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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2022年5月の記事一覧

長崎市の風景 「長崎原爆資料館に続く道と夏の入道雲」

建物は、戦後の小さな資料館から、国際文化会館、今の資料館と変わっていったが、浜口からこの丘に続く坂道の感じだけは変わらない。 夏の入道雲が立つ頃、「チリンチリン・アイス」の姿が見え始め、8月9日を迎える、そわそわした気持ちになる。 昔、このロータリーの一角に犬猫病院の名医がおり、皮膚病にかかった我が家のダックスフントを連れてきたことがあった。 教員時代には、資料館内のホールで生徒たちと話し合いをしたこともあった。 自分の学生時代には、長崎から遠く離れた地方に住んでいた

写真録⑨ 馬 ~ 長崎・日見峠を越える材木運びの馬

長崎市は、街の起こりとしてイエズス会のポルトガル人とカトリック信徒が「自然の要害」として築いたことでもわかるように、平坦な経路でつながっている場所がまったく無い。 自動車が普及する以前や、ガソリンが不足していた昭和20年代前半までは、写真のように、「西の箱根」と呼ばれた長崎街道の日見(ひみ)峠を、沢山の馬たちが荷車を曳いて上り下りしていたのだ。 我々長崎市民は、この馬たちの恩を忘れてはならないだろう。

造船所を望む丘にあった、長崎市立 立神小学校②

今は無き立神小学校へのスロープ。その途中に置いてある坂道専用のゴミ運搬函が、いかにも長崎らしい景観をつくっています。かつてはこの坂を大勢の子どもたちが通っていたのでしょう・・・。 しかし、坂を上り詰めても、そこに懐かしの校舎はありません。 横の坂をお年寄りの方がゆっくりと歩いてゆきます・・・この先にもういくつも家はありませんが。 校門跡のわきに残る「創立80周年記念植樹」の碑。人が通わなくなると、こういった碑も朽ちていくのが早いのでしょうか・・・ 町へ降りてみます。

造船所を望む丘にあった、長崎市立 立神小学校①

平成12年度をもって閉校となった長崎市立 立神小学校。その後10年が過ぎ、校舎は跡形もなく取り壊されてしまっていますが、解体を逃れた特別教室兼プールの壁には今でも鮮やかに児童の共同制作画が残っています。 閉校直前に描かれた「閉校記念」の絵も残されていました。これは5,6年生のものですね。小体会で準優勝であったこと、修学旅行で産山牧場(熊本)へ行ったこと、6年生は13名であったことなどがわかります。 4,5年生は三菱重工長崎造船所の立神工場を描いています。小学校の卒業記念と

永井 隆 博士の絵

永井 隆博士と2児が暮らした、如己堂。そのわずか2畳の部屋を、年に一度は見に行きます。 そして、その横にある「永井隆記念館」に展示されている、博士筆による絵も。 これらの絵は、額に入ったりすることはないだろうが、個人的には、とても惹きつけられるものであるし、いい絵だと思います。 それが、己に迫る死に直面しつつ描いた、我が幼子の絵であれば、なおさらです・・・・ 絵の中の茅乃さんは、色とりどりの着物を着ていますが、これは実際に持っていたものではありませんでした。博士が、「せ

みそ五郎どんの高岩山をガイドするのは、かつて主のいなかったビーグル犬・大五郎

南島原市・高岩山には「みそ五郎どん」という心優しき大男の伝説があります。 その伝説とは・・・・・ 『 昔むかし、西有家で一番高い高岩山に大きな男が住んでおった。この大男、人が良く、ちから持ちでだれやかれやから好かれておったそうな。みそ五郎どんは畑仕事の手伝いをしたり、山を切り開いて、畑を造ったりして、みそを分けてもらっておった。 高岩山を住みかにしとったので、朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗うのを日課にしておった。 そして、唯一の楽しみは雲仙岳に座り、高岩山の八