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日本でロックダウンができない理由は、憲法のせいではない件

なぜロックダウンができないの?

 コロナ対策については様々な議論が行われています。「憲法改正しないとコロナ対策で私権制限ができない」などというあまりにも粗雑な議論がデタラメであることは、先日の記事で簡単に説明したところです。

 今回はもう少しテーマを絞って、ロックダウンについて考えてみましょう。諸外国で行われているような強制力のあるロックダウンが日本でできない理由はなぜでしょうか?

 いろいろな説明の仕方が可能でしょうが、直接的な理由としては至って簡単な身も蓋もない話で、「ロックダウンをする法律が、まだ存在しないから」です。(後で述べますが「憲法にロックダウンが書いてないから」ではありません。)

権利や自由の制限をするには法律の根拠が必要

 そもそも公権力が市民や企業(法人)の自由・権利に対して制限を加えるには、法律の根拠が必要です。(俗にいう「私権の制限」)

 例えば、道路交通法がなければ、スピード違反を取り締まることはできません。また食品衛生法がなければ、食中毒の危険を理由として店舗に営業停止を命じることもできません。

 これらと同じで、ロックダウンについて具体的に内容を決める法律がなければ、感染症の拡大防止のためとはいえ、ロックダウンできるわけがないのは当然のことなのです。

(ちなみに、「憲法で非常時にロックダウンできるということを決めてないから、できないのだ」という人もいますが、これは「憲法にスピード違反取り締まりを書いていなければスピード違反を取り締まれない」とか「憲法で公害防止のために工場の操業を制限できることを書いてなければ、工場の操業を規制できない」というのと同じくらい勘違いの主張です。
 スピード違反取り締まりも工場の操業制限も、自由や権利の制限にあたりますが、憲法には何も書かれていません。)

 ロックダウンをしようとしても、そもそもロックダウンを行う目的は何か(ここでは感染の拡大防止が目的)、その目的のために何をどのように規制するのか、規制に従わなかった場合の刑罰は何か、等についての具体的な法律がなければどうにもなりません。

ロックダウンの法律を作ったら憲法違反なのか?

 これに対しては
「今の憲法のもとでは、ロックダウンの法律を作ろうとしても、憲法に違反するから、結局はできないのではないか?」
 という疑問が当然出てくることが考えられます。この点はどうでしょうか。

 憲法に違反するというのは、憲法の具体的な条文に違反するということです。ロックダウンの場合、どの条文が問題になるでしょうか。

 一般に移動の自由と営業の自由が憲法22条1項によって保障されているとされているので、まずは22条1項違反かどうかが問題となります。

第22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

 一方、ロックダウンが行われると、講演会、集会、デモ行進、演劇や映画の興行などが実施不可能ないし困難になるので、これらの表現の自由を保障した憲法21条1項との関係も問題になります。

第21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 但しロックダウンの場合、表現行為それ自体を規制対象にするわけではなく、表現行為だろうと他の行為だろうと関係なしに、人の移動や密集や活動を等しく全般的に規制するのですから、憲法21条の問題は付随的であり、憲法22条が問題の中心だといえるでしょう。

憲法違反かどうかは「目的」と「手段」から考える

 それでは、ロックダウンは憲法に違反するのでしょうか。
 実はこのような質問の立て方は、あまり適切ではありません。というのは、漠然と「ロックダウン」というだけでは、つかみどころがないからです。
 単純にいきなり「ロックダウンは違憲or合憲だ」という答えが出てくるわけではなく、一定の判断基準に従って個別に判断することになります。

 一般に判例や学説の観点では、自由や権利の制限(規制)が憲法に違反するかどうかの判断基準は、規制の目的と手段から考えていくこととされています。何の目的もなく規制することなどあるわけがないし、また規制手段が強いか弱いかで判断も違ってきますから、これは理解できるでしょう。

 そういうわけで、ロックダウンにしても、その他の規制(私権制限)にしても、「目的」(=規制によって守ろうとするもの)と「手段」(=規制のあり方)を具体的に考えてみないと、憲法に違反するかどうかの判断のしようがありません。

規制の「目的」が正当でなければならない

 まず、何のために憲法上保障された自由や権利を規制するのか、その「目的」が重要です。
 わざわざ法律を作って自由や権利を制限するからには、当然何らかの「目的」があることになりますが、どんな目的でも良いわけがありません。

