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外にひきこもる男

日当たりが悪く日中も薄暗い部屋の中
疲れ切った目をギュッと瞑っては脱力し
渋々とモニターの電源を切って
やがて窓から差し込む仄かな陽光の姿に気付き
「有能」とも「無能」とも言い難い
しかし確かな実在感を帯びたその色合いの細微を
ボーっと眺めているのもまた良い時間です。

ホロの心象(Xアカウント)

飛び出すひきこもり

「散歩」の習慣もすっかり定着しました。

考えに行き詰まった時はあたかも現実逃避をするかのように、暗い自室からモゾモゾと這ってきて、玄関を飛び出すことが増えて参りました。こうして書き出してみると、昆虫の生態の一種類かのようです。

ところが、この時期は土まで焼きそうな炎天下が続いており、夏の風情である小さな騒音機たちも流石に路上でひっくり返り、「これはもう仕方ない」と観念した様子で微動だにせず、白目を剥いて無心の「南無阿弥陀仏」を唱え続けております。

しばらくの間「外が快適な逃避先だ」とは言い難い状況でしょう。

ちなみに脚を開いている者はまだこの世に執着があるため近付くと騒ぎ出し、空を抱くように合掌している者は、みな諦めがついて仏様になっているようです。嗚呼、もののあわれ……。

見慣れた玄関を出て、空の明るさに驚き、やがて目は慣れ、街路樹を幾つか目撃し、ぬるいどころか熱風に頬を撫でられながら、踏切を渡る。

微かに視界が揺らぐまでの暑さです。とはいえ、歩いている内に血液は巡り、頭の中にあった考えが整理されてきます。

何から逃げてきたか?

実を言うとつい先程まで、自室のPCから求人情報を眺めていました。

元々私は長期ひきこもりという身の上もあり「リハビリを」「脳機能の回復を」と何かにつけて躍起になっている人間でした。

ここnoteのアカウントも当初は「脳機能のリハビリ」を進める為に開設したものです。

煮え滾るほどのリハビリ欲(ひきこもりにしては……)。

それがこの頃ようやく一段落ついてくれたのか、今度は「経済力を」「自立した生活力を」という焦燥感に切り替わっております。正直、こっちはこっちで心が折れそうになることも多いのですが、これもまた一つ回復の段階が進んだ証として喜ぶべき現象なのでしょう。

20代の頃は日々加速する不健康、希死念慮と戦い、ただ生きるだけのことに必死でしたから……。

夢のマシン→宿題

もはや重くなって文字入力も怪しいPCを渋々と立ち上げ、おおよそ実家から近い圏内で現在募集が出されている契約社員、アルバイトの案件をスクロールしてゆきます。

マウスに付いた車輪を回転させ、画面を読み進める魔術。

スクロールとは?

度々スクロールする指を止めはするものの、冷静に眺めてみればその仕事が一週間と続く未来が思い浮かばず、小さな落胆と共にスクロールを再開する。そんな繰り返しを約30分間続けた後、どうにも嫌気が差してPCの画面を消してしまうのです。

「全く情けない人間だな」という自責、「そもそも、よほど労働が嫌なのではないか?」という疑念。そんなものにしばらく頭を抱えた後、行き場に困って散歩に出掛けるのが恒例になっています。

ひきこもりの私にとって、ネット接続がなされたPCとはまさに「夢のマシン」でした。

自室に居ながらにして世界中のニュースを知れますし、娯楽から教養までジャンルも豊富に取り揃えられたコンテンツがほぼ無料で手に入ってしまいます。果てには、ネットを通して「他人と関わる」という奇跡まで……。

ひきこもり同士で、互いが自室に居ながらにして会話を成すという、昔では「そんな夢物語を妄想している暇があったら外に出ろ!」と一蹴されてしまっていたであろう"そんな夢物語"が今日、目の前で実現しているわけです。もうだいぶ慣れてしまいましたが(笑)

そんな風に「夢のマシン」だったPCなのですが、近頃の私にとっては「稼業に向き合う為の無機質な機械」へと変わり果ててしまいました。

これは私が下手に「サイト運営による広告収入」なんかに手を出してしまったせいもあるのでしょう。恐らく社会人よりも膨大な作業量をこなしておきながら、社会人には遠く及ばないせいぜい月千円程度のあぶく銭しか稼げず、もうだいぶウンザリしてきているのです。

個人で、しかも元手無しでお金を稼ぐ行為は本当に難しい。それを肌身で実感しております。

そういうわけで、今の私にとってのPCとは細々と割の合わない稼業に勤しむ為の箱であり、求人情報と睨めっこする為の億劫な箱なのであります。

滅びる為に繋がる

「社会経験」や「教養」といった不純物が邪魔をしてこない分、奇抜な発想をするのはひきこもり唯一のお家芸でございます。

灼熱とはいえ愛すべき自然界への逃避行の中で、今回はこんな発想が出てきました。

それは、「世界とは、情報をむやみやたらに繋げていった先で滅びるようになっているのではないか?」というものです。

今日は世界中がインターネットと呼ばれる情報網で繋がりました。その結果、我々はモニターを前にして各地の「朝」を味わい続けることも、各地の「悲劇」に心を痛め続けることも可能になりました。

夜でありながら常に「朝」を味わい続けられる。

個人個人はそれぞれの人生の内で相応の喜怒哀楽を繰り返し、万華鏡の如くくるくると心を回し続けているのが本来ですが、常に「哀」であり続けられる。

(ちなみにニュースに「悲劇」が多くなるのは人の性質上の問題で、悲しい事件、辛い事件ほど関心を引いて閲覧数が上がるようになっているからです)

一方で、人間の「脳みそ」という器官は発生から日が浅く、まだ原始時代から変化してないと言われています。

つまり、日々世界中の悲劇が押し寄せてくるという今の状況は、個体にとってあまりにも過負荷が続いている状態なのではないでしょうか?

個々人の精神的な健康以外に、「政治」や「経済」といった分野でも、結びついた分で、各国は常に他国の悲劇に引っ張りまわされるようになっています。同時に「誰かを除け者にして虐める」という構図も可能になりました。

「知らぬが仏」などという言葉もありますが、人間にとってはせいぜい村や町といった規模の情報享受が限界であり、実はそれ以上は脳自体が対応していないのではないか?

もう少し深堀りすると、「情報」という物事はそれが起きる「位置」とも密接に結びついており、例えば島内で目にした情報はもちろんのこと、石ころ一つとして持ち出し厳禁である日本の禁足地「沖ノ島」が存在しているように、情報とは本来、位置情報やその限定性を考慮して取り扱わなければならない重大なものなのではないか。そうした敬虔な態度こそが、結果的に個々人の精神を守り、同時に地球環境を守る為の節度となるのではないか?

つまり、「情報」とはただ知識欲に駆られ、ジャンクフードの如く食い漁って良いものでは全く無かったのではないか? そうした危惧が、不意に頭の中に生じたのです。

情報の限定性に人生を守られたこと。知らなかったからこそ幸せに生きる道が見つかったこと。もしかすると、皆さんにもそういった経験があるのではないでしょうか。

例えば私が現代っ子だったとして、子供の頃から1%以下の勝者が牛耳るYouTuberの世界などを憧れの対象として見せられていた場合、今よりもだいぶ悲惨な人間になっていたのではないかと恐ろしくなります。

沢山の情報を仕入れて、知識を増やすことは無条件で「善」とされている現代ではありますが、ひきこもりであればこそ、引き続きそういった根本の部分から疑ってみようと思います。

このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)