 貴重な最後の画像を見せていただき、ありがとうございました。 』 ***** 思いがけず、このようなメッセージを頂くことほど、ブログを書いた者にとって嬉しいこと

さよなら、我が母校 西浦上小学校

小学校自体は無くならない。 しかし、私にとっての母校・西浦上小学校は、間もなく取り壊される校舎と体育館そのものなのだ。 西浦上小学校は、現在の長大付属小学校の敷地あたりにありましたが、原爆の爆風により木造校舎は、一度宙に持ち上げられてから、地面に叩きつけられ、倒壊しました。 昭和23年に現在地に移転し、以来私を含め、多くの児童が、この学び舎で学びました。 西浦上小学と言えば、やはりぐるっと取り囲む浦上川です。 校歌の中の歌詞の中に「浦上川の みなもとの」という歌詞があり、

長崎市の風景 かつての路面電車軌道跡に造られた勝山市場

長崎市の風景 中島川沿いのヤナギ

中島川沿いのヤナギ。 特に夜風に揺れるヤナギの風景は、たまらなく好きな長崎市の風景のひとつ。

またひとつ姿を消した故郷 ~ 大黒・恵美須市場撤去

昨年3月末をもって閉鎖された大黒・恵美須市場。その後長い間立ち入り禁止という状態が続いていましたが、平成25年になってから遂に解体・撤去されました。(元記事作成:2013年) 行政に関しては今更このトピックで云々言う気はありません。 でも、一年前の同地はこのようになっていたわけで、どちらが「長崎」の街として親しみが持てるかなぁと思ってしまいます。 まぁその論争も他に譲るとしても、下の画像にあるように、ここには長年「ヒトの暮らし」があり、雨が降れば、家族の傘が並ぶ・・という日

長崎市の風景 路面電車の車内

我々長崎市民にとって、「電車」と言えば、路面電車、或いはチンチン電車を指す。 鉄道の方は、いまだに電化されていない区間もあるので、汽車(きしゃ)と言うのだ。 電車の中の風景は、もちろん「心の故郷の風景」でもある。 幼い頃、母親と出かけたりするのは、もっぱら電車だった。 混んでいると大人しくしているが、すいている時など、たちまち態度が変わる。 幼い頃は、景色を見るために外側を向いて座るのは、当たり前だし、使っていない側の運転台に座って、運転士気分を味わうのは格別だった。 お

写真録⑨ 馬 ~ 長崎・日見峠を越える材木運びの馬

長崎市は、街の起こりとしてイエズス会のポルトガル人とカトリック信徒が「自然の要害」として築いたことでもわかるように、平坦な経路でつながっている場所がまったく無い。 自動車が普及する以前や、ガソリンが不足していた昭和20年代前半までは、写真のように、「西の箱根」と呼ばれた長崎街道の日見(ひみ)峠を、沢山の馬たちが荷車を曳いて上り下りしていたのだ。 我々長崎市民は、この馬たちの恩を忘れてはならないだろう。

造船所を望む丘にあった、長崎市立 立神小学校②

今は無き立神小学校へのスロープ。その途中に置いてある坂道専用のゴミ運搬函が、いかにも長崎らしい景観をつくっています。かつてはこの坂を大勢の子どもたちが通っていたのでしょう・・・。 しかし、坂を上り詰めても、そこに懐かしの校舎はありません。 横の坂をお年寄りの方がゆっくりと歩いてゆきます・・・この先にもういくつも家はありませんが。 校門跡のわきに残る「創立80周年記念植樹」の碑。人が通わなくなると、こういった碑も朽ちていくのが早いのでしょうか・・・ 町へ降りてみます。

造船所を望む丘にあった、長崎市立 立神小学校①

平成12年度をもって閉校となった長崎市立 立神小学校。その後10年が過ぎ、校舎は跡形もなく取り壊されてしまっていますが、解体を逃れた特別教室兼プールの壁には今でも鮮やかに児童の共同制作画が残っています。 閉校直前に描かれた「閉校記念」の絵も残されていました。これは5,6年生のものですね。小体会で準優勝であったこと、修学旅行で産山牧場(熊本)へ行ったこと、6年生は13名であったことなどがわかります。 4,5年生は三菱重工長崎造船所の立神工場を描いています。小学校の卒業記念と

永井 隆 博士の絵

永井 隆博士と2児が暮らした、如己堂。そのわずか2畳の部屋を、年に一度は見に行きます。 そして、その横にある「永井隆記念館」に展示されている、博士筆による絵も。 これらの絵は、額に入ったりすることはないだろうが、個人的には、とても惹きつけられるものであるし、いい絵だと思います。 それが、己に迫る死に直面しつつ描いた、我が幼子の絵であれば、なおさらです・・・・ 絵の中の茅乃さんは、色とりどりの着物を着ていますが、これは実際に持っていたものではありませんでした。博士が、「せ

原爆により全壊も、職員の必死の作業で資料消失を逃れた ~ 長崎市立西浦上小学校

1945年8月9日の原爆投下により校舎が全壊した主な学校は、私の母校である西浦上小学校、西坂小学校、そして瓊浦中学校などですが、瓊浦中学はともかく、西浦上小や西坂小が「被爆・被災校」として紹介されることはまずありません。 私などは、低学年のうちに転校したとはいえ、西浦上小に在籍していたにも関わらず、同校が全壊した被爆校であることも、慰霊碑が建っていることも耳にすることはありませんでした。不思議なことです。 何度もこの前を通りながら、一度もこの碑に手を合わせることをしなかった

長崎市・昔の写真 「滑石にあったショッピングセンターあぜくら」

出来た当初から小さなショッピング・センターだった。 1Fに青果店などが入り、市場となっており、2Fにテナントで、いくつかの店舗が入っていた。 この中に、「木馬」という小さな子ども服のお店があったが、とても売れている感じではなかった。 このお店で、息子のズボンを1本買ったことがあったが、お客さんがどれだけあるのか、とても気になった。

失われた長崎市の風景遺産 「西町付近にあった小さな市場」

確か令和3年の初めころまではあったと記憶している市場。 ご覧の通り、小さな市場だが、お店の方が元気よく商売をされており、いつも賑やかな声の飛び交う活気のある場所だった。 しばらく足を運ぶことが無く、或る時このすぐ近くに仕事で来たとき、「何か違うな・・・」という違和感を覚えたが、はたしてこの市場が無くなっていて新築のアパートが建っていた。