 例えば、仮にロックダウンの「目的」が政治家や企業の私利私欲であれば、そんな目的に正当性などあるはずがありませんから、憲法違反に決まっています。不当な目的による権利の制限など、憲法は許容していないからです。
 極論として、現実的にはありえないでしょうが「ロックダウンをすれば宅配や運送業界が儲かるから、それを目的としてロックダウンする法律を作る」とか「ロックダウンをすれば内閣を批判する集会やデモ行進がやりにくくなるから、やろう」などというのであれば、目的自体が不当であり、当然に憲法違反ということになります。

 いうまでもなく、実際に世間で議論されているロックダウンは、コロナウイルスなどの感染拡大防止など生命・健康・安全の保護が目的ですから、目的そのものはもちろん正当と言えるでしょう。(先に挙げた道路交通法や食品衛生法による規制の例も、生命・健康・安全の保護が目的であることを思い出してください。)

「手段」も問題となる

 さらに、目的は正当だとしても、今度は手段について検討する必要があります。つまり目的を達成するために、どのような規制を行うのかという観点です。

 まず、行おうとする規制が、その目的にとって役に立つ手段でなければなりません。つまり適合性があることが必要です。
 例えば、仮にロックダウンをしても感染拡大防止ができない(手段が目的にとって役立たない=適合性がない)のであれば、国民に犠牲をしいる意味がまったくないのですから理不尽であり、当然、憲法違反ということになるでしょう。
 やっても無駄で役に立たない規制だったら、世間の人々を苦しめて損害を与えるだけで何のメリットもないのですから、やらない方がマシなのは当たり前のことです。

 次に、その手段が目的にとって必要性がなければなりません。
 例えば、ロックダウンよりもゆるやかな規制(大規模店舗の営業時間制限や交通の部分的制限など)で、同じ程度の感染拡大防止効果を確保できるのであれば、ロックダウンまでする必要がないのですから、ロックダウンは憲法違反だと考えられます。
 より軽い規制でも同じ効果が得られるなら、コストや弊害が小さい「軽い規制」の方がマシに決まっているからです。

 また、手段と目的とのバランス(比例性)が取れていなければなりません。
 例えば、風邪がはやるのを防ぐためにロックダウンするというのであれば、目的と手段とのバランスがあまりにも悪く、いわば10円相当の商品を買うために200円払うようなものであり、目的は正当だとしてもデメリットが大きすぎるので、やはり憲法違反ということができるでしょう。

 以上のような具体的な議論をするためには、医学や公衆衛生学など科学的見地も必要でしょう。
 従って現時点では、「現行憲法下でも、ロックダウンは当然にできる」とまでは断言できませんが、「現行憲法下でも、ロックダウンは当然には違憲とはいえない」という程度の言い方なら可能でしょう。

憲法に「自由・権利を例外的に規制できる場合」をすべて明記するのは不可能

 この点、「これでは、違憲かどうかの判断がいちいち面倒だ。憲法の条文に、最初から『例外的に規制できる場合』を明記するべきではないか」という意見もありそうですが、現実問題として、「規制が必要と思われる状況」「規制する目的」「規制する手段」は無限にありうるのですから、そのすべてを想定して憲法の条文に書き込んでおくことなど不可能です。

 (最初に述べたように、今でも、移動の自由の例外として「スピード違反の取締り」を憲法に書きこんだり、営業の自由の例外として「食中毒防止のための営業停止」をいちいち憲法に明記したりしているわけではありません。)

その他の観点からの検討も必要

 なお以上では「営業の自由」「移動の自由」という観点を主に念頭において検討しましたが、他に財産権(憲法29条)生存権(憲法25条)からの議論も必要です。

 あまり立ち入る余裕はありませんが、財産の補償や生活面での支援などの観点も問題になってくるでしょう。

必要と思うならとにかく法律を作るしかない

 いずれにしても、ロックダウンが当然には違憲とは言えず、現実の情勢からみて必要性が一応考えられるのであれば、内閣はロックダウンの法律について立案し、国会で真剣に討論して法案成立を考えるべきだということになります。
 特に、何か手を打たなければ多くの人命に対する重大な危険が予想されるのであれば、後に憲法違反と判断されるリスクがあるにしても、法律作りを急ぐべきでしょう。

