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#アンネの日記

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑯ アンネの一番の望みは、彼女の死後実現したということ

                                                                                                                                                                                                                                                

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑮ 母親の、娘に対する「あまりにも低い見積もり」

*** アンネの花、エーディトは同居する青年ペーターとアンネが親しくすることに、懸念あるいは不快を示し、アンネにそのことを忠告している。 母親としてそれは当然と言えば当然かもしれない。 しかし、母親に対して「ちっとも悲しいと思わない」と述べた後、ペーターに関する長い想いを比べてみると、それがあまりにも喰い違っていることがわかる。 やはりエーディトは、14歳の娘に対してあまりにも低く見積もっているとしか言いようがない。 外見の幼さ、若さと経験の長さは、精神の高さとは一致しない

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑭ 他から思われているほど傲慢でも自分勝手でもなく、己をとらえている

*** 「隠れ家」に潜伏していたアンネ以外の7人のうち、少なくとも6人は、アンネに対し、「子ども扱い」するという差別行為を行っていた。 その内、母親とデュッセル氏(日記上の仮称)は、その度合いが酷かった。 アンネがしばしば、「生意気」だとか「傲慢」と捉えられるのは、その差別に対する反発であり、人として当然のことであろう。 しかし、彼女はひとりの人間として、かくもストイックに自己をとらえ、また未来に希望を託していたのだ。

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑬ 「突き放す」が「子ども扱いをやめる」ではないこと

「ピム」とは、アンネが日記上で使った父オットーの愛称である。 母親に比べれば、随分と価値観が近いと感じていた父であったが、「子ども扱いをやめようとしている」にも関わらず、その切り口が「勉強をおしえてやらない!」などと依然、子ども扱いの範疇から出ていないことをアンネは嘆いていることがうかがえる。 そして、戦後オットーがアンネに代数を教える機会など、二度とやって来なかった。

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑫ 大人脳である14歳は、親に言われて人生を変えない、ということ

この日の日記は、「大人脳である14歳(15歳かそれ位の年齢)は、親に言われて人生を変えない」ということをラジオで人工知能研究者(脳科学者)が言っていたが、その裏付けとなるような内容である。 このことはアンネ・フランクに限らないだろう。 私も含めて、子どもを持つ親というものは、ついつい子どもに対して、何歳になろうとも「リスペクトの無い、子ども扱い」をしてしまうものだと自覚し、反省すべきだろう。

ドラマ・シリーズ「正義の異邦人:ミープとアンネの日記(原題:A Small Light)」

とても秀逸なドラマ・シリーズで60分の8話から成る。 題の中の人名、ミープ・ヒースは、アンネ・フランクと7人を隠れ家でかくまった、主な4人の内の中心的な人物である。 幼い頃、オーストリアからオランダ人家族の元に養子にきた女性であり、歴史的にはアンネ・フランクに比べると、ほぼ無名であるが、ナチス・ドイツのホロコーストに真っ向から立ち向かった一人間としては、後世まで語り継がれるべき人である。 このドラマは、史実に基き、演出上の脚色は加えられているものの、事実を歪めるものではまった

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑪ 日記のひとつのピークである部分 ~ 巣離れと旅立ち 

この日記が書かれたのは、日記が終わる5か月前のこと。 長い日記の中でも、アンネがひとつの結論めいた決意を記したといってもいい部分かと思う。 一見、両親への反発、特に母親への嫌悪のように思えるかもしれないが、もはや精神的に、そういう段階を遥かに過ぎていることがうかがえる。 つまり、自分を「未熟者あつかい」或いは「子どもあつかい」するという差別に対し、敢然と決別する決意を表明し、また独自のパラダイム(価値観を伴った、物事の見方・捉え方)に従い、より高い理想に向かって旅立つという

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑩ 恋愛感情を人間性の昇華と結び付けて捉えている

「隠れ家」の中の8人のうち、二人の母親は、特殊な環境に中に置かれた二人のことを、いたく心配して警戒していた。 確かに「恋に恋する年頃」ではあったが、それほど単純に、或いは軽薄に恋に憧れていたというわけではなく、その感情を、自己の人間性の昇華と結び付けて捉えていたことが判る。 アンネの母、エーディトは、もちろん娘を心配してのことだったが、「子どもを子ども扱いするべきでない」という思慮が無かった為に、最後までアンネからの信頼を得ることができなかった。

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑨ 人間関係と、その問題解決についてのほぼ完成された考察と提案

この日の日記は、とても示唆に富むものである。 歳のいった人間は、幼い者を非常に低く見積もってしまう。自分の子どもについて、それは顕著であるが、この日の日記を読むと、それがいかに相手の尊厳を傷つけるものであるかが判る。 アンネが述べる「愛情」の部分は「人間という存在への尊重」という言葉をあてはめてもよいだろう。 とっても考えさせられ、また反省させられるものである。

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑧ アンネリーゼは成熟し、巣離れをする時季にはいっているのに・・・

脳科学者は「15歳は大人脳」だと言う。 アンネ(本名はアンネリーゼ)はこの時14歳であるが、あと数か月で15歳を迎える。 彼女が少々早熟であることを考えると、見た目は痩せた少女に見えたかもしれないが、中身はもう既に立派な大人なのである。 異性に焦がれ、自分をいつまでも「子ども扱い」する両親から離れる時季を迎えているのに、物理的にも精神的にも、それをさせてもらうことができず、苦しんでいることがうかがえる。 ちなみに「巣離れ」とは鳥がいったん巣を飛び立った後、自分の能力を吟味しな

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑦ プリミティブな人間の幸福に気付く

隠れ家から出られないという環境だったが、幸い屋根裏部屋からは裏の大きなマロニエだけでなく、アムステルダムの市街を見渡すことができた。 自分が愛し始めた人と、何も言葉を交わさずとも、プリミティブ(根源的な)人間の幸せというものを直感として感じ取っていることがうかがえる。

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑥ 家族の「子ども扱い」に苦しみ、自己昇華しようとする

洋の東西、時代の新旧を問わず、親や大人による「子ども扱い」という差別や存在に対する敬意の無さは、アンネの日記の中に喝破されている。 しかし、彼女は己に対する厳しい見方を忘れず、その苦しみを越えて自己昇華しようとしている点に、注目すべきであろう。

8月4日に、ミープ・ヒース著「思い出のアンネ・フランク」第三部「暗黒の日々」を読む

8月4日は、1944年にアンネ・フランクを含む8人が、アムステルダムの隠れ家からゲシュタポによって逮捕・連行された日である。 従って、今日全世界で2,500万部以上の発行部数を記録し、世界記憶遺産にも認定されている「アンネの日記」は、1944年8月1日の日記が最後となっている。 逮捕・連行された日が、8月4日であることを知っていたので、「アンネの日記」を読んでいる間も、8月の日記が近づいてくるに従って、胸が苦しくなったので、実際に彼女らが味わった恐怖というものは、いかばか

少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑤ ミープ・ヒース

アンネ達、8人のユダヤ人をかくまい、手助けしたのは、以下の引用に出てくる4人の一般オランダ市民だった。 もちろん、かくまった事がナチ親衛隊にばれると、自分たちにも命の危険が及んだのである。 私は、特に日記の中にミープ・ヒースという女性の名が頻繁に出てくることに気が付いた。 オーストリアで生まれたミープは幼い頃、実親が貧しく、子どもに十分な栄養を摂らせてやることができなかった為、裕福なオランダ人の家庭に引き取られ育ったという経歴を持っていた。 引き取った先のオランダ人家庭は、ミ