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私たちの"神"とは何か?


「神とは一体何者なのか?」

神とは一体何者なのか。
これは人生の内で、誰もが一度くらいは抱いたことのある問いだろう。

これについての私の見解を、いきなり核心部分から話させていただく。

神とは何か、それは…

我々のような人格を持たず
とにかく"わけがわからない"もの。

そしてあまりにも大きな力を持っており
時には我々の警戒対象となる。
時には我々を助けてもくれる。

ひとたび機嫌を損ねれば暴れ出し
丁重に扱えばどこまでも慈悲深く包み込んでくれる。
気まぐれに豊穣を齎し続けるもの。
その足跡にさえも、絶え間なく畏怖を生じさせるもの。

誠に理解不能の存在でありながら
我々と共生可能であり
恐ろしいと同時に愛おしくもあり
心の底から尊く感じられるもの。

ホロ9の所感

非常に曖昧な伝え方になってしまい恐縮だが
私個人がこの古き日本の地に広がる自然の景観や
辛うじて口伝を通じ生き延びてくれた古い思想たち
そして古神道、日本書紀、土着の自然信仰らを参考とし
私なりに抽出した、この国で「神」と称されるものの性質が上記である。

神秘たる「不可解性」そして「強大な力」という要素は
やはり神たる自然より生じた植物たちにも色濃く反映されているし
我々個々の人間たちにも、その性質が部分的に備わって見える。
どこまでいっても「カエルの子はカエル」ということだろうか。

ここでちょっと余談だが…
人間の持つ「感情」という仕組みは
自然界の「天気」をモチーフに組み上げられている疑惑がある。
人が喜ぶ様はパッと明るい快晴の空模様と重なり
激怒すれば雷と同じく、大きな音が鳴る。
悲しめば心は曇り、雨と同じく涙が降る。
(人が涙を流す理由は科学的に未解明とされているが、雨を模している?)
そしてひとしきり泣いた後は、土は乾いて固まるし
運が良ければ虹が出る。あの光景の放つ安心感といえば筆舌に尽くし難い。

西洋的価値観の…
「人格を持って人前に現れ、人の言葉を使って指示する神」という
人間界でいう大統領のような神々の方がより記号的でわかりやすいせいだとは思うが、国内外を問わず、巷では今はもうそっちの神様でばかり溢れ返っている。この現状に私は口惜しさを覚える。人々の生活上の考えや、物語にしてもそうだ。

しかしそもそも、私たち日本人の世界観、価値観といった精神性の基軸を成すものは、古い日本の信仰と地続きになってきただろうし、それだけに外来の思想よりも遥かに身に馴染むものだと思う。現代ではそうした日本古来の信仰が蔑ろにされてしまった(或いは形骸化し、追いやられてしまった)結果、人々は元々の精神の支柱だったものを損ない、生活上のそこかしこで言葉にならないまでの違和感を感じたり、生き辛さを感じてしまっているのではないか。そのように危惧することがある。

"自然観"に見る「東洋」「西洋」の根本的な違い

日本にはそもそも「自然(nature)」という言葉自体が存在しなかったことからも仄めかされているように、ここ東洋の地の自然観と言えば「自然=人間」という風に、広大な森や川などの自然空間を即ち、自身らと同一の存在として見据えているところがある。この地の人々にとっては、人間もまた自然の一部なのである。従って、森や川が破壊されることは、人間自身が破壊されていっている危機であると認識されてきたと思われる。

有名なアニメ映画「もののけ姫」と言えば私が幼い頃から好きだった作品で、もう10回は繰り返し視聴してきたものだが、あれも改めて要素として見てみると「人間と自然は対立的な存在であり、人の発展の先に自然が牙を剥いて襲い掛かってくる」という構成が、実は西洋的な価値観に基づいて製作されたものではないか?と、個人的に新しい発見を感じているこの頃だ。

「自然=人間」という東洋の自然観とは対照的に、西洋の自然観といえば「人と自然はそもそも対立的な存在であり、自然は人の手によって打ち負かし、征服し、その恵みを勝ち取るべきものである」とされている。このいかにも分断的で、対処的なものの見方というのは自然観という分野のみに留まらず、西洋全般の医療や創作物、国策に於いてまで広く見られる特性であるように感じられる。

以上、洋の東西の差異について、本当にざっくりと説明させていただいたのだが、いかがだっただろうか? 地球、どころかこの世界全体を占めている「自然」という存在に臨む際の姿勢は、国ごとの文化的性格を如実に露見させている気がしてならない。その即ち「自然観」に着目した上で、各国の思想や表現物を眺めてみると「東西」という大きな区分け以上に、また新しい発見が出てきそうだ。全ての物事には原因があり、それに基づいた結果があるが故に。

しつこいようだが…
おさらいの意味も込めて今度は「東洋医学」「西洋医学」といった
それぞれの医学思想の対比についてご紹介しておきたい。
・「東洋医学」全体の調和を重視する
・「西洋医学」部分的な対処を重視する

例えば人間の腕や足に明らかな外傷がある場合、西洋医学が非常に有効に働く。そういう時は速やかに局所の出血を止め、縫い合わせ、傷を悪化させないように保護処置を取る必要があるからだ。なるべく迅速に。一方で生活習慣病などといった、局所的な症状よりも全体の不調和が病気の原因になっている場合は東洋医学が極めて有効になってくる。局所的な対処よりも、心身や習慣を含めた"全体の治癒"が必要になってくるからだ。

