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皇族は「人権を制限されてる」の?それとも「人権はない」の?

眞子さん問題で注目された「皇族の人権」

 このnoteでも何度も取り上げてきた世間で騒がれている眞子内親王と小室さんの結婚もようやく正式発表となりましたが、この問題を機に、「皇族の人権」が話題になるようになりました。

 これは私の著作『13歳からの天皇制』でも大きな分量を割いて論じているテーマの一つです。(まだの方はぜひお読みください) 

皇族は、国民と同じ人権保障は受けられない

 今回の記事では、いわば入門編として、どういう考え方があるのか、その簡単な紹介だけしてみます。

 実は「人権」という言葉も人によって広い意味で使われたり狭い意味になったりして、そこが議論がかみ合わない元になったりすることもあるので、ここでは一応「日本国憲法の条文により保障された権利」という意味で使うことにします。
 (人間としての尊厳とか、その憲法の保障によって守るべき自然権とか、そういう意味ではないことに注意してください。)

そもそも人権はないのか、制限されているのか?

 さて、皇族が一般の国民と同じレベルでの人権の保障を受けていないことは、誰でも直観的に理解できるでしょう。「職業選択の自由」や「居住移転の自由」や「外国移住の自由」や「参政権」などを考えてみればわかります。

 そこで次に問題になってくるのは

A説:そもそも皇族には基本的人権の保障がない
B説:皇族にも基本的人権はあるが、一般国民と違う制限がある

…のどちらなのかということです。

 憲法学者の間でもこの点についての見解は分かれています。

A説の論者としては、樋口陽一、佐藤幸治、長谷部恭男などがいます。一方B説は、宮沢俊義、芦部信喜、戸波江二、横田耕一などです。

 具体的に検討してみましょう。

「皇族には人権保障はない」説

A説は、天皇・皇族は基本的人権を保障される「国民」には含まれない、別枠の存在だと考えます。世襲で受け継がれますから、国民とは別な「身分」ということができるでしょう。

そして歴史的経緯を踏まえて、次のように考えるのです。

もともと近代より前は、社会全体に様々な身分があった。君主、貴族、市民、農民、さらに地域ごとの集団。近代国民国家が作られていく中で、それが次第に崩れて、社会の中の様々な身分から「個人」が切り離され、平等で自由な個人=国民が作られた。

この国民に基本的人権が保障されるわけですが、天皇・皇族は、この「国民」の中に入らずに残された、旧時代の身分制の最後の残りだと考えるわけです。「身分制の飛び地」という表現を使う論者もいます。

皇族にあるのは人権ではなく、身分上の特権と義務

 国民が国家に対して自由などを保障されるのが憲法上の人権(の保障)だとすると、天皇・皇族の場合は、国家に対して保障される自由など最初からなく、単に身分に伴う特権や義務があるだけだ、という結論になります。

 このA説では、憲法上の人権の保障規定は天皇・皇族には適用されません。例えば、皇族の結婚どころか、恋愛や友達づきあいまでも皇室会議の許可がないとできないというような厳しい法規制を作って皇族の行動を縛ったとしても、憲法違反の問題は起こらないということになります。
 もともと憲法の保障する人権がないのであれば、厳しい制限を課してもその人権が侵害されたことにはならず、憲法違反の問題も発生しようがないというわけです。

残酷な状況を何とかするためには?

 この考え方は一つの理屈としては成り立ちますが、憲法以前の問題として、皇族の個人の尊厳や人間性に対して極めて残酷な結果をもたらしかねないのがA説だと言えるでしょう。

 なおここまで読んでおわかりの人もいるでしょうが、A説の憲法学者は、皇族が残酷な束縛を受けても問題ないと言っているのではなく、この残酷な状況を変えたいのであれば、そもそも根本的問題として、天皇制自体に無理があるということを(暗に)言っていると考えることができます。

「皇族にも人権はあるが特殊な制限を受ける」説

 一方のB説はどうでしょうか。
 この説は、「皇族に基本的人権の保障はあるが、一般国民とは違う制限を受ける」と考えます。憲法で保障されている人権にわざわざ制限を加えるのだから、何か正当な理由がなければならないだということになります。
 そこで「憲法自身が象徴天皇制を定めているから、その象徴天皇制の維持に必要なための基本的人権の制限に限り、許容される」と考える訳です。

