映画『1999年の夏休み』 少年たちの静謐な焦燥
早稲田松竹で『1999年の夏休み』を観てきました!
堀木は1999年生まれに中々のプライドを持っていますから、1999年を冠した映画が観られるとあらば飛んでいくわけです。
そして、本当に良い経験をしました!
現存する中で一番美しい映画です!
少なくとも、私が知る中で一番美しい映画です!
あらすじ
https://youtu.be/xOwvDiXs9A8?si=uN235qxO4GQog3Vm
森に閉ざされた全寮制の学校で、悠という少年が湖に飛び込んで自殺しました。
彼の亡きあと、夏休みに入ってほとんどの生徒が家に帰る中、3人の少年が寮に残って生活していました。
兄貴肌の直人、神経質で殻に篭りがちな和彦、1人だけ年下で甘えたがりの則夫です。
和彦は生前の悠に想いを寄せられており、そのことがどうにも3人をぎくしゃくさせています。
そんな中、悠に瓜二つの薫という転入生が現れ…。
少年としての少女たち(※ネタバレあり)
ご想像の通り、とても耽美で瑞々しい作品です。
何がすごいって、少年役は全て、少女が演じているんです。そして一部の役は声優が声を当てている。この独特なキャスティングが、少年たちの無二の美しさを作り上げています。
いや、もう本当に、各役者の演じる"少年"が美しすぎたのでそれぞれ語らせてください。
このnoteで映画を語るのは初めてですが、私は役者が好きで映画を見ているので、必然役者語りに熱量が偏ってしまいます。ご了承ください。
悠/薫(宮島依里)
演じる宮島依里さんは、かなりあどけなく、優しげで、人の良さそうな印象です。
しかし、純粋で思い詰めがちな悠を演じる時は、ぞっとするほど神秘的に見えます。
そして無邪気で自由な薫を演じる時には、ついつい心を許してしまいそうなほど魅力的に。
いわゆるミステリアスな少年、という雰囲気でないのが、かえって日本でトーマの心臓をやる意義だなあと感じます。
和彦(大寶智子)
和彦を演じる大寳智子さんは、知っていても少年にしか見えないほど格好良い方です。
いわゆるすらっとした「男装の麗人」的な容姿ではない、唯一無二の少年役です。
先日の、同じ金子監督の『ゴールドボーイ』についてのnoteにも書きましたが、金子監督の撮り方からは、「このキャラがメイン」と断定しない俯瞰的な印象を受けます。
この『1999年の夏休み』でもそれは同様で(というかこちらが原点なのでしょうが)、和彦という少年がここまでのキーとなるとは、始まってしばらくは気がつきません。
けれど気づけば、神経質な少年は、様々な感情の揺れ動きを見せるようになっているのです。
薫に心を開いてからの柔らかな表情のギャップは見事なものでした。
直人(中野みゆき)
中野みゆきさん演じる直人は、和彦と打って変わってとても「男装の麗人」的な美しい少年です。
そして、声をあてている村田博美さんの男声の色気がすごい!
直人に関しては、冒頭からしばらくセリフを一つ発するごとに浮き足立つほどの衝撃がありました。
そんな彼は、和彦に密かに情念を抱いています。
寄宿舎の同室で、魘される和彦に寄り添う姿が美しかったです。
則夫(水原里絵)
きりっとした涼しげな顔立ちは、当時から既にオーラを感じさせます。
「水原里絵」とは、深津絵里の別名義なのです。
クールな印象とは少しギャップのある、末っ子キャラの意外性がかわいらしい則夫。
4人の中で一番大胆な短髪なのに、見事に似合っています。
自分だけ仲間外れのみそっかすと感じている則夫は、1人だけ少し幼いために、他の3人とは見えている世界がまだ違っています。
3人がじりじりとした焦燥感に襲われている原因、少年期の終わりを則夫はまだ知覚していないのです。
4人以外の存在(※ネタバレあり)
この映画には、4人の少年以外の存在が、実体として出てくることはありません。
冒頭、無人の寄宿舎に大人数の子どもたちの賑やかな声だけが響き、走る足音に従ってカメラが動いていくのは、とても巧みな演出でした。
生徒役の省略と言ってしまえばそれまでですが、今は無人の校舎に賑やかな頃を夢想しているような、今作の浮世離れした雰囲気を最初に物語る名演出だったと思います。
ただ、一人だけ、4人以外の声の存在がありました。
冒頭、薫が列車に乗ってやってくるシーンのナレーションです。
「あの懐かしい1999年の夏 私は奇妙な少年たちと出会った」といった旨を、大人の男性が語っています。
ここで観客は、一つのミスリードに誘われます。
招かれざる客人である薫は、3人の少年たちに巻き込まれる、語り部側なのだろう、と。
そのつもりで見ていくと、中盤までのストーリーは一見筋が通ります。
全く心当たりのない赤の他人と重ねられ、糾弾されつつも、その屈託のなさで少しずつ3人の心を溶かしていく。
めちゃくちゃ王道主人公です。
しかし、直人の不吉な予感は的中し、薫は姿を変えた悠だった。
そして薫は和彦と湖に入水し、助けられた和彦と違って、忽然と姿を消します。
すなわち、薫が冒頭のナレーションの歳になるのは不可能なんです。
すると、ナレーションのタイミングで薫が映っていたのはミスリードで、他の3人の誰かなのでしょうか。
それが誰かを特定する材料は本編にはありませんでした。
もしかすると、誰であるかはどうでもよく、「大人になってしまった誰か」の回想であることが重要だったのかもしれませんね。
近未来としての1999年
ランプを持って夜、寮を抜け出す悠。鐘を鳴らして朝を知らせる則夫などを見ていて、1999年ってこんな生活だったんだ〜と新鮮に感じていました。
こんなサイバーパンクだったんだ〜と。
そんなことは全然ないみたいです。
というのも、映画が公開されたのは1988年のこと。
当時としては、11年後の近未来を描いた作品だったのです。
実際には存在しなかった未来って、時空の特異点みたいでわくわくしますね。
クラシカルな装いに、少しSFのエッセンスを垂らした雰囲気、とってもロマンがありました。
あと、サザエさんの伝説回でしか見たことなかった「全自動卵割り機」が出てきてました。
少年期を描き続ける創作物
私は創作において長いこと、「少年少女の閉鎖的な愛憎劇」というモチーフに固執してしまっていました。
影響を受けた作品で言えば『ライチ⭐︎光クラブ』『"文学少女"シリーズ』『宝石の国』『Thisコミュニケーション』などでしょうか。
演劇サークルに入っていた大学時代も、そんな脚本ばかり書いてしまっていた気がします。
でも、当時から既に、大学生が「少年」とかやるの、さすがにキツイなあと感じていました。
演劇界はやっぱり10代、せめて"若者"と言えるうちが華、という空気がうっすらあるんですね。
もちろん遅咲きの優れた役者さんは多くいらっしゃいますが、とても狭き門です。あと強い精神力が必要です。
そんなときお笑いというものに触れて、30代でもまだ若手とされている状況に、えー!と驚きました。
「おじさんの方がウケやすい」という説があるように、どの年齢でも、笑いに生かす方法は必ずある、と感じさせる先輩方が何人もいます。極端な例だと、吉本のおばあちゃんとか、ラブリースマイリーベイビーズとか。
お笑いを始めた理由の一つに、そんなんがあったりします。
今日の映画飯
寄宿舎の朝ごはん風です。
則夫はオムレツしか作れないようですが、うちは卵焼きフライパンしかないので、無事に卵焼きの形のオムレツになりました。
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