このようにそれぞれの医学思想に得手不得手があることを踏まえた上で、地球で生きる一人の住民としてはそれら両方が尊重され、常に選択可能な社会であることが望ましいが、非常に残念なことに一方は権威によって手厚く保護・推奨され、もう一方は健康保険の適応範囲が限定的で、「保険外し」などの政策で実質的に迫害を受けている現状がある。どちらがどちらの立ち位置にあるかは、ご想像にお任せしたい…。

子供たちに見る神々

子供は怖い。
放っておけば幾らでも怪我や事故を引き起こす。
大人達が必死で冷や汗流しながら築いた建前の世界を
平気でぶち壊してくる。
好奇心で真実を振りかざしてくる。
そうかと思えば、誰これ構わず無垢な笑顔を振りまいて
後ろ姿でさえ花咲かせたりする。
彼らに"八百万の神々"の真髄を見た。

※自身の過去ツイートから持ってきたものです。

神は人の手の芸術を喜ばれる

ここからはちょっとオカルトな話…。
「人が住んでいない家はダメになる」というのは
実に不思議な現象であると同時に、我が国で広く伝わっている話でもある。

この現象について、神の存在を踏まえてスピリチュアル的に考えてみる。
すると、神は人が居る間だけはその空間を保持するために「循環(自然界のものはすぐに壊れて土に還っていく)」から一時的に切り離して、住まう人々が出来るだけ快適であるように心配りしてくださっている…という発想が出来てくるわけだ。そして、住む人が誰も居なくなった暁には、神の使われる風や植物たちの抱擁に包まれ、家は再び「循環」の輪に帰り、瓦解してゆく。役に立つかどうかはさておき、こんな風に考えてみても面白い。

もう一つ、神々は純粋に人の手によって創り出される「芸術」というものを、大層喜んでいらっしゃるのではないか?と私はなんとなく感じることがある。例えばこの地球上の各地には神へと音楽や踊り、独自の料理、そして言葉を奉納する文化が存在している。しかし芸術とはいずれにしても、生物の生命活動とはほとんど無関係の長物だ。そうでありながらも、人々はいつの時代であっても芸術を尊敬し、高みとし、目指し、そして神に奉納しようとする。ちなみにこの時点で既に「人間は遺伝子を残す為だけに生きている」という説は清々しく崩壊すると私は思っている。

神は大規模に自らの命を吹き込み、大地に豊穣を齎すことは出来ても
芸術など、人の手のサイズの細かい作業は不得手なのでは…?
創作の世界に於いて「神は細部に宿る」という言葉が浸透しているが
あれもまた神々が大層喜ばれて祝福してくださるが故に
細かな部分に拘った作品は、作品全体に「箔が付く」のではないだろうか。

つまり、上記で挙げた「家」の件も、神々が家を一種の芸術作品として寵愛され、最後には有り余る力を以て抱擁なさるという面白い見方も出来そうだ。実際のことはわからないが、そんな風にロマンに浸ることも楽しい。そんなロマン溢れる思索を踏まえて、オチにちょっと怖い話だが、例えば山中の廃屋などで、誰も人が住んでいないにも関わらず長い年月が経っても何故かなかなか朽ちないままで、それどころか生活感さえ感じられるような物件。そんな場所には、"まだ誰かが住んでいる"のかも知れない。

おわりに

最後まで読んでくださってありがとうございます。
「神は人の手の規模の作業や芸術を不得手とされている」仮にこれが正しいのであれば、私たち人類という存在は、実は神が「人間サイズ」の行動をなすがために魂を細かく分割され、形を変えて降りてきた存在であると同時に、気の遠くなるような太古から計画され(大規模に力を注ぎながらであれば、試行錯誤がさぞ大変だったことでしょう…)それがようやく成って送り出された姿なのかも知れません。だとすれば、私たち自身もまた神に連なる崇高な存在であり、神の悲願でもあり、また神自身に他なりません。このような発想は、日本各地で古来より「鏡」が御神体とされている謎とも繋がってくるのではないでしょうか(センスがある人ならば或いは、鏡を通して見る自身の姿の奥に、根源となった"母体"の存在を知覚できるのかも…)だとすれば、根源の大きな母体である神を信仰したり、祈ることは親孝行と同じく尊い行為であると言えます。そうすることで力が湧き出るように設計されていたとしてもおかしくありません。人間という特有の大きさと特有の能力で、目的を持って生まれてきた私たち。だとすれば私たちは互いを尊重し、異なる個性で補い合い、困窮する心清き個体には慈悲をかけ、神を滅ぼさんとする邪悪を払い、存続すべきを守り、なすべきことを思い出さねばなりません。

本記事は、神学や宗教学を本格的に学んだわけでもない素人(しかもひきこもり)の雑感に過ぎないため、その道に詳しい方々からすればほとんど無意味な文章の羅列に映るであろうことが予測されます。それでも、神なる"目に見えぬ神秘"に思いを馳せるこの気持ちは私なりに誠意を持って紡いでおりまして、素人なりの七転八倒の景にも幾らかはそれ特有の味わいがあるのではないかということで、何卒ご笑覧いただければと思います。

それでは、八百万の神々である皆様
今回も最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。


このボタンから所謂"投げ銭"が行えるようです。物好きな方にオススメしておきます(笑)