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【詩】換気扇の宇宙

午前0時。

ちょうど日付を跨いだ頃。

洗面所に立って、歯ブラシを手に取る。

鏡には疲れた顔の、冴えない男。

「そうか、これが自分か」と思い出す。

いつもそうである。

墨汁で描いたような、目の下の隈。

そろそろ髪が伸びてきたな、と思う。

「床屋に行こうか」と湧いた案を

「億劫なので、まだいいや」とすぐに打ち消す。

歯を磨く男を眺めている。

「間抜けな顔だな」と思う。

ゴーという音が聞こえる。

静かな夜には換気扇がよく響くらしい。

ゴー……。

ゴー……。

友達と待ち合わせをして、空が赤く染まるまで海峡で喋ったあの日の記憶。

帰り道は、薄暗い中を自転車で走った。

頬を打つ潮風が冷たくて、何だか無性に不安になった。

入り乱れる車のランプや、規則的に並ぶ数えきれない街灯の絨毯

遠くに並ぶマンションの灯りたちが、いやに豪華で綺麗だった。

……いや、そんな記憶は私には無かった。

ベッドに下に仕舞った箱から、古いラブレターを取り出す美人。

もう何度も読んでくたびれたラブレターを握り締め

安否の知れない恋人の行方を案じている。

……いや、そんな記憶は私には無かった。

作家を目指す青年の、ペンがコツコツと机を鳴らす。

曇った眼鏡を気まぐれに拭くも、休憩のコーヒーでまた曇る。

その内に、悪戯な影が障子を伝ってくる。

現れたのは、「にいに」と発してじゃれてくる、まだ幼い妹。

……いや、そんな記憶は私には無かった。

夫に先立たれた老婦人。

夫が好きだったお菓子と酒を、仏壇に上げるのを欠かさない。

「テレビなんて点けたらね、却って寂しいのよね」と悲しげに微笑んだ。

切ない気持ちが胸に込み上げてきて、私は言葉に詰まってしまった。

それを誤魔化すように、出されたミカンを剝いて口に運んだ。

……いや、そんな記憶は私には無かった。

これらは一体誰の記憶だろうか……?

ゴー……。

ゴー……。

「誰の記憶でもいいか」と私は結論する。

ゴー……。

ゴー……。

誰の記憶かは問題にならないくらい

私はとにかくそれらの細微な情感に胸を打たれていた。

この世界の細かな仕組みは知らないが

生まれてくるだけの価値はあるなと確かに思えた。


このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)