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最も居場所のない人種は「真面目な性格のひきこもり」かも知れない

私が見てきた光景

私は人生の内でかれこれ10年くらいはひきこもりとして生きており、その内でも多くの時間をネット上での「他者とのコミュニケーション」に費やしてきた経歴がある。当事者としてそんな体験を経てきた私が思うに、現代日本で最も生き辛い人種とは即ち「真面目な性格のひきこもり」ではないかと。

便宜上、ひきこもり界隈とでも称させていただこうか。とにかくスカイプ、ディスコード、ジモティー、メンパルなどの有名サービスにしてみても、それぞれで無職やひきこもりに特化したコミュニティが自然と形成されているもので、特に新参のひきこもりであれば藁にも縋る思いでそうした場に飛び込んでいくことだろう。しかしこれは非常に残酷な話なのだが、そのような空間でさえもまた「社会の歪み」みたいなものが待ち受けている。下のまた下の世界である分、むしろ現実社会のそれよりも凝縮された、漆黒の汚泥が広がっているとでもいうべきか…。

まず、俗に「出会い厨」と呼ばれる異性との接触のみを至上の目的として活動している輩が大勢居る。精神的な疲弊者が集う空間でさえもだ。「そういう目的なら最初から出会い系サイトに行けよ」という正気の声も上がるものだが、輩がそんな声に対して首を縦に振るわけもないのは、そもそも"上半身が無い"からである。場合にもよるが、経験則としてだいたいどの空間も80%くらいはそうした輩で占められているものだ。性的に活力があり、異性を求めて行動できる事自体は心身の回復の証だろうし、実際すごく良いことだと思う。そういうわけで、いやはや、大変よろしゅうございます。まことにお盛んですねと褒めてやりたい気持ちは山々なのだが、普通に人と人との交流を求めているネットユーザーにしてみると、そうした輩の一挙一動が10にも100にも増長して障害となり、空間を破壊していくので笑えない。この全体構造自体を冷静に俯瞰してみると、めちゃくちゃ面白いかもしれないが…。

上記したような出会い厨が80%を占めるとすれば、残りの約20%は軽いノリで暇つぶしに来ている人々、並びに状況の改善を目指す姿勢を持たない極度に悲観的な人々であることが相場である。進んで空間を破壊してしまう出会い厨などと比較すれば、彼らが雲泥の差で善良な存在であることは間違いないが、このようにしてものの見事に「真面目な性格のひきこもり」は"例外"の存在となってしまっており、居場所が無いのである。彼らの占める割合は、ひきこもり系コミュニティの中でもせいぜい1%といった体感だ。そうであれば、彼らのような人種はそうした光景を目の当たりにして更に絶望し、ネット上でのコミュニケーションを完全に諦めてしまう可能性が大きい。(もし現実で動ける気力を持たない人間がそうなった場合にどうなってしまうかはあまり考えたくはない…)

私の様に長年ネットのコミュニティを這いずっていると、どこもかしこも出会い厨ばかりであることや、物事に真剣に向き合おうとしている人間が全くと言ってよい程不在であることへの悲嘆の声が漏れ聞こえてくることが度々ある。非常に気の毒の話だ。私からすると、彼らのように真面目な人々こそが本来なら多数派であるべきだと認知しているのだが…。あまりにも数が少ないので、真面目な人々とはほとんど既に亡くなってしまっているのではないかと推察することもある。一抹の望みに賭け、縋った先でも不真面目な空間が広がっているのだから、そうなっていてもおかしくはないだろうと。

彼らの中には、少数派だとわかっておきながらも意を決して場にも馴染もうと尽力する者も居る。それでも大抵の場合、空間準拠の例外であるというだけでそれとなく冷遇を受け続けたり、その真面目さに付け込まれて「利用される」ような人間関係に着地してしまった結果、最終的には身が持たずに潰れてしまいがちだ。私はそうした光景を見ていると、あの義務教育時代の「学級」に於ける人間関係の図式が、ネットの中の精神困窮者の世界という路地裏の領域にまでフラクタル的に続いてきているように感じられて、大変に興味深いような、それでいて末恐ろしい心地になってくる。

彼らが孤独感を解消するにはどのような方法が最善なのか。
また、彼らのような人々に出会った際はどのように接するべきか。
個人として考えさせられることは多い。

「真面目なひきこもり」へのメッセージ

取り上げさせていただいた、まさに「真面目なひきこもり」に該当する方がこの記事を読んでくれているかも知れないので、私からの細やかな激励も併せてお伝えさせていただこうと思う。

まず初めに言いたいのは、自責に傾倒し過ぎないで欲しいということだ。実際にここ現代日本の社会とは、至る所が悪魔主義的な不誠実と不真面目さに溢れ返っており、言ってしまえば狂っているのは社会の方だ。そうなってしまった理由としては長きに渡る民族間の闘争や戦争といった歴史の闇があることを予感しているが、そこは記事の主題から逸れるので割愛させていただこう。歴史上、かつて無いほどに精神病患者が増えている。しかもこれは特定地域や特定教義の人間に限って起きておらず、日本全域に及ぶ問題である。なので、もはや自己責任なんて甘っちょろい話ではなく、社会全体に重篤な不具合が生じている証明と言えるだろう。つまりそういうことなのである。

しかしながら、生命体とは古来より度重なる苦難の波を生き抜いてきた。恐竜という絶対強者が闊歩する地表を隠れ住んできた哺乳類の先祖たちにしてみれば、絶望などたかが人生の開始地点に過ぎなかったのだ。それでご覧あれ、あのアスファルトさえも貫いて生え揃う雑草を。生命とは輝かしい狂気である。自身が少数派であることを卑下しているようでは、あらゆる生物に突然変異など起き得なかっただろう。もはやシラフで世界と向き合うだけの勇気が尽きたというならば、狂気と共に邁進すれば良い。

お節介かも知れないが、その身と心が自分だけの為にあると考えているようならばまだまだ視野が狭いと言わざるを得ない。今日の世界は人で溢れ返っているように見えて、実は個々の事象や人物に対する観測者は深刻なまでの不足状態にある。これは、私達人間の関心の方向性や、認知の種類にそれぞれ個性的な差異があるからであろう。つまり、物質的には同じ世界で生きているように見えて、アクセスできる領域は個体ごとに異なっている。それ故に、固有の苦しみに打ちひしがれている誰かを救うことは、同じ苦しみを知る特定の人間にしか成しえなかったりする。

つまり、真面目な君たちであれば、同じように真面目な誰かが苦しんでいるのを認識し、救う事が出来る。同じ苦しみを持つ者たちが、互いの存在を知らぬままにして自らを「孤独だ」と思い込んだまま死んでいくことはあまりにも寂しいとは思わないだろうか。どうか彼らの声なき声を辿り、見付け出してあげて欲しい。その為にも強く生きてゆくべきだ。







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