憲法の方を変えると権力の悪用・濫用に対する歯止めがなくなる

 この点で
「ロックダウンは当然には違憲ではないとしても、場合によっては違憲になる可能性も残っているわけだ。そうなると、不満を持つ人々が、違憲を主張する訴訟を起こして、政府が困るのではないか。違憲になる可能性がまったく起こらないように、憲法を改正して、自由を規制しやすくするべきだろう」
という人もいますが、これは本末転倒です。

 ロックダウンが必要であるとしても、権利・自由に対する制約であることには違いないし、目的や手段が不当なロックダウンが行われる危険性も常にあるのですから、憲法による自由の保障の方を弱めるべきではありません。(憲法自体を変えると、違憲の主張ができなくなり、逆に不当なロックダウンが行われたときの歯止めがなくなる恐れがあります。憲法は、権力の悪用や濫用に対する歯止めなのです。)

 場合によって憲法違反を主張して訴訟を起こし、裁判所で争うというのは、むしろ手続としては健全なことであって、何もおかしいことではないのです。
 「訴訟を起こされたら困る」というのは、単に行政当局者の目線の都合でしかなく、市民の側が心配することではありません。

多くの国は法律だけで対応し、憲法上の緊急事態などの強権は使っていない

 また「国会で議論して法律作りをしている暇なんかない。憲法を改正して、緊急事態条項や戒厳令条項を作り、いざというときには政府に強権を与えろ。諸外国はそうしている」という人もいますが、これも正しくありません。

 少なくともアメリカ、フランス、ドイツ、ニュージーランドは、コロナ危機に対応して法改正や法律の制定を行い、その法律に従って規制を行っているだけであって、いわゆる戒厳令や憲法上の緊急事態条項のようなものを発動させて特別な強権を行使しているわけではありません。

(この点は、下記の文献が参考になります。)

「改憲して政府に強権を与えろ」という発想自体が不当

 また、この種の「法律を作っている暇がないから、改憲して、政府に強権を与えろ」という議論は、法律がなくても政府が行う施策に強制力を与えるようにしろということですが、強制力というのは刑罰が究極的な裏付けになりますから、結局は、法律がなくても政府が刑罰を決めることができる社会を目指すことになり、非常に危険な発想ということができるでしょう。

 (この点、自民党の改憲案の持つ問題点については、以下の記事をご参照ください。)

 「むずかしいことが起こったら、政府(内閣)に巨大な権力を与えて全部丸投げして任せれば良い」というのは思考停止です。

 実際問題として、法律がまだ存在しない分野で重大な異変が起こり緊急を要する事態になった場合は、民間人に対して、強制ではなく任意の協力を求めつつ、政府や自治体が行動することになります。場合によっては(物を撤去したり破壊したりするなど)、事後的に補償や賠償で対応することもありうるでしょう。

0か100かの問題ではない

 以上のように考えてみると、「今の憲法では私権制限(ロックダウンなど)はできない。だから改憲しなくては」などという主張が、物事を単純化した有害無益な発想であることがわかるでしょう。

 「今の憲法のもとで、私権制限ができるか」は、0か100かの二者択一の議論ではないのです。「目的」と「手段」の関係を見て、妥当かどうかを具体的に判断し、議論を積み上げていくしかないので、簡単な答えはありません。
 (例えば、最近国会で特別措置法の改正を審議したときに、入院拒否者に対しては懲役刑を科する案になっていましたが、最終的に修正されて、懲役刑は実現しませんでした。これはまさに、規制の「目的」は正当だが「手段」が不適切なので検討して見直したという一例です。)

 その意味で、ロックダウンができないのは、少なくとも直接的には「憲法のせい」ではありません。まずは、憲法に適合する観点で法律を作るために議論をしていくしかないのであって、現に様々な国がそうやっているのです。

最後に - 憲法違反と政策的な賛否は別問題

 なお最後に付け加えると、「ロックダウンが憲法違反かどうか」と、「ロックダウンが政策として妥当かどうか」は、また別問題です。

 ロックダウンが一定の前提条件で憲法に違反しないとしても、経済・雇用などの面でマイナス面が大きいから賛成しない、という立場は当然ありうるでしょう。
  消費税を8%から10%に上げるのが憲法違反でないとしても、賛成しない人が多くいるのと同じようなものです。

よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。