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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#歴史

浦上天主堂の石垣

ただでさえ、石垣に惹かれる私なのですが、浦上天主堂のまわりにある石垣は、爆心地からわずかに500mという至近距離にありながら、その猛烈な爆風に耐え、今もその姿を保っています・・・。 熱線により赤茶色に焼けているのが確認できますが、倒れる危険性などはないということです。 もともと、この石垣、原爆で焼失した旧浦上天主堂(大正3年完成)の時代の、さらにもっと前、旧浦上村山里の庄屋屋敷の石垣として造成されたものです。(浦上教会が高谷家から、明治13年に買収) 石垣は庄屋屋敷ととも

長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった

1986年に公開された「ミッション」。 イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました) 公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。 今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。 実に35年もかかっています。 こ

牛馬も歩みを渋った難所・・・打坂の歴史

長崎市の北部に位置する時津町と長崎市の境付近にある打坂(うちざか)。今では切り通しとなり、なんでもない坂なのですが、この何でもない坂が実は多くの歴史を背負っていました・・・ そもそもこの「打坂」という名前の由来ですが、切り通しとなる前は時津街道一の急坂であり、牛馬に鞭を打たないとなかなか登らない、ということでこの名がついたようです。 古くは、長崎・西坂の丘で処刑されたカトリック神父や修道士など26人のキリシタン(後の26聖人)が京都・大阪から護送される際に通った道です。

聖母の騎士たち

「聖母の騎士修道会・・・聖フランシスコ修道会の流れを組む、ポーランドで結成されたカトリック信心会で、アウシュヴィッツ(オシフェンチウム)強制収容所で他者の身代わりとなって餓死刑を受けたコルベ神父が創設者」と聞くと、特に無宗教で堕落しきった私などは、腰が引けてしまうのですが、「あの、いつも笑顔のゼノさんのいた修道会」と言えば、自然と頬もゆるみます。 日本へ向かう前の聖母の騎士会の修道士たち。中央がコルベ神父。 左から2人目がゼノ修道士です。 すでにゼノさんらしい顔をしています

軍艦島の名の元になった戦艦土佐は、同島に通った夕顔丸らに曳航され、廃船の旅に向かった

三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島」の方がはるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造された「戦艦土佐」に似ていたことだと言います・・・ 外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが「戦艦土佐」に限定されるのでしょうか・・・ 三菱長崎で建造された戦艦は他にも多くあります。その中で最も有名なのは「バケモノ」と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」(全長263m)でしょう。 (画像はシブヤン海で沈没寸前の武蔵) 他にも巨艦は

小国魂 ~ オランダ人ハルデスの遺したもの

現・三菱重工長崎造船所の前身である長崎製鐵所を建築するために長崎海軍伝習所がオランダから招聘した技師団37名の主任技師であったのが、オランダ海軍機関士官ヘンドリック・ハルデスでした。 ハルデスら一行が長崎に到着したのが、安政4年(1857)のことでした。 約200年間(1641-1859)出島に居留を許されていたオランダですが、その間4次に渡るイギリスとの戦争で完全に衰退し、1806年から1810年まではフランス帝国に併合されたりと、大変厳しい国情が続いていました。 1

明治期に敷設されたJR大村線と長崎本線旧線は、鉄道人達の熱きスピリットと長崎の歴史を今に伝える貴重な遺産

平成26年当時、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が大いに注目されていました。 名称がそのまま内容を表していますが、明治期における急激な近代化を成し遂げる要因となった「製鉄所」「造船所」「炭鉱」「紡績工場」「砲台」「教育施設」「軍養成所」などがその構成要素であり、とりわけ大陸に近く、採炭地でもあった九州西部には多くの「構成遺産」が残されています。 言うまでも無く「鉄道」は、それらの構成要素をつなぐ重要な存在だったことは疑う余地がありません。 船舶もまた重要な役

追悼 今も地の底に眠る想い ~ 日鉄池野鉱 出水事故の手記より

佐世保市柚木地区に向かう旧道沿いに立つ西肥バス「池野」バス停。 この付近にはさして目立つものもなく、静かな住宅街となっていますが、かつてここに日鉄池野炭鉱があり、通りは国鉄柚木線に沿って続く賑やかな商店街がありました。 日鉄池野鉱は8つもの坑口を持ち、本坑の水平坑道(坑道の内、水平に伸びる部分)は幅8m、長さ1kmもあったと言います。 今ではそんなことさえ知る人も少なくなってしまったようです。 今回はいわゆるトピックではありませんが、「追悼の意」を込めまして、昭和15年に

