現実と模型の境界線(企画展「松江泰治 マキエタCC」を観て)
東京都写真美術館で開催されていた企画展「松江泰治 マキエタCC」を観てきた。
松江泰治さんは撮影する際に、
・画面に地平線や空を含めない
・被写体に影が生じない順光で撮影する
というルールを定めている。世界各地の都市や街並みを撮影しているが、どの建物も等価で扱われているような感覚が、資本主義下の社会の虚構のようなものとオーバーラップして感じられた。
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今回の企画展は、これまで松江さんが手掛けてきた<CC>と<makieta>という2つのシリーズの作品が展示されている。
<CC>とは上述したような、世界各地の街並みを写したものだ。<makieta>とはポーランド語で「模型」を意味し、世界各地の都市や地理の模型を、<CC>と同じルールで撮影したものだ。
美術館とは、たいていの作品は、距離をおいて作品を眺める。そうすると不思議なもので、目の前の作品が<CC>なのか<makieta>なのかが分からない。
つまり、実際の都市なのか模型なのかが判別つかないのだ。
それは模型が精緻に作られているから、という理由で片付けることはできない。たぶんそれは人間の脳や目の構造によることが大きい。あらゆる物事を単純化して処理してしまっている。写真というフォーマットで映し出されると、人間の「不具合」を露呈されるような感覚がある。
とりわけ日本の街並みは、どことなく無個性に思える。無個性な日本の街並みを「模型」として作り上げれば、その模型もまた無個性な姿になる。
だけどその同じ無個性なものたちには、決して交差しない違いがある。僕が思うに、それは人の存在の有無ではないか。
目を凝らしてみれば、現実を写した写真には、人間の生活の色やにおいを感じることができる。考えてみれば、当たり前のことだけど。
だが松江さんの写真には、痛烈な皮肉がメッセージとして込められているような気がしてならない。
現実社会における人間の生活の色やにおいが、だんだん薄まってはいないだろうか。模型化に近付いてはいないだろうか、と。
無個性に見えるけれど、決して消してはならない個性を、もう一度取り戻すべきではないか。皮肉だけでなく、そんな願いもまた込められているような気がした。
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