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過去の歴代天皇の顔ぶれや人数は、時代によって増えたり減ったりする件

天皇の数は126代?

 皇位継承が話題になるごとに「現在までで126代になる天皇の歴史をどう守るか」みたいな言説がよく聞かれるようになりました。

 宮内庁の公式見解では、神話上の神武天皇を初代とすると、確かに現在で天皇は126代となります。

 しかしこの歴代天皇の中には後になって追加された天皇がいる一方で、逆に後になって排除された天皇もいるので、126代という数え方の元になっている基準は、実は時代によって変わってきているのです。基準が変われば、今の天皇も126代ではなく別な数え方になっている可能性があるわけです。

 その例をいくつか見て見ましょう。

北朝天皇と南朝天皇

 まず真っ先に思い浮かぶのが、南北朝時代の北朝の天皇です。

 江戸時代の皇室や公家の名鑑『雲上明覧』を見てみましょう。(人文学オープンデータ共同利用センターのデータベースより引用)


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これによれば95代・後醍醐天皇、96代・光厳天皇、97条・光明天皇、98代・崇光天皇、99代・後光厳天皇、100代・後円融天皇、101代・後小松天皇となっています。

 それでは、現在の宮内庁の公式サイトではどうでしょうか。


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 これによると、まず後醍醐天皇が95代ではなく96代になっていますが、その理由は後で説明します。この時点で1代後倒しになっていることだけ覚えておきましょう。その次の97代は光厳天皇ではなく、先ほどの文献には登場しなかった後村上天皇になっています。その後も同様に、98代が長慶天皇、99代が後亀山天皇と続き、100代が先ほど(101代として)登場した後小松天皇。

 江戸期の『雲上明覧』には登場しなかった後村上・長慶・後亀山の三天皇は、南朝の天皇なのです。

明治に正統な天皇の系譜が逆転した

 なぜこんなことになったのかというと、江戸期には南朝の天皇は正統天皇とは公式には認められず歴代天皇には含まれていなかったのが、明治以降、公式に南朝が正統とされ、反対にそれまで正統とされていた光厳天皇から後円融天皇までは歴代からはずされて「北朝」とされたのでした。

 ちなみに現在の皇室の直系の祖先は、南朝の天皇ではなく、北朝の光厳天皇や崇光天皇なのですが、これは1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器と皇位を「譲った」ことで、それ以降は北朝の流れを継ぐ天皇が正統な天皇になったから問題ない、ということとされています。
 (但し、これは明治期以降に通用した説明です。江戸期以前に公式に通用した見解としては、正統な天皇はあくまでも北朝の天皇であり、南朝の天皇は自称天皇の反逆皇族で、最後に南朝側の自称天皇(後亀山天皇)が、もともと正統な北朝の後小松天皇に対して三種の神器を「返した」だけというものでした(但し南朝正統説自体も江戸期以前からありました)。)

神功皇后は第15代天皇だった

 北朝天皇以外にも、後になってから「いない」ことにされた天皇がいます。それが江戸期以前には第15代とされていた伝説上の神功皇后で、彼女は第14代の仲哀天皇の妻であるとともに、自らも皇族でした。

 仲哀天皇が没した約10ヶ月後、神功皇后はその皇子(後の応神天皇)を出産するのですが、その間は当然、天皇にあたる人が誰も存在しなかったわけであり、さらに実際に応神天皇が即位するのは神功皇后が亡くなった約68年後とされているので、その間は神功皇后が第15代天皇と考えられていたのでした。

 しかし大正になって、神功皇后は天皇ではないという解釈が公式見解となったため、15代からはずされてしまい、そのまま応神天皇が15代に繰り上がったのです。

後になってから「増えた」天皇

 これまで歴代からはずされた天皇の例を挙げてきましたが、逆に後から増えた天皇の例を見てみましょう。

 まず7世紀後半の弘文天皇(39代)。これは天智天皇の子の大友皇子ですが、天智天皇の没後、天皇の弟の大海人皇子と皇位をめぐり争って、激しい戦いの末に敗死しました(壬申の乱)。

 大友皇子は正式には天皇に即位する前に亡くなったものとされて歴代天皇には含まれていなかったのですが、即位説もあり、明治以降になって、即位されたものと解釈され、歴代天皇に加えられて「弘文天皇」と呼ばれ、39代天皇になって現在に至ります。

 最後に仲恭天皇(85代)を紹介します。鎌倉期の後鳥羽上皇の孫であり、後鳥羽上皇が承久の乱を起こした1221年に、父の順徳天皇から皇位を譲られてわずか4歳で即位したのですが、即位の礼も大嘗祭もないまま、すぐに後鳥羽上皇が鎌倉幕府に破れてしまったためわずか78日間で退位させられました。

 こういう状況から、長い間、単に「廃帝」などと呼ばれて歴代天皇の代数にも加えられていなかったものの、これも明治期に85代の「仲恭天皇」とされています。

歴史とか伝統は、「今」の解釈で変わってくる

 最初に述べた後醍醐天皇の順番がズレている理由も、これでわかるでしょう。江戸期は95代だったのが、明治期になって神功皇后をはずし、弘文天皇と仲恭天皇を加えたため、結果的に-1+2で1代ずれて96代になって現在に至るわけです。

 このように考えると、今後も何らかの理由で過去の歴代天皇の人数の数え方がまた変わる可能性がないとは言えません。「歴史上、誰が正統な天皇であるのか、天皇は何人いたのか」というのは、その時代の解釈(や歴史についての知識)によって変わってくるわけです。

 ちょっと大胆なことをいうなら、天皇の歴史や伝統と呼ばれるものは「その時代の解釈や知識に基づいて天皇とされた過去の人々の歴史・伝統」だということが言えるでしょう。

 これは逆に、過去だけでなく将来のことについてもいうことができるのではないでしょうか。
 たとえば「女系天皇はこれまでいなかったのだから、仮に女系天皇が登場したとしても、伝統に反し、天皇とは認められない」という類の言説がありますが、解釈が変われば当然、前提となる「伝統」観そのものが変わってくることになります。

 「男系でも女系でも、とにかく血縁がつながっていれば天皇だ」と考える時代がくれば、女系天皇があらわれたとしても伝統の一部にそのまま組み込まれて解釈されるだけですから、伝統はまったく切れていないことになるのです。


 

  

 


 

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