 例えば皇族には憲法22条の「職業選択の自由」が問題となります。A説なら、最初から「皇族には職業選択の自由はない」で話は終わりです。これに対してB説の場合は、「皇族にも職業選択の自由はあるが、象徴天皇制を維持するため、やむを得ない範囲で制限を受ける」と考えるのです。

人権制限は必要最小限でなければならないはず

 B説の場合、常に「皇族はいろいろな点で人権の制限を受けるが、その制限は、象徴天皇制の維持にとって本当に必要な制限なのか?不必要な制限まで与えているのではないか?」と問い直さなければならないことになります。そして必要のない制限まで押し付けた場合は、憲法違反の問題に至るでしょう。

   (憲法13条は、基本的人権について「最大限の尊重を必要とする」と述べています。逆にいえば、人権の制限は「必要最小限」でなければならない理屈になります。皇族に対する人権の制限も、象徴天皇制を維持するためにやむを得ない限りにおいて「必要最小限」にとどめなければいけないことになるわけです。)

 そうなると、現在の皇室のあり方自体も、既に「不必要な制限」を課しているのではないかという問題意識にもつながってきます。「象徴天皇制を維持できる範囲であれば、もっと自由を認めても良いのではないか」という発想につながるのがB説です。

どっちの説に賛成ですか?

 どちらの説も一理あるように見えますが、ここまで読んでどう思われたでしょうか。

 A説は、非常に残酷なように見えますが、要は「皇室制度(天皇制)」と「国民の基本的人権の保障」とは、調和しようがない断絶したものだと言う考えです。ただ、今の憲法ではその両者が併存しているので、断絶した二つの世界が並んでいるだけだというふうに突き放して考えることになります。これを解決したいなら天皇制を廃止して、皇族の人々を解放し、国民の一員として迎え入れるしかない、ということです。

 B説は、基本的人権を保障された国民の一員に天皇・皇族も入れて、ただ天皇制があるからには「原則に対する一部例外」として処理し。その例外による違いはできるだけ小さくしようとする考えです。
 (A説の場合は、皇族は「原則に対する例外」ではなく「別な原則が支配する世界の人」となることに注意してください。
 これはA説のような残酷さはありませんが、逆に「今も既に、皇族の人々に対する人権制限・規制は行き過ぎなのではないか?」という疑いが常に発生し続けることになります。
 わかりやすくいうとB説では、象徴天皇制の維持のために本当にどうしても必要な「例外扱い」以外は、極限まで皇族を一般国民と同じ扱いにしていかなければならないはずです。

 このB説でいくと、究極的には、天皇は「世襲で職についた単なる公務員」のようになって、限りなく一般国民に近くなっていくはずであり、また天皇以外の皇族に「公務」を強制することはできないことになります(職業選択の自由を、天皇自身以外の皇族に対して制限するのは困難になります。憲法には天皇の国事行為は規定されていますが、一般の皇族の公務の規定はないからです。)。

最後に

 どちらの説が妥当かという結論はここでは特に決めつけませんが、最後に、両説の持つ「リアリティ」のようなものを整理して締めくくることにしましょう。

 A説は、先ほど触れたように、歴史的な経緯をイメージとして取り入れた説だと言うことが言えるでしょう。身分社会が崩れて近代国民国家ができあがり、その中で最後に残った身分社会が皇室だ、というわけです。 

 ただし現在の実際の皇室は、国民とは離れた「別身分」というにはあまりにも小規模で、しかも自立した財産もなく、国会が決議した予算で費用をもらい、国会が決める皇室典範に従っている存在です。そういう点で実際の現状のイメージとはややかけ離れた感じがしないでもありません。

 一方B説は、過去からの歴史的経緯よりも、天皇・皇族が我々と同じ社会の中で生きているという点に着目した発想ということがいえるでしょう。基本的には天皇・皇族も我々国民と同じであり、ただ特殊な例外扱いを一部受けているだけだ、という発想になるわけです。
 しかしこの説を徹底するなら、「今の例外扱いは行き過ぎで、おかしいのではないか」という問題意識が常に発生し続けることになり、その行く先において天皇制・皇室が果たして維持できるのかはまた別な問題となるでしょう。
 最大限まで人権を尊重されるということは、可能な限り一般国民と同じ扱いになることを意味するので、そのようにしてまで皇室の制度を維持するべきだと考える国民が果たしてどこまでいるでしょうか。

よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。