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さよなら、我が母校 西浦上小学校

小学校自体は無くならない。
しかし、私にとっての母校・西浦上小学校は、間もなく取り壊される校舎と体育館そのものなのだ。


1989年撮影
1989年撮影

西浦上小学校は、現在の長大付属小学校の敷地あたりにありましたが、原爆の爆風により木造校舎は、一度宙に持ち上げられてから、地面に叩きつけられ、倒壊しました。
昭和23年に現在地に移転し、以来私を含め、多くの児童が、この学び舎で学びました。

西浦上小学と言えば、やはりぐるっと取り囲む浦上川です。
校歌の中の歌詞の中に「浦上川の みなもとの」という歌詞があり、この部分のメロディーはが、とても好きです。
私は教師として、県内いろんな学校に赴任しましたが、この西浦上小の校歌が、なぜだか、このメロディーが最も今印象深く残っています。

資料・記録は残ってはいませんが、同小校舎は上空から見ると、中央玄関・階段棟を中心に、両翼に教室棟が伸びています。
これは、原爆で犠牲となった職員・児童への追悼の意味もあり、「平和を希求する」という姿勢を校舎の建築に込めたものでしょう。
校歌の中にも「白亜の校舎 翼ひらきて」という言葉があります。

中央棟の屋上には、「空を向く、鳩のくちばし」のモニュメントがつけられています。


平和を願い、翔び立つ鳩の姿に見えます。
二階建てだった体育館。
「まなびや橋と校舎」
登下校時に眺めていた浦上川。誰かがのぞき込んでいると、何もなくても次々と、みんながのぞき込んだ。


橋から見た上流側。昔は護岸もこんなに高く立派なものではなく、生活道路として川の中に歩行者が歩く飛び石のような通路があり、時々おじさんが歩いてたりするのを眺めていた。


教室からは、長崎バイパスのトンネルに入る、この赤い橋がよく見えていた。子どもの頃は、「大人になれば、あのたくさんの車のおじさんたちのように、自由に世の中で行き来できるのだろう!」というイメージを持っていた

近くを通る時、娘をバス停で見送る時に見えていた、西浦上小学校の校舎。
これが無くなると、心にぽっかりと穴が開いてしまったようになるでしょう。

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