世界遺産級の教会建築士 ~ 鉄川 与助

世界遺産となった、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ですが、多くの教会を設計・施工した鉄川 与助の存在が無ければ、おそらく状況はまったく違うものになっていただろう・・と思わずにはいられません。 与助は明治12年、五島列島中通島・青方村に、大工の棟梁鉄川 与四郎の長男として生まれています。 (画像は、その生まれ故郷に近い大曽に立つ、自ら設計・施工した大曽天主堂) 禁教政策が解かれ、各地に天主堂を建てようとする動きが始まる中で、与助は、敬虔な仏教徒でありながら、教会堂・天主

原爆投下は、戦争の「狂気」が為した「殺傷力のデータを得る為の人体実験」のようなもの

標題は偏った見方を連想させるかもしれません。しかし、長崎に生まれ育ち、そろそろ人生の幕引きを意識しだした今、ひとつの結論を示す必要性を感じました。 もしかすると、今後この結論は覆るかもしれません。 しかし、現在考えうる全神経を集中させた結果たどり着いた文言は標題のようなものでした。 また、この記事を、長崎に修学旅行で来られる中学生の方が、平和学習の参考として読んでくれるかもしれないので、特にこの記事は「未来を担う中学生に向けて」書きたいと思います。 2018年の夏、何故だ

聖フランシスコ病院前にある、聖フランシスコ像

長崎市小峰町にある、聖フランシスコ病院。その前庭には、犬(実は狼?)と話す、一人の若者の像があります。この像も見かけた人も多いのではないでしょうか・・・ この像、もちろん「犬好きの人」なんかの像ではありません。 聖フランシスコ、或いはフランチェスコ。いわゆる「アッシジの聖フランチェスコ」と呼ばれた聖人の像なのです。 最も聞き慣れた言葉では、アメリカ合衆国の都市、サンフランシスコは、彼の名をとったものです。 (スルバランの聖フランチェスコ / ラファエロ / アルテ・ピナコテ

長崎市最古のRC造(鉄筋コンクリート)・橋梁の名は、「 新橋 」

長崎市大黒町。駅前の大通りから一本入った場所にある新橋。橋の上には店舗や住居の入る建物があり、一見橋とは思えない景観となっていますが、これが市内最古のRC(鉄筋コンクリート)造の橋梁である新橋です。 架設年は、なんと大正4年(1915)。下画像は年間7万人ものツアー客が訪れる軍艦島・最古のRCアパート30号棟ですが、この30号棟の建設が大正5年ですから、これよりも1年古いRC構造物ということになります。 汽水域にあり、30号棟と同じく塩水の影響を受けていると思われ、さすが

日本軍参謀本部は原爆投下情報を事前につかんでいた~NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」の紹介

長崎市に生まれ育ち、かつて教鞭をとっていた者として、この日ぐらいは原爆について書いてみたいと思います。 2011年10月29日(土)にNHKで「原爆投下 活かされなかった極秘情報」というドキュメンタリーが放送されました。今回、この番組を紹介したいと思いまして、同番組がどこかのサイトで閲覧することができるのであればそのサイトを紹介したいと思いました。 しかし、残念ながら有料かDVDでしか存在せず、結局それでは閲覧する人はかなり少ないと思いましたので、ここにそのダイジェストを

深い情愛で結ばれた親子の記憶が保存してある二畳の家 ~ 永井博士親子の如己堂

長崎市名誉市民外一号である、故・永井 隆博士が亡くなる約3年前から親子三人で暮らしていた住居はたった二畳一間の家。 ・・・長崎に暮らす自分にとっては大いに誇らしいことであるし、その家「如己堂(にょこどう)」を今、未来ある子ども達が修学旅行の傍ら立ち寄って見学している姿というのは、なんともうれしいものです。 その思いは、名誉市民になるような人がこのような謙虚な暮らしをしていたという安堵感からくるものでも、今、裕福な暮らしをする人を妬む気持ちの裏返しからくるなどという、ケチく