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責任って、なに?

お話のテーマっていうのは受け手である限り本来意識しなくてもいいものだ。それは作り手側が何かを作る際の指標として、自分が「何故これを作るのか」の理由付けをする時に企画・プロット段階で生み出されるものなので。作者や制作陣の思想に共鳴できたかどうかと、作品単体としての魅力はあまり関係してこないよなぁってのが視聴者としての俺の実感。テーマはほとんど作者側の思想に関わってくるワケで、他人とそう簡単に思想が合う訳ないから楽しむ効率的には意識しない方がアドまである。

……んだけどそんな器用に目つぶって生きれたら苦労しないんだね~。答えが分かってるのに何故悩むのか分からないみたいなこと平気で言える奴が死ぬほど嫌い。空ノパフェです。

よく燃える最近の繊細なネットの問題と絡めて、作者と作品を切り離して見ないのが理解できないって主張をよく見かけるようになった。応援していたアーティストが騒動を起こして嫌いになった結果、作品まで嫌いになっちゃう現象に対しての主張だ。言いたいことは分かるんだけど、作品をある程度以上まで好きになれば深堀りして作者の人格を知りたくなるって割と普通の感情だから、あんまりにも温度感がなさすぎる主張だよな~って感じがしてる。いや作品見る上で損する可能性があるとはいえ、人間そんな合理的な損得勘定でモノ見れます?無理だろ。

だから今から話すシンエヴァのテーマに関するちょっとした愚痴も、やっぱり「いや……そんなめんどくさいこと気にしなかったらいいだけの話っしょ(笑)」で終わる話です。上述したように、テーマは受け手が本来見る上で別に意識しなくていいとこだし。

その時の激情に任せてこんなの一本書くくらいには好きだし、アニメの歴史を振り返っても凄まじいクオリティのアニメを作ったなってのが俺のシンエヴァの感想だ。チョベリグ。まぢ感激。ありえん良さみが深い。次郎からのセイクで優勝せえへん?

だけど同時に、あんまりにも褒めそやされるけど納得いかない部分もあるよなくらいが、結構正直な所じゃない?人によってポイントは異なるだろうけど、俺はテーマの部分でちょっと引っかかっちゃった。もう劇場公開も終わって、粗方落ち着いてきた時期だ。2021年も終わる。冷静になった今もう一回シンエヴァの感想について腹割って話そうぜ。

本題

まあテーマ、つまるところ作品の中に込められてる思想、気に入らないよなあなんて文句つけるのが目的の記事なんだけど、シンエヴァ及び制作陣、特に監督の庵野が好きなのはマジ。何度も言うけど、劇場アニメの完成度としては本当に凄いと思っている。それは痛快娯楽アクションのエンタメとしても、なんだかアートめいた側面にしても。

現実と虚構の混同

庵野は押井守とは違うベクトルで、虚実混ざった感覚を映像に出力するのが凄い上手い監督だ。EOEで直接観客席を映した実写映像やファンレターから庵野に向けて書かれたインターネットの書き込み(よく2chの書き込みが元って言われるんだけどテレビ版エヴァ終了~旧劇制作当初はあめぞうすらないから、多分パソコン通信全盛の頃の連中の書き込み)を映したのがピックアップされがちなんだけど、「トップをねらえ!」で初監督をやった時から話の巨大なスケール感をモノクロアニメにすることで現実から乖離させ過ぎないようにする技法を使っている。

ガンバスターの何百倍もデカい宇宙怪獣がモノクロの塵に見えるスケール感
カラーの時にはなかった写真感が出ていてGOOD

また彼のインタビューを掘り起こせば何度か話されているが、どこかしら欠けたものに自身の父親と重ねあわせてリアリティを感じるらしく、DAICONⅢOPアニメの爆発してぶっこわれたパワードスーツの残骸から、ナウシカでぐっずぐずに崩れた巨神兵がプロトンビーム撃つシーンに至るまで、とにかく庵野作品には欠損、破壊、爆発、残骸みたいなものがよく描かれている。そういうの全部質感あって好きだったんだろうね。目にチョップされて死ぬほど痛がってるウルトラマンとか好きって言ってたし、常にカッコいい存在として撮られてるのに間抜けな仕草を見せるのが余計にウルトラマンの実在感を強めててよかったらしい。ナディアで見えない扉の向こうでカッコいいこと言って散ろうとしてたのに死ぬ直前になって「嫌だ死にたくない!」ってフェイトさんに叫ばせちゃったのもそういうことなの?

