『猫を棄てる』を読んで

タイトルから中身を想像することが難しい村上春樹さんの新作、今回もまずは深読みを楽しみながら手にとりました。本作品については事前に「父親と一匹の猫を棄てにいく」「村上春樹の私小説」という情報を握りつつも、どこか角を曲がった先に場違いな風景が待っているのでは、という心の準備をしながら読み進みました。結局そのような唐突な展開はなかったのですが、春樹さんが父、千秋さんの、大戦を挟んだ時代を含めた足跡を辿っていくにあたり、シンプルな家族譚と思われた物語が次第に重みをもってきました。

「歴史のひとつの光景が(中略)ちょっと不思議な、あまり普通ではない角度で切り取られている。」

という、ある父親の、家族の歴史が繊細に描かれていました(この表現は春樹さんならでは、好きな一節です)。この文を書くにあたって改めて本を開くと(私の場合は電子書籍端末を起動すると)古い書棚から取り出した、セピア色の、少し甘い匂いのする紙の手触りが伝わってくるような感覚が蘇りました。

冒頭、(村上)春樹少年は父(千秋さん)の漕ぐ自転車の後ろに乗って、海辺に飼い猫を棄てに行ったと語っています。そのエピソードは意外なほど呆気なく幕を閉じてしまったので、その後に続くページでは何が語られるのだろうと気になり始めました。そこでは父との関係に触れ、春樹さんが調べたり、家族や関係者からもたらされた話から、千秋さんが亡くなった今となっては推し量ることしかできない千秋さん自身の戦時中の体験や思いから窺える人物像、家庭を築いていく様子が語られていきます。そして中身を見ることが躊躇われた父の過去や父子の断絶から和解に至る過程などについても赤裸々に、誠実に綴っておられます。
重ね重ね申し上げるように、春樹さんの作品タイトルは常に意表を突かれますが、このタイトルが伏線となり、結末に腑に落ちるような心地よさがあります。

この本で特に印象に残っていることは、僧侶の系譜としての贖罪のあり方です。

「僕の知る限り一日たりともその「おつとめ」(と父は呼んでいた)を怠らなかったし、誰にもその日々の行いを妨げることはできなかった。そして父の背中には、簡単には声をかけがたいような厳しい雰囲気が漂っていた。」

有り体に言えば「背負った十字架」となるでしょうが、ここでは千秋さんならではの「遍路」のようなものだと感じました。

千秋さんと春樹さんは仲違いしてしまったものの、互いに自分の信念を曲げなかったこと、そして後年和解に至ったことについては 〜私はべき論はあまり好まないのですがあえて申し上げるならば〜 不器用で、正直で、ある意味父子という男同士の関係性を感じます。そして和解に至るまでに紆余曲折あったというのも肯けます。

父子の関係については、私自身の家族を考えながら読み、読みながら想像しました。私と春樹さんの共通点は「ひとりっ子」ということです。その点では父との触れ合い方はある面似通ったところもあります。ただし私の場合、父との血縁関係が無いことを、長じてから唐突に知ることになり、知った時の前と後では父親の思い出がはっきりと色を変え、温度も失ってしまいました。当時の心模様は今ではずいぶん色褪せてしまいましたが、私もある意味「棄てられた」という絶望感に苛まれていたようだと本書を読むことで思い至りました。しかしこれまで思い出として大切に綴じてあった第一章が予想外の結末を迎えても、第二章に登場する自分が姿を変えることはなく、朝起きて働き、陽が沈むと眠り、時々羽目を外して酔い潰れる、そんな日々が、年月が過ぎ、いつしか傷は瘡蓋の下に見えなくなっていきました。

自身のルーツをいつかは知った方が良いのかどうか、不惑を幾分か過ぎた今でも迷っています。当時の真相を知り得る唯一の証人であろう母は健在ですが、人生の終幕が近い老母に多くを聞くのは憚られ、あとは成り行きに従うことにしています。話すことによって自分が負ってきたきた荷を下ろすことができるのであれば、人はその時が来たら話すのだろうと思います。しかしそういう意味では、私はまだ荷を受ける器になっていないのかもしれません。そして「わからないことは知らなくてもいい」のだと、今のところは自分を納得させています。その代わりに自分の息子に対しては全力で向き合い、父として何が残せるかを日々自問自答しています。そして吾子の器以上に語りすぎないことを肝に銘じています。

千秋さんの目から春樹さんはどう見えたのでしょうか。私は今息子を見下ろしながら、それを千秋さんに尋ねてみたくてなりません。いつか私も、私を通して見た息子について何か遺したいと考えるようになりました。
春樹さんが千秋さんと和解し、父の足跡を辿ったこと、それを本書として遺せたことは春樹さんなりの決着のつけ方であり、『猫を棄てる』という表題は、『父を棄てる』ことを以て結んだのではないでしょうか。

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