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#馬

ルーシー・ボストン著「グリーン・ノウの子どもたち」の中の馬のエピソード

「グリーン・ノウの子どもたち」は、1950(昭和25)年、イングランドのルーシー・M・ボストンによって執筆された。 歳をとってから執筆活動を始めたボストンが「グリーン・ノウの子どもたち」を書き上げたのは58歳の頃で、最初は大人向けとして書かれたものだったのだが、挿絵を入れるという条件は児童書でしかできなかったため、「グリーン・ノウの子どもたち」は、児童書として発刊された。 物語は、親と縁の薄いひとりの少年トーズランドが、クリスマス休暇に曾祖母の住む古い館で過ごすうちに、昔

「馬語」に関するデザイン

「馬語」に関するデザインというものを描いてみたいと常々思っていた。 もちろんそれは、言葉の内容ではなく、体の向きであったり、位置関係であったりスキンシップであったりする。

地底の記録ー呪詛 坑内馬と馬夫と女坑夫 ① 武松 輝男 著

目 次 1埋葬地 墓標のない埋葬地 2坑内馬 馬買い 鼠 石炭運搬 体高減少 3馬夫と女坑夫 坑夫募集 廃疾 賃金と生活 4人柱、馬柱 文柱 贄 栄光と没落 5あとがき 参考・引用文献一覧 墓標のない埋葬地  『坑内で死んだ馬が埋められたのは、あそこの、ほら、緑で覆われている小高い丘があるでしょ、ネ、あそこ一帯ですよ。  あんた、埋められたところを探しに行くとですか。それはやめた方がよか。あの緑で覆われたあたりはですナ、昔はずうっと丘が続いていたとです。それを

2023 長崎の対州馬ひん太 卓上カレンダー

【 カレンダーのつくりについて 】 *カレンダー本体は、A4のスケッチブックを半分に裁断したものに、FUJIFILM社の高品質プリント写真と日付部のシールを貼り付けたものに、厚紙で補強した完全ハンドクラフトのカレンダーです。 【 サイズ・枚数 】 表紙、裏表紙、および7枚(両面を使った各月12面) A5サイズ 【 デザインについて 】 各ページ、上半分に、対州馬ひん太のプリント紙プリント写真を貼り付けています。 (印刷ではありません) 下半分は、オリジナル・イラストと

やさしい木曽馬

「やさしい木曽馬」という子ども向けの本をご存知でしょうか?庄野 英二さん作で1983年に偕成社から「新編・絵本平和のために」シリーズの中の1冊として刊行されたものです。 この本は長野県木曽郡開田(かいだ)村という場所で本当にあった話を小学校低学年の子ども向けに絵本にしたものです。 木曽馬の産地であった開田村では、人と馬が同じ家で暮らしたばかりか、日当たりのよい南側に馬が住み、日当たりの悪い北側に人が暮らしたというほど馬を大事に家族のように育てていました。 山深く、冬に厳

中国の画家、徐悲鴻の描いた馬たち

中国の画家、徐悲鴻(じょひこう、1894年~1953年)の描いた馬たちの絵はすばらしい。 「馬の切手」を探していた時に目に留まったのは、ハンガリーの切手だったが、その図案となったのは、中国の画家であった故・徐悲鴻氏のもの。 切手の中には、「徐悲鴻」「馬年」の文字が見える。 これは、どうやら中国の人が描いたものだなとわかりました。 それにしても、どの馬の4つの図案も、本当の馬の生き生きとした表情(姿)が表されていて、このほど的確に馬を描いたものは他にはない。 徐悲鴻氏は私

浮世絵の中の馬 ① 「木曽海道六拾九次之内 軽井澤」

大好きな広重の浮世絵の中でも、好きな作品の1枚が「軽井澤」。 現在の軽井沢とは程遠い景色だが、寒々とした山村の中を行く馬上の旅人が、馬方と煙草の火を分け合いながら一服する姿が何とも人情味があってよい。 そんな人物が跨るからだろうか。馬は、「安心した」ポーズである頭部を低く下げて寛いでいる。

Live honesty like a horse

クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンク著「馬と踊ろう」”Dancing with horses"by Klaus ferdinand hempfling

馬の調教についての資料は、ほぼありません。あったとしてもそれは極々一部にしかあてはまらない事しか書いてありません。 そして、そのようなものに頼ろうとしない方が結局はいいのです。 しかし、馬は小~中型の在来馬でも体重が300kg前後あり、本気を出せば大人の男3~4人は簡単に引きずりまわす力を持っています。 なんの理論もイメージも持たずに調教に挑むのは無謀以外のなにものでもありません。 まずどんな馬にも当てはまることぐらいは、わかっていないと馬を修復不可能な状態にしてしま

竹久 夢二のライバルと言われた早逝の画家 渡辺 与平

長崎市出身の画家、渡辺 与平。(婿養子に入る前の姓は宮崎)明治22年~明治45年。 資料によって若干の誤差はありますが、22歳で咽頭結核と肺炎の為、死去とあります。 画家としての活動はおおよそ6年ぐらいでありながら、竹久夢二のライバルと言われた画家でした。 「郷土作家」というものに、特別なんら思いは、ない私ですが、それでもこの人の作品は実物をちゃんと見てみたいとずっと思っていました。 13歳にして京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、21歳で結婚、2児をもうけ、22歳にし