とにかくキャラクター造形や台詞、話の展開よりは映像、その見せ方に作家性が強く表れるタイプだ。アマチュアの芸大生だった頃から自由な作り方でアニメを作っていた経験からか、やってる素材は既存のもののオマージュで出来てるのに、全く新しい映像として見られる所がこの人の作品の共通して凄い所だろう。展開こそ新しい試みが見られたもののどっか大御所感が出ちゃって、凄いは凄いけどもうテレビシリーズや旧劇みたいな新しいアニメとしてのワクワク感みたいなのはなくなっちゃったよな~と新劇に対して思う層は恐らくこういう所から派生しているんだろう。

「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」ってのは序の制作時点ではそうだったかもしんないんだけどさ。じゃあエヴァから派生したナデシコやらラーゼフォンやら達といざ制作された新劇と比べた時に新しさって……なに?って正直思わなかった?「エヴァの呪縛」なんて言って14歳の身体のまま成長しなくなったアスカをそのまんま描いちゃってたけど、エヴァによって解放されるまでもなく経った年月が退廃ブームもセカイ系論も終わらせてたしなぁ。興行収入とは別に、良くも悪くもデカすぎた影響力は時間をかけてゆっくり薄まってるような体感があった。面白いけどもう古いアニメとして見るしかなかったのが、俺のエヴァに対する正直なところ。

だったんだけど、熱いことにシンエヴァは大御所から最先端のアニメに帰ってきてくれた。3DCGを意図的にチープに使う、テレビ版とか旧劇でやってたような演出をもう一回やってみせた点も大興奮だったけど、何より「テーマ」と「アニメの作り方」と「お話の展開」の三つを全部リンクさせて完成させたのはマジで凄い。テーマと話の展開が綺麗にシンクロしていて気持ちがいい作品はある。この三つの中で二つまでリンクしてる作品はともかく、三つ全てリンクして作られた作品を俺は他に知らない。

絵コンテを使わずにプリヴィズで~ってのとか、あんな高そうなミニチュアまで作って構図を探ってみたり、実写のアプローチで作ってたって話はもうするまでもないよな有名だし。昔制作が間に合わなくて原画どころか絵コンテのまんま予告流したりしてたけど、シンエヴァの終盤でも設定から地に足着いたまま原画、絵コンテの状態の絵を無理矢理動かす、みたいな地味に凄い高等技術で演出に昇華するとか、虚構だと分かった上で見るアニメーションにも愛おしさを見出せるように色んな趣向が凝られてた。

「お話の展開」「アニメの作り方」「テーマ」が、現実は虚構と断絶された場所じゃなくて、繋がった場所にあるってのを終始表現する為のものとして機能しあっているのが最高にクール。現実と虚構の間にグラデーションを用意できなかった旧劇の時代じゃできなかったことだよな。ここまでが満足した部分ね。まぁヨイショはいいかな、こんくらいで。

責任の範囲

こっからがえ~~~ってなったとこなんだけど、子の世代になんもかんもを託しすぎてないか?お年を召された巨匠連中はいっっっっつもそう!!!!!!!!おい。

こうやって見るとシンエヴァの画角ってだーいぶ横長だね

いや分かるよ。東日本大震災凄かったね。あんま社会問題の話はしたくない(正直深く興味を持てないし、そこまで意識高くして生きてく余裕がない。こういう話すると話の中心がコンテンツからズレてくのも嫌)けど、復興の様子だの津波みたいなエヴァインフィニティの映像見せられたらまあメッセージめいたのを込めてるのは確実だし深堀していく際には触れないワケにはいかないだろう。シンゴジラでもやってたけど、要するに社会を担っていく人が辛いからって責任を放棄すると本当にロクなことにならないのは庵野の一本通った考えなんだと思う。

庵野は創作が持つ責任みたいなのとずっと向き合ってた人な訳だし、現実に立ち返る、自分の意思で選択して傷ついても責任を負う意識がなきゃ残された希望は見えてこないってのを繰り返し主張するのも、まあ分かる。「ヤマアラシのジレンマ」に対する実質的な解答だったね、相補性のある世界を望むってやつ。

でもなーんかメッセージを託される側に立ってみると、背負わなくてもいいような責任まで負わされてない?って感覚が拭えない。劇中なら、シンジがアスカを助けることも殺すことも選ばなかったことに対して明確に悪い事だったと描いてると思うんだけど、いやそんな唐突に選べ言われても……だろ。昔から思ってたけどエヴァって14歳相手に半ば脅迫的な状況で無理矢理選択させたことに対しての責任の問い詰め方が凄すぎる。

環境問題みたいなテーマにしても、実際環境に問題あることしてきた、そのシステムを構築してきたのは俺らより断然上の世代で、それに対して君ら若い世代が責任意識をもってなんとかしていかなくちゃならないみたいなバトン渡されると途端にうへ~となる。親世代はミサトさんもゲンドウもユイも冬月も大体は親だとか教え導く立場の人間の責務に向き合って死んでく訳だけど、こう、庵野ら巨匠の方々らの世代はもう歳だから死んじゃうけど、せめて未来に繋いでくれ~って厄介事放り投げられた気分。

そこで「僕には関係ないよ!」したところで「君には関係なくても他人からはあるのさ」ってなるし、社会で生きてる以上、消費優先の生活をする国に生まれ、そういう生活をしてるからには責任が発生するみたいな話って理屈は分かるけど納得できないよな。割り食わされてんのはこっちなのに、デカいツラかまされてる感がねぇ、嫌。エヴァは大人世代だって不完全なままところを抱えたまま歳を重ねてるんだし、完璧に子供世代を気にかけて導くなんか難しいでしょってのを描いたのが魅力ともいえるんだけど、にしたって他人に尻ぬぐいさせながらしていいツラのデカさじゃない時ってあるよ。こういう話をするとミサトがよくやり玉にあげられるけど、ミサトは普通に好きです。別にシンジらに任せっきりって訳じゃなく一番体当たりで一緒に戦ってた人なので。

自己責任の範囲が広すぎる。エヴァは。じゃあどういう言い方なら良かったんだよって話だけど、それこそ「天気の子」の主張の仕方だったら納得できたんだよな。

「天気の子」で帆高が「世界か女の子か」で「陽菜」を選択した代償として周りは尻ぬぐいをさせられているのが気に入らないって意見を見ることがあるんだけど、俺はこれに関してもうちょっと違う見方出来るんじゃないかなと思っている。

っていうのも、天気の子の世界は、社会の中で全員が全員それぞれ割りを食いながらも生きてる、その中にいる人々の様子を細かく描いた作品だからだ。「最近の子供たちは可哀想。昔は春も夏も素敵な景色だったのに……」という同情の言葉をバッグに、田端駅南口の坂道で帆高が天使の梯子に目を奪われたように。東京が冠水しようが雨の中、学生たちが花見を楽しみにしていたように。ラブホの中の食事シーンで、豪勢って雰囲気出してる割りにはしょぼいよねとか、これで豪華な食事だと感じるってのは可哀想だとか同情の声をネットでよく目にしたんだけど、同情される側からしたらその感覚が当たり前で、なんだかそのチグハグさが面白かったね。

勿論帆高や陽菜たちの世代は割りを食わされてる可哀想な貧困世代ともいえるんだけど、肝心のその世界に生きる人間たちってじゃあ悲観的にずーっと生きてるかっていうとそうじゃなくって、それでも何かしらの喜びを見つけて適応していく姿が印象的に描かれている。各々が適応していく中でほんの少しずつ社会を、そして大きな社会のシステムが世界を変えていってるのだ。帆高や陽菜に限らず、世界の人々全員が世界を変えている。結果的にどういう選択を取ろうが、どこかで割りを食わされる世代ってのは出てくるワケ。

だからその世代が成長して世界を変えたとしても、昔から世界ってずっとそうやって続いてるもんなんだから気に病む必要ないんじゃないの?ってのを立花のおばあちゃん、そして須賀さんが代表して提示してくれた。その上で、「いや、僕は、僕たちは確かに世界を変えたんだ。僕は選んだんだ。この人を、この世界を、ここで生きていくことを!」って再度責任の主体を自分たちと捉えた。そうやって人々が生きていく限り「僕たちはきっと、大丈夫だ」につなげたのが「天気の子」だ。

ただ昔のセカイ系っぽい物語のフォーマットを踏襲してるからだとか、単純なハッピーエンドじゃないからってだけじゃない。田端駅南口の坂道で、空の代わりに陽菜の顔が晴れて桜が舞う。雪が降って止まっちゃった二人の時間が、春になって解けるあのシーンの塩梅がほしかった。次の世代だなんて言わないで、一回引いてそれぞれがそれぞれの立場で責任を感じ合い、変わり果てて生きづらい世界でも一瞬の晴れ間みたいな出来事の連続で人々はなんだかんだ乗り越えていくよねっていう、この塩梅。カップリング云々とかは正直どうでもよくて、この一点だけがずっとシンエヴァに引っかかってた。

何度も言うけどテーマは視聴者が別に意識しなくてもいいものだ。これは俺が勝手に見出して嫌になったに過ぎない……んだけど、何が好きかを明確にするにはどこが気に入らなかったかも明確にしないと、結局なにか言ってるようでなんにも言ってないようなことしか話せないよな~と思い、一回全部ぶつけて書くことにした。相当メンドクサイ見方だし、こういう見方をしてると作品に対して単純に肯定をすることが出来ないこだわり強めの繊細なお客さんが完成する。マジで最悪。

最悪なんだけど人格攻撃だったり誹謗中傷でない限り、微妙だった~って言える権利が幸いこの国にはある。どうせ全肯定だろうと気持ち悪がられてんだから、いっぺんみんなもアニメを深堀してしゃぶりつくす際にやってみない?口臭いから近寄んな?ああそう……。

気をつけるようにしていたらただ喋れなくなっていた

余談 エロゲの宣伝

まったく関係ないんだけど、今DLsiteのウィンターセールで瀬戸口廉也の「SWAN SONG」、タカヒロの「つよきす」、健速の「こなたよりかなたまで」がそれぞれ500円で売られてるから面白い話が読みたいなら是非買ってください。全て名作です